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第60話 幼馴染でサプライズ

 拓斗はもう本当にデレデレだ。  毎日、伊勢谷さんから送られてくるミトの写真を見てはデレデレ。  二日おきに美夜子さんに電話をかけてミトの泣き声を聞いてはデレデレ。もう目尻が下がりっぱなし。  いつものクールな表情はかなぐり捨てて、学校でもニンマリ笑っている。金子などは「今日は槍が降ります!」「今日はサバが降るですよ!」などと毎日、騒ぐ。普段ならそんな金子を完全スルーする拓斗が、 「いやだなあ、金子さん。今日も快晴だよ」  などと笑顔を返す。拓斗よ、今日は小雨だぞ……。  毎日そんな浮かれ気分な拓斗ならば、一週間後の自分の誕生日も覚えていないに違いない。  今年こそ、サプライズだ!  俺は完全に野球部を引退したが、拓斗はまだ天文部に顔を出している。後輩の指導、というより、後輩が無茶をしないか監督するためだ。拓斗の誕生日当日も、うまいことに天文部の活動日だ。俺は一足先に帰宅した。  制服のまま走って実家に帰って料理をならう。料理教室を開いているかあちゃんは初心者に教えるのもお手のものだ。  が。 「才能の限界ってあるものなのねえ」  俺がじゃがいもの皮を剥く手つきを見ながらため息をついた。俺の手の中、ファッションモデルのようにスマートになったじゃがいもは、かあちゃんによって野菜くずストックに入れられた。他の野菜くずと共に漬け物や味噌汁やブイヨンの素材になる。  我が家の台所から無駄は出せない。かあちゃんの監視がある限り。いもの身がかなりついたままの皮も、かあちゃんがあっと言うまにポテトチップスにしてしまった。 「ポテチー!」  匂いを嗅ぎ付けた秋美と冬人が乱入し、キッチンは大混乱だ。 「そうだ、秋美。あんた、お兄ちゃんに料理教えてあげなさい」  秋美はうさんくさいものを見る目で俺を眺めた。 「お兄ちゃんに料理なんて、猫が千両箱で家を建てるくらいムボーだよ」  かあちゃんはそんな言葉は聞き流し、さっさとキッチンから出ていく。雨が本降りになる前に洗濯物を取り込みたいのだろう。  俺と秋美は横目で互いの様子をうかがう。先に根負けしたのは俺だ。 「お願いします、秋美先生。料理を教えてください」  秋美はかあちゃんそっくりなため息をつくと、腰に手をあて俺に向かって鼻で命令した。 「まずは手を洗って」  なんだか屈辱を味わっているのは気のせいだろうか? 俺は言われたとおりに綺麗に手を洗う。 「まあ、お兄ちゃんに包丁を使えって言うのはムボーよね」 「ムボーですか」 「素手だけでできる料理にしましょ」 「秋美先生、たよりにしてます」  秋美は俺をうさんくさそうに眺めてから、冷蔵庫から食材を取り出した。  レタス、かいわれ大根、赤キャベツのスプラウト、キャベツ、鳥モモ肉、ササミ、完熟トマトソース、チューブ入りわさび、生クリーム。食品棚から焼き海苔とビスケット、醤油とオリーブオイル、料理用ワイン。カシューナッツ。  テーブルにそれらを乗せて満足げに鼻息を吹く。 「今日のメニューはレタスと焼き海苔のサラダ。ササミとスプラウト、かいわれ大根のわさび和え。鳥モモ肉のトマト煮込み。カシューナッツおにぎりです!」  いつ覚えたのか、秋美がてきぱきと料理の名前をそらんじる。ほんとうに、いつのまにこんなに成長していたのだろう。ずっと見ていたはずなのに、ちっとも気づかなかった。いや、近くにいすぎて気づけなかったのか。  妹が産まれたときのことを俺はあまり覚えていない。ただ、俺の指を握る赤ん坊の手の力強さに感動したことだけは覚えている。  大きくなった秋美は俺の指ではなく包丁を握る。 