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第59話 美夜子さんの出産
産婦人科の入院病棟って緊張する。
入院しているのは女性ばかりだからだ。当たり前だけど。そこに来る見舞い客は男性が多い。恐らくご主人だろう。入院中の奥さまと睦まじく談話している。
美夜子さんのベッド回りの男性率は異様に高い。
ご主人の伊勢谷さん。父親のおじいちゃん。息子の拓斗。そしてなぜか俺。
「出産なんて僕一人じゃ耐えられない! 一緒に来て!」
という、自分が出産するかのごとき拓斗の言葉に引きずられ、臨月の美夜子さんと共にいる。
「春樹! 孝ちゃんはまだ!?」
「さっき母ちゃんから家を出たって連絡がありました。十分ほどでつきます」
美夜子さんはイライラと爪を噛んでいる。伊勢谷さんはおろおろするだけで、美夜子さんの機嫌をうかがうのが精一杯だ。
美夜子さんは、うちの母ちゃんにお産についていて欲しいと、現住所からも実家からも離れた産婦人科にかかっている。妊娠九ヶ月目に拓斗が待つ家に帰り、上げ膳据え膳の日々を送り、今日、破水した。
破水、という恐ろしいものを初めて見た俺は慌てて母ちゃんを呼びに走った。母ちゃんは四人の子供を産んだお産のエキスパートだ。その母ちゃんはおっとりと言った。
「タクシー呼んで、春くんと拓斗ちゃんで病院に連れていって」
「き、救急車は?」
「ばかねえ、お産は病気じゃないわよ。大丈夫だから、ほら、行って」
そう言って母ちゃんは美夜子さんの入院荷物を準備していて病院には一緒に来てくれなかった。
美夜子さんは母ちゃんに見送られ涙目になりながら、いつまでも母ちゃんを見つめていた。飼い主から引き離された子犬のようだ。普段の美夜子さんからは想像もできない。
拓斗は拓斗で、緊張して色白の顔が青ざめている。
「拓斗、お前が緊張してどうする」
「だって……出産なんて初めてで」
「美夜子さんは二度目なんだから大丈夫だよ。ね? 美夜子さん」
美夜子さんはどんよりした顔でタクシーのシートに深く沈みこむ。
「そんな十八年も前のこと覚えてるわけないじゃない」
「け、けど、美夜子さんは看護士さんだし……」
「外科だから」
母ちゃん、早く来てくれ!
病院について、俺と拓斗で美夜子さんの両脇を抱えるようにしてタクシーをおりた。
産婦人科の看護士はてきぱきと美夜子さんを病室に案内する。
美夜子さんの陣痛はすでに始まっていたが、
「分娩室が空いてないから、少し我慢してくださいね」
と看護士が言う。拓斗は青ざめた顔をさらに青くして尋ねる。
「す、少しってどれくらい……」
「分娩台が空くまでよ」
そう宣言して看護士は病室を出ていった。
「分娩台が空くまで……」
貧血でも起こしたのか、拓斗がふらりとよろける。俺は拓斗の肩を支える。
美夜子さんは、と見れば、口を真一文字に結び、カッと目を見開いていた。
「……美夜子さん? 大丈夫ですか?」
美夜子さんは俺の方に顔も向けず答える。
「孝ちゃんがくるまで絶体我慢する!」
その決意はビシバシと肌に痛いほど伝わってきた。
そうこうしている間に伊勢谷さんが到着し美夜子さんの手を握り、おじいちゃんとおばあちゃんが大きなメロンを持ってやって来た。美夜子さんのお祝いに、お酒の代わりだそうだ。
しかし、いくら待っても母ちゃんは来ない。
「私、私、孝ちゃんに嫌われちゃったんだわあ!」
美夜子さんが泣き出し、伊勢谷さんが背中を撫でてやり、拓斗がまたふらりと椅子に崩れ落ちた。
「おい、おい、おい、拓斗。お前が倒れてどうする?」
