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幼馴染みで夏の大会

 山科の予言通り、俺たち茅島高校野球部は甲子園大会の予選で鍋島高校に四対二で勝った。  その後も悪戦苦闘はあるものの勝ち進み、今日、決勝を迎える。  うつらうつらと浅い眠りを過ごした夜が明け、カーテンの隙間から明るい日が射し込んできた。熟睡できなかった体は濡れた綿を詰め込まれたように重怠かった。俺は隣で寝ている拓斗に抱きつく。 「おはよう」  見上げると、拓斗はさっぱりとした顔で微笑んでいた。 「起きてたのか……」  拓斗が俺の両手を握りしめる。俺の手は真冬のように冷えていた。 「リラックスして」 「無理だよ……」  拓斗は軽くキスをする。俺を抱き締める。髪を撫でる。  それでも俺の手は真冬のように冷えている。 「友枝くんはリードがすごく良いんだって、春樹、言ってたね」 「……うん」 「橋詰くんはキャプテンの貫禄が出た」 「うん」 「山本くんは打球の延びがいい」 「うん」 「春樹は今の野球部が好きなんだよね」 「うん」  拓斗は俺の頬を両手で包み込み、俺の瞳の奥をのぞきこんだ。 「大好きな仲間と、野球できることを楽しんで」 「……うん」  目を閉じて拓斗の手を握りしめた。 「うああ……ぁ、よく寝た!」  弱音を吐いてから三十分、たったそれだけ寝ただけなのに、体は軽く、目はぱっちり。筋肉もよくほぐれている。 「起きた?」  扉から首をだし、拓斗がたずねる。 「おう。おはよう」 「朝ごはん、できてるよ」  拓斗のメシはうまい。今朝はとくにうまかった。拓斗は俺の好みを熟知して、その上体調も考慮してメシを作ってくれる。  今朝は白米にベーコンエッグ、水菜と人参の温豆腐、温野菜サラダ、ししゃもフライ、ジャガイモと玉ねぎの味噌汁、グレープフルーツ。  好きなものばかり食べられるなんて、気分はすでに祭りだ。俺は早朝の弱気など吹っ飛び、朝食をぺろりと平らげた。 「ごちそうさまでした!」 「元気出たかな?」 「おう!」  首をかしげて笑う拓斗に俺は大きくうなずいた。 「僕、スタンドの一番前で応援するよ。応援は誰にも負けないから!」  出がけに拓斗はそう言って、両手をぶんぶん振って見送ってくれた。  球場に向かうマイクロバスの中は異様な空気に包まれていた。  緊張で震えるもの、何やらお経のように呟きつづけるもの、やる気たっぷりなものまで。みんなそれぞれに自分と向き合っている。俺は目を瞑って昨年のことを思い出す。  まだ控えの投手だった俺はエースの松田先輩に頼りきりで、四球を出そうが、ヒットを打たれようが、なんとか後を繋いでもらえた。  今度は俺がエースとしてチームを引っ張らないといけない。けれど俺は松田先輩のような天才肌じゃない。カリスマも、強い性格も持ち合わせていない。  それどころか今朝だって拓斗がいなければ俺は起き上がることすらできなかったかもしれない。  情けない。でもそれが俺だ。 「俺、野球が好きだ」  ポツリと漏らした言葉を、友枝が聞き拾う。 「なんですか、突然?」 「俺、このメンバーと野球するのが好きだ。世界一好きだ」  後ろのシートから橋詰の手が伸び、俺の頭をはたいた。 「そういう死亡フラグみたいなこと言うのやめろ!」 「いってぇな! 俺は百歳まで生きるって決めてるんだ。心配するな」 「ふてぶてしいなぁ、春樹は。少しは遠慮してみたってバチは当たんないぞ」 「俺ほど繊細な男は他にいないぞ!」  遠くの席から山科が大声を張り上げる。 「そっすよ! 春樹先輩は肌が繊細でくすぐったがりですもんね!」 「お前、そういうのは繊細とは……、うひあ!」  友枝が俺の両脇をくすぐった。面白がって橋詰も手を伸ばしてくる。 「ちょ、やめ! お前ら!」 「騒ぎすぎてスタミナ削るなよ〜」  マネージャーの暢気な声は、俺を救ってはくれなかった。  球場につく頃には笑いすぎて俺の腹筋が痛んでいた。 「春樹のバカ笑い聞いてたら、なんかどーでもよくなったわ」  バスの中で震えていた滝口が言う。 「ですね。人生、どーとでもなる、って気づきました」  お経を唱えていた古賀も言う。 「……オヤクニタテテヨカッタデス」  俺たちは暢気に和やかに球場入りした。  