「仕方ないから鳥モモ肉だけは私が切ってあげるわよ。あとはお兄ちゃん一人でやるのよ!」  働く秋美の手を見つめる。ふっくらした指に赤ん坊のころの面影はない。この手もいつかもっと成長して秋美の赤ん坊を抱きしめるのだろうか。 「なに?」 「いや、なんでも……」 「いいたいことはハキハキと!」  その手は力強く包丁を握り、俺につき出された。 「いえ……ほんとになにも……」  秋美は「チッ」と舌打ちして包丁をひいた。  俺はアンニュイな物思いを打ち砕かれ、妹の剣幕に怯えた。何をそんなに怒っているのか……。妹よ……君が何を求めているのか、兄さんにはわからないよ……。  秋美は半眼ながらも俺に指図し、料理を教えてくれた。 「まずは鳥モモ肉のトマト煮込みね。下味とか難しいことは省略。鍋に鳥モモ肉、キャベツをちぎって入れて。トマトソース、料理用ワインを適当に突っ込んで火にかけて」 「せ、先生、適当に、がどれくらいかわかりません……」 「適当には、適当によ! なによ、男らしくどばーっといけば!?」  秋美に背中を叩かれ、俺の手から鳥モモ肉が飛び出し鍋にダイブする。鳥肉はなかなか男らしく着地した。続いてトマトソースもドバッと、料理用ワインは遠慮がちに入れてみた。 「中火ね」  秋美に指示され火加減する。中火なら俺でもわかる。 「炎の先端が鍋底にちょうど当たるくらいの火」  のことだ。野球部の合宿で松田先輩やマネージャーからイヤというほど繰り返し教えられた。  ……いや、何度も繰り返されたのは決して俺の記憶力が悪いわけではないのだ。いわゆる、テンパるという状況だったわけで、あっちは弱火、こっちは洗い物、そっちは盛り付け、さらにその上での中火だ。  改めて思う。主婦は偉大だ。もちろん主夫も。 「ほら、ぼんやりしない! 次は生クリーム!」  ボウルに入れた砂糖と生クリームを泡立て器でシャカシャカ泡立てる。ダテに野球で利き手を鍛え抜いた訳じゃない。これくらいの生クリーム、これくらいの……生……クリーム……。 「せ、先生、腕が死にそうです……」 「チッ」  あからさまに舌打ちして、秋美は戸棚から電動ミキサーを取り出した。俺は口をポカンと開ける。 「そんな文明の利器があるなら最初から使えよ!」  秋美はツンとすまして、あっという間に泡立てを終えた。 「パウンドケーキの型にビスケット、生クリーム、ビスケット、生クリームって順番に詰めていって最後に生クリームで蓋をしたら冷蔵庫へ。冷ます」 「なあ、これなんなんだ?」 「トットちゃんケーキ」 「トットちゃん? 誰それ?」 「知らない。お母さんに聞いたら? それより次! ササミ!」  小鍋に湯を沸かし、ごんごん沸騰している中にササミを投下して蓋をする。すぐに火を止め三分待つ。  三分たったらササミを湯からあげ氷水にくぐらせ、水気をふいて手で細く裂く。  ボウルにたっぷりのわさびと、醤油とオリーブオイルを適当に突っ込んでササミを和える。  洗って水気をふいたかいわれ大根とスプラウトもボウルに投下。よく混ぜる。  和え物はこれだけで出来上がり。 「ぼんやりしない! トマト煮込みが沸いてるわよ!」  秋美がコンロを指差す。トマトソースがぐらぐら煮たって血の池地獄のようになっている。 「せ、先生、どうすれば!?」 「弱火にする」  冷たい声音だ。思いきり見下されているような気がする……。 「次、おにぎり。カシューナッツを擂り鉢で潰して」  擂り鉢ならわかる。擂り鉢なら得意だ。かあちゃんが胡麻和えを作るときにはよく手伝ったものだ。棚から擂り鉢を出そうとして……。 「あの、先生、擂り鉢がありません」 「もう! そこじゃない! こっち!」  俺が知っている仕舞い場所とは違う棚の奥から擂り鉢は出てきた。 