「どうしよう……、孝子おばさんが母さんを嫌いになるなんて……」
「ならないよ! なるわけないだろ! 母ちゃんはぼんやりしてるからな。準備に手間取ってるんだよ」
「誰がぼんやりだって?」
不穏当な声に振り返ると、母ちゃんが腰に手を当てて仁王立ちしていた。
「孝ちゃあん!」
「ごめんね、美夜ちゃん、遅くなっちゃって」
母ちゃんが美夜子さんの手をぎゅっと握る。
「もう、もう、孝ちゃんに見捨てられたと思ったあ!」
母ちゃんは美夜子さんを抱き締めて背中を撫でてやる。
「そんなわけないじゃない。私はいつも美夜ちゃんのことばっかり考えているのに」
美夜子さんの目に涙がいっぱい溜まり。
「宮城さん、分娩室へ移動しますよ」
看護士が美夜子さんを迎えに来た。
拓斗は青い顔のまま、待合室のベンチに座って、両手を握り額にあてている。分娩室には母ちゃんと伊勢谷さんが付き添った。
「親族以外の付き添いは珍しいね」
眼鏡に白髪頭の産科医はぽつりと呟いた。
おじいちゃんとおばあちゃんはカフェにお茶を飲みに行ってしまった。
一人、拓斗だけが緊張して動揺していた。
俺は秋美や冬人が生まれたときのことを思い返したが、これほど緊張した覚えはない。
「拓斗、そんなに心配しなくても……」
拓斗は俺の目を見つめると、俺の膝に顔をうずめた。
「美夜子さん、僕のあとに二人、流産してるんだ」
「えっ?」
「その時、傷ついてる美夜子さんに、僕なにもしてあげられなくて」
拓斗は俺の顔を見上げた。
「またそうなったら、どうしよう……美夜子さん、傷ついたまま、僕だけしか子供がいなくて……」
俺は拓斗の頬を撫でた。
「お前はもう子供じゃない。美夜子さんには伊勢谷さんも母ちゃんもついてる。お前には俺がついてる。それに」
拓斗は涙目で首をかしげる。ああ、そんな顔するなよ。いつもみたいに笑ってくれ。
「美夜子さんはお前を愛してるよ」
赤ん坊の泣き声がした。
「うまれた!」
拓斗が飛び上がる。俺も思わず立ち上がる。元気な産声、まるで産まれてきたことを祝いめでたがっているような。
分娩室から産科医が両手をふりふり出てきた。拓斗と俺を見留めるとにっこり笑う。
「おめでとう。君もお兄ちゃんになったよ。元気な妹だ」
拓斗は唇をふるわせ、その目は弓形に美しく引きしぼられた。
ガラス越しに新生児室を見つめる。産まれたばかりの赤ん坊は、本当に赤くって、なんだかくしゃっとしている。真っ白な産着に包まれて、ふがふがと鼻を動かしている。
「かわいいねえ」
拓斗がうっとりとつぶやく。
「そうだな」
「やわらかそうだねえ」
「そうだな」
拓斗は満面の笑みで俺を振り返る。
「ねえ、いつになったらさわれるかな?」
俺の後ろから、いつ戻ってきていたのか、おばあちゃんが答えた。
「もうすぐ初乳をあげるから、病室に行って待ってたらいいよ」
「初乳ってなに?」
「産後すぐに出る特別なお乳よ。赤ちゃんにはだいじなの。さ、赤ちゃんに会いに行きましょ」
俺たちはおばあちゃんに連れられてぞろぞろと病室に向かった。
美夜子さんは汗と涙でボロボロになった顔を母ちゃんに拭いてもらっていた。伊勢谷さんは茫然自失といった風情で美夜子さんの隣に座り込んでいた。
「美夜子、おめでとう」
「母さん……ありがとう」
おばあちゃんの言葉に美夜子さんはボロボロと涙を溢す。
「美夜子さん……」
拓斗は何も言葉にならないようで、美夜子さんの目を見つめ何度も何度もうなずいた。
遠くで赤ん坊の泣き声がした。と思うとだんだん近づいてきて、看護士が美夜子さんの赤ちゃんを抱いてやってきた。
「さあ、お母さん。お乳のやり方は覚えているかしら」