熱気が降り注いでくる。スタンドからブラスバンドが演奏するSunny Days Sundayが聞こえる。  9回裏。相手チームの攻撃。  ここまで得点は茅島の一点だけ。  バッターボックスには四番打者。走者2、3塁。  カウントは2ストライク、2アウト。  絵に描いたようなピンチ。  そして絵に描いたようなチャンス。  ピンチの神は居座りたがり、チャンスの神は逃げ足が早い。  俺はスタンドを見上げる。  声を張り上げる応援団。手を振りあげる父兄。  ただ、立ち尽くす拓斗。拓斗は俺を見つめている。俺は拓斗に微笑む。  ここまで俺は一人で投げ抜いた。井川は一点になるヒットを打った。山本はフライを補足した。橋詰は三塁を守り抜いた。  みんなで一点を守った。  この一点をお土産に拓斗のところに帰りたい。  俺は大きく振りかぶって、大事なボールを投げた。  バットがボールの芯を捉えた美しい音がした。  そして、世界から、音が消えた。  ボールは大きな弧を描き、遠くへ、遠くへ飛んでいく。まるで最初から決まっていたみたいに、ボールはスタンドに吸い込まれていった。  わあっという歓声と共に音が戻ってきた。  俺はいつまでも真っ青な空に残された白球の軌跡を見つめていた。  撤収はもくもくと素早く行われた。みんな地面を見つめたまま働いた。  球場を出たところで、保坂が泣き出した。橋詰が泣き、友枝が泣き、みんなが涙を流した。  俺はひとり乾いた瞳で叫ぶ。 「次へ行くぞ!」  俺の言葉にみんなが顔をあげる。 「次は秋だ! 休んでる暇はない! 帰ったら練習だ!」 「はい!」  一、二年生から力が入った返事が飛び出す。  三年は鼻をすすりあげ、下級生の肩を叩く。 「行こう!」  野球部の三年の引退が、夏合宿の後だということの意味が、今ならわかる。  次へ、伝えるためだ。  この思いを。  この願いを。  今年、俺たちは敗れた。けれど、来年も再来年も、茅島の夏は来る。  その夏が思い出に残るように。語り継がれる夏になるように。  先輩たちも毎年、知っていたんだ。  夏は永遠につづくと。 「ただいま……」  試合の後にフルで練習してきた俺は玄関で倒れ込んだ。 「おかえり、春樹」  拓斗が俺の肩を抱く。 「今日の春樹、かっこ良かったよ」  俺は拓斗の腕の中、ごろりと体を返して拓斗の頬に触れた。 「そうだろ」 「うん」  穏やかに微笑む拓斗の顔が涙で歪む。世界がにじんで色まで消えてしまったようだ。 「三年間、お疲れ様」  俺は声を上げ、泣いた。  目が腫れた。というか、顔じゅうが腫れた。これはむくんだと言った方がいいのだろうか。  負け試合から一晩たった朝、鏡の中の俺は壮絶なブオトコぶりを発揮していた。今日が野球部の休みになっているのは、こう言うことを勘案してのことかもしれない。  俺はなにもかもが面倒くさく、もっと寝ていようとベッドに突っ伏した。 「はーるき、まだ寝るの?」  扉から顔をのぞかせた拓斗が俺の背中めがけてダイブする。 「うぐおふぉ! やめろ……潰れ死ぬ……」  拓斗は俺の首に手を回すと、軽くキスをした。 「好きなだけ寝て? 僕も添い寝する」  いそいそと俺の隣に横になる拓斗に抱きつく。 「なあ、朝っぱらから働いてたのか?」 「うん。君のユニフォーム、庭に干し終えたよ」  庭の物干しざおにはためく白いユニフォーム。  あと数日で使われなくなる夏の名残り。  俺は滲み出る涙を、拓斗の胸にすりつけた。   「来週は合宿だね」 「うん」 「最後の合宿だ」 「うん」 「浮気しちゃだめだよ」  俺はふふふと笑う。 「しないよ」 「肝試しも駄目だよ」 「ふふふ。それは約束できないな」  拓斗は俺の顔を両手ではさみキスをする。 「よく寝て、ブランチを食べよう。それからまたいつまでもゆったりしていよう。せっかくの休日なんだから」  俺は拓斗に抱きつき、目を瞑った。  そうだ。  夏の休日のひととき。  しばし野球の事は忘れよう。  マウンドで最後に見た、あのどこまでも白いボールの軌跡だけを夢みていよう。  それが俺の最後の夢だったのだから。

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