「……置き場所、変わったんだ」 「え? ああ、そうね。お母さんが色々やってたわ」  俺は、この家を離れていた日々の長さを噛み締めた。それは寂しいようでも面映ゆいようでも逞しいようでもあり、決してイヤなものではなかった。  粗めに擂り潰したカシューナッツに塩を加え、ごはんと混ぜておにぎりにする。 「お茶碗にラップを敷いて包んじゃったら楽だから」  見よう見まねでラップ包みを作ってみたら、そこそこおにぎりに見えるものができた。 「おお。素晴らしい」 「ちょっと大きすぎるけどね」 「秋美のおちょぼ口には大きいな」 「まあ、いいわ。私が食べるわけじゃないもの。それより、お鍋、かき混ぜないと焦げ付く」 「ええ!? 先生、早く言ってください!」 「ついでにお塩ふっといて。控え目に」 「先生、控え目って、わかりません!」  俺が鍋の中の血の池をかき混ぜながら叫ぶと、秋美が親指、人差し指、中指の三本を会わせて見せた。 「この指先でつまめるくらい。あとは味見して、塩気を足したければ、まあ、ご自由に?」 「そんな投げやりな」 「私が食べるわけじゃないもの」 「……それ、また言う?」 「私は誕生日会にご招待状されてないもん。二人でいちゃいちゃお誕生日すればいいじゃない」  俺の頬に微笑が浮かぶ。秋美は頬をふくらませる。 「お前の誕生日、俺が料理作ってやるからな」 「絶対、ヤダ!」 「……そんな力一杯……兄ちゃんだって傷つくんだぞ……」  秋美は俺の心の傷などツンと鼻で吹き飛ばし、レタスを洗った。 「はい、レタス。適当にちぎって、適当に焼き海苔散らして混ぜて、適当に醤油とオリーブオイルかけて混ぜたら出来上がり」 「秋美の料理は適当に、ばっかりだな」 「文句があるなら小匙一杯が何グラムか答えられるようになってからにしてよね」  俺はぐうっと唸る。小匙というものがどれくらいの大きさなのかも想像もつかなかった。  トマト煮込みの火を止めて、すべての料理が出来上がった。俺が作ったとは思えない華やかさだ。味見もしたが、どれも美味しい。 「先生、ありがとうございました!」 「はいはい」  深々と頭を下げた俺を、秋美が軽くあしらう。 「じゃあ、器に詰めてあげるから、洗い物してて」 「おお。洗い物は得意だ、まかせろ」  秋美はてきぱきとタッパーウェアや重箱に料理を詰めていく。驚くほど手際がいい。 「お前、いつのまにそんなに料理上手になったんだ?」  皿洗いを終えて手を拭いていた俺を、秋美が睨む。 「私が家政科に進学したことなんて、忘れてるでしょ」 「あ」  しまった。口から驚きを飛び出させてしまった。  そう言えば、秋美が隣町の女子高の家政科に受かったお祝いをしたんだった。その時の秋美が自作した料理の数々を俺は涙目で冷汗を流しながら食べたのだった。あれだけは二度と味わいたくない。 「あー……っと。家政科は楽しいか?」  思いきりぶすくれている秋美に恐る恐る声をかける。 「フツー」  女子高生らしいつっけんどんな答えが帰ってきた。 「そ、そっか。普通か、それは良かった」  秋美が無言で大きな包みを俺に渡す。 「あ……、ありがと」  秋美はツンと横を向いて、最後まで目をあわせてくれなかった。  妹に邪険にされたショックでのろのろ歩いていると、家の前で拓斗と出会った。  ああ、しまった。早く帰ってテーブルセッティングする予定だったのに。拓斗は俺を見つけると子犬のように駆け寄ってきた。 「お帰り、春樹」 「お帰り、拓斗」 「すごい荷物だね。実家に帰ってたの?」 「そ」 「なかみなに?」  俺は苦笑いする。 「うちで開けて見せるよ」  台所のテーブルに荷物をどんどん取り出していく。 「あ、晩御飯? 