美夜子さんはうなずくと赤ん坊を受け取り、胸をはだけて赤ん坊を抱きしめた。俺は白い胸元から目をそらそうとしていたのだが、赤ん坊がお乳に吸い付く様は神々しくて、思わず見つめた。
赤ん坊は産まれたばかりだとは思えない力強さでぐいぐいとお乳を吸った。
その時のことを言葉で表すのは難しい。ただ皆、これからの赤ん坊の命が安らかで伸びやかであることを祈った。
赤ん坊が満腹になって眠ってしまうと、看護士は赤ん坊を新生児室に戻した。
「名前はもう決めてるの?」
拓斗の問いに美夜子さんと伊勢谷さんはいたずらっぽく笑う。
「当ててごらん」
美夜子さんが言う。
「君は知ってるはずだ」
伊勢谷さんが言う。
拓斗は一度、口をぎゅっと結ぶと柔らかく微笑んだ。
「……みと?」
「漢字もわかるわね?」
「南斗六星の南斗」
美夜子さんは満足げに枕に頭を預けた。
拓斗は伊勢谷さんに向かっておずおずと口を開く。
「伊勢谷さんは、それでよかったんですか? 僕の父さんがつけた名前で」
「もちろん!」
伊勢谷さんは満面の笑みでうなずく。
「君のお父さんの想いを、僕は引き継ぐよ。美夜子さんも南斗も守って愛すよ。もちろん拓斗くんも」
拓斗はくしゃっと顔を歪めると俺の肩に顔をうずめた。肩に温かい雫が落ちてくる。俺は拓斗を抱き締めた。
病院の前でおじいちゃん、おばあちゃんと別れた。伊勢谷さんと母ちゃんはまだ美夜子さんに付き添うらしい。
拓斗と手を繋ぎ歩いて帰る道すがら、南斗の名前の由来を聞いてみた。
「僕の名前は北斗七星からとったんだ。で、父さんは女の子が産まれたら南斗六星から取るって決めていたんだ」
「南斗六星ってなんだ?」
「射手座の星の一部で、北斗七星と似てる並びで南にあるから南斗六星。」
「ふうん。やっぱり親父さんは星が好きなんだな」
「だね」
なんとなく会話は途切れ、二人ともぼんやりと空を見上げた。真昼の月が、青い空の上に染められたように白く白く浮かんでいる。
「拓斗はいいな」
「なんで?」
「名前の由来がかっこよくてさ。俺なんか春生まれだから春樹。まんまじゃないか」
拓斗はくすくす笑う。
「春樹にだって由来があるでしょ」
「ないよ、そんなの」
「春樹の樹ってなんの樹?」
「……聞いたことなかったな」
「今度、聞いてみよ」
「ああ」
拓斗はいつも俺に驚きをくれる。これからは南斗も俺達を日々驚かせてくれるだろう。
泣き、笑い、喋り、怒り、いつか歩いて自分の道を進みだす。
その時、俺達は何をしているだろうか。
南斗の行く末に貢献できるだろうか。何かを残すことはできるだろうか。
わからないことだらけ。
俺達はまだまだ何も知らない。
「赤ん坊は毎日何かを学んでいくんだな」
「僕達も日々学んでいるよ」
拓斗を見ると、にっこりと笑っていた。ああ、俺はその笑顔が大好きだよ。毎日、毎日、大好きが増えていくよ。
「じゃ、帰ったら勉強しようか」
「……今日は邪魔するなよ?」
「んー。それは約束できないな」
「約束しろよ! それくらい!」
「だって嬉しくてソワソワして」
俺はため息ひとつ。
「なんならソワソワついでにダンスでも踊るか?」
「いいねえ!」
拓斗は俺の手をとるとくるくるとワルツを踊り出した。ワルツなんか知らない俺はぐるぐると振り回される。道行く人が俺達を見ていくが、そんなことに構っている余裕はない。
「おまっ、なんで、ワルツ!」
「ふふふ。父さんの置き土産」
俺達はいつまでもくるくるぐるぐると踊り続けた。
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