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第3話
涼矢は血相を変えて廊下に出る。まっさきに玄関に向かった。この時間には車寄せに回されているべき社用車がない。和樹専任のドライバーもいない。門には守衛もいないし、庭に目をやっても庭師の姿はなく、和樹の愛犬が柵の中でボール遊びをしているだけだ。次いで使用人室に走る。もぬけの殻だ。自身の執務室を開錠して、壁面のモニターすべてのスイッチを入れた。出入り口と裏庭、ガレージ、それにいくつかの部屋に設置してある防犯カメラの映像が映しだされるが、そこにも人影はない。最後に勝手口に行き、下駄箱を開ける。通いの者はここで靴を履き替える。それらしき下足は一足も見当たらなかった。
「そんな馬鹿な」思わずそう呟いた。
「こんな馬鹿なサプライズ仕掛けるの、俺ぐらいだろ?」背後から声がする。いつの間にか和樹が立っていた。さすがに寝間着から着替えてズボンも穿いたようだが、普段なら自室の外で着ようものなら涼矢に説教されるような部屋着だ。
「なんで……こんなこと」
その時、涼矢のスマホのアラームが鳴った。和樹と涼矢は仕事用のスマホでスケジューラーアプリを共有しており、どちらかが設定したスケジュールは自動的にもう一人にも追加される。だが、朝一番に確認した時には、9時の本社ミーティングが今日ひとつめのタスクだった。だとすると、それ以降に和樹が新たなタスクを追加したに違いなかった。
涼矢はスマホを見る。
7/7 07:00
きれいに7が並ぶ。
「ハッピーバースデー、涼矢」和樹が微笑んだ。「せっかくだからスリーセブンにしてみたよ。夜じゃ19時になっちゃうから、それに合わせるために裏じゃ朝から大騒ぎ」微笑みがくすくす笑いへと変わる。
「……で、このサプライズがプレゼントというわけですか」
「まさか。プレゼントはこれから涼矢の部屋で渡す」
和樹はスタスタと歩き出し、マスターキーで涼矢の部屋を勝手に開けて入る。仕方なくその後をついていく涼矢だ。
「久しぶりだな、ここ来るの」和樹を起こすのは涼矢の日課だから、涼矢が和樹の部屋に訪れるのは毎日のことだ。それに、ベッドを共に過ごす時も、もっぱら和樹の部屋だ。
「いつぶり……でしょうか」
「覚えてるくせに」和樹は涼矢のベッドに飛び乗った。和樹のベッドよりはだいぶ質素なそのベッドは、その衝撃に耐えかねるように軋んだ。
「こどもじゃないんだから、そんな風に乗らないでください」涼矢は苦笑する。
「あの頃もおまえ、同じこと言ったな。……もっと砕けた口調だったけど」
和樹の言う「あの頃」は、つまり、二人が出会い、結ばれた時のことだ。
和樹がそう口にすれば、涼矢も即座に、鮮やかに思い出せた。
初めてキスをした。
許されないと分かっていたけれど。
キスしたら、そこで止められなくなった。
「あの時」までは、まだ見習の身分だった。
先代の都倉家執事はこどもがおらず、遠縁の涼矢を引き取り、ゆくゆくは正式な執事にさせるべく厳しく教育した。高校に通いながらの修業は辛かったが、当主の一人息子だけは優しく接してくれた。同じ高校に通う同じ年の「和樹坊ちゃま」だ。彼は涼矢を見下すこともせず、友人として、時には身内も同然に扱ってくれた。
しかし、それも当主が病に伏せ、引退するまでのことだった。涼矢が和樹と同じ食卓につくこと。涼矢と二人だけで遊びに行くこと。涼矢の部屋で二人きりになること。親し気に名前で呼び合うことすらも。「坊ちゃま」と「見習」の関係だった頃なら、和樹がちょっと駄々をこねれば大目に見てもらえていたそれらは、「主」と「従僕」の関係となった途端に厳しく禁じられた。
どうせ許されないなら。
どうせ友人にも身内にもなれないなら。
正式な当主と執事となり、二人の気持ちが交差したあの日、二人は一線を越えた。
恋人か。愛人か。性欲処理の相手か。呼び名などどうでもよかった。
「プレゼントは自分、なんてうぬぼれたことをおっしゃるつもりじゃないですよね」涼矢はベッドに横たわる和樹を見下ろす。冷たい言葉を吐き出しながらも、その視線は優しい。
「近いけど、少し違う」和樹は寝そべったまま頭だけ動かし、何かを探す。
「もしかして、私の部屋に何か隠したんですか?」
「ううん、それもハズレ」和樹は涼矢の顔を見る。「眼鏡はどこ? 自分の部屋ではかけてるんだろ?……今でも」
あの日まで、涼矢はいつも眼鏡をかけていた。黒縁のその眼鏡は、正式な執事となってからのフォーマルな装いには不釣り合いで、数日後にはコンタクトレンズに変えた。学生時代の象徴でもあったそれを封印することは、和樹と無邪気に遊んでいられた時代との決別の意味もあった。
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