孝子おばさんの?」 「いや、俺」  拓斗はキョトンと小首をかしげる。 「作ったのは孝子おばさん?」 「いや、俺」  拓斗はガバッとお重に手を伸ばしふたを開ける。一の重には鳥肉のトマトソース煮込み。二の重にはカシューナッツおにぎり。三の重にはレタスと焼き海苔のサラダ。  小さめのタッパーウェアにササミの和え物。  それとトットちゃんケーキ。 「まさか! 春樹が!?」 「ええ、まあ」 「うそ!?」 「いや、そこまで驚かれると、さすがに傷つきます」 「え、でも、だって、なんで」 「今日はなんの日?」  拓斗はぽかんと口を開け、カレンダーを見る。 「……僕の誕生日、だ」 「誕生日、おめでとう、拓斗」  拓斗が俺の首に抱きつく。 「ありがとう! 春樹、すごくうれしい!」  俺の肩に温かい滴が落ちる。 「なにも泣かなくても……。ほら、食べてくれよ。ちゃんと味見もしたぞ」  拓斗は顔をあげると指で目元をぬぐい、にっこりと笑った。 「ねえ、あーん、てして」  拓斗が雛鳥みたいに口をかぱっと開ける。 「ほら、あーん」  俺は箸でつまんだトマトソース煮込みを拓斗の口に運ぶ。拓斗は目をつぶりじっくりと噛みしめる。俺はどきどきしながら初めての料理の感想を待つ。 「すっ……ごくおいしい!」  拓斗の満面の笑みを見て、俺は嬉しくて泣きそうになった。拓斗を椅子に座らせて、小さな子供にするように、口に食べ物を運ぶ。 「ふふふ」  箸をくわえたまま拓斗が笑う。 「なんだよ」 「僕、今、天国にいるなあ、って思って」 「天国? 台所が?」 「うん。ねえ知ってる? 天国と地獄は同じなんだって」 「なんだ、それ?」 「どちらも広いテーブルにごちそうがたくさん並んでる。亡者は長い長い、自分の背丈より長い箸でご飯を食べなきゃいけない」  拓斗が両手を伸ばして見せる。 「そんな長い箸なんかまともに持てないだろ」 「うん。だから地獄の亡者はいつも飢えている」 「天国だって同じだろ? 同じ箸なんだろ?」 「そう。箸は同じ。けど、天国にいる人はみんな自分より飢えている人にご飯を食べさせてあげるんだって」  俺はおにぎりを取って拓斗に差し出す。拓斗はむにゃむにゃ言いながらおにぎりを食べ終え、指に残った米粒を舐めとった。 「ふふふ」  拓斗は嬉しそうに俺に食物を与える。俺も拓斗に食物を与える。 「ねえ、ここは天国だね」 「そうだな」 「君のごはん、すごく美味しい」 「……ありがと」 「僕の方こそありがとう。誕生日をおぼえていてくれて」 「忘れるわけないだろ」 「僕はすっかりわすれてた」  拓斗はまた、ふふふと笑う。 「ねえ、誕生日のおねがい、聞いてくれる?」 「おお、いいぞ。何だ?」 「いつまでも、天国に暮らそうね」 「おう」 「また、あーんってしてね」 「……おう」 「今のびみょうな間があやしい」 「な、なんだよ、怪しいって」 「ほんとは恥ずかしいからイヤだとか思ってるでしょ」 「う……」 「明日はインドカレーにするね」 「お? おう。なんで突然?」 「インド式に手で食べるんだよ」 「なんで突然?」  拓斗はにっこりと笑う。 「僕が食べさせてあげるから」  俺は拓斗の白く長い指を見る。それが俺の口に差し込まれる。俺はそれを舐めとって……。 「エッチなこと考えてる?」 「な! なんも考えてないぞ!」  拓斗はにやにや笑う。 「顔が赤いよ」 「と、トマトソースがついてるの!」 「えー、たいへん。取ってあげるね」 「やっ! 舐めるなぁ!」  俺たちはいつまでも天国でじゃれ合っていた。  本当に、この幸せな空間を永遠に守りたい。そう思う。

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