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第4話
涼矢は無言で引き出しを開け、その中のケースから眼鏡を取り出した。
「かけて」と和樹が言った。涼矢がためらっていると、「これは命令じゃないよ。お願い」と言った。
涼矢は眼鏡をかける。たったそれだけのことが、和樹の前では重い意味を持つ。
「和樹って呼んで」
「それは……」
「お願い」
命令なら従えばいい。自分の意志など関係ない。けれど「お願い」となると違う。いつもは和樹のひとりよがりの「お願い」など聞かない。それを承知の上で、和樹はあえてこんな言い方をしているのだ。
「かず……き」たったその一言を言うのに、声がかすれた。何年ぶりにそんな風に呼んだことだろう。今では体を重ねている真っ最中でさえ"様"づけだ。「和樹」二度目はちゃんと呼べた。でも、泣き出してしまいそうだった。
「涼矢」和樹が両手を広げて待っている。涼矢は引き寄せられるようにそこに向かう。和樹に覆いかぶさり、キスをする。何度も繰り返すうちの数回は、和樹の鼻や頬に眼鏡が当たる。
「眼鏡、邪魔じゃない?」外そうとリムに手をかける涼矢を、和樹は止める。
「かけてて」
「いいの?」いつの間にか敬語ではなくなっていた。
「そうしててほしいんだってば」
あの日と同じようにしていてほしい。和樹の言いたいことはそうなのだろう、と涼矢は思う。友達ではなくなったあの日は、至福であり、地獄でもあった。
一番近くにいながら、毎晩のように肌を重ねながら、誰よりも遠い存在になってしまった。近頃は和樹の縁談も持ち上がっていることは当然涼矢も知っている。それどころか、率先して自分が進めていかねばならない「業務」だと分かってもいる。だが、次々に送られてくる花嫁候補の見合い写真を正視できないでいる。まだ、もう少しだけ。もう少しだけ時間をくださいと、祈るように思いながらそれらを積み重ねたまま放置している。なんでも卒なく先回りしてこなす涼矢が、唯一先送りにしている案件だ。
和樹の手が涼矢の首元に伸び、ネクタイを緩め始める。涼矢がジャケットを脱ごうとすると、それを制止した。
「だめ、脱がないで」
「ですから、汚したくないと」再び敬語になってしまう。
「汚れてもいいだろ。今日はなんの仕事もないんだから」
「急なアポだってあり得るでしょう?」
「断れ」
「そういうわけにはいかないことも」そういった矢先に、ジャケットの内ポケットに入れてあった涼矢のスマホが鳴る。いつもなら、和樹を起こし朝食を食べさせるところまでが済んだらマナーモードに切り替えておくが、今日はその余裕がなかった。涼矢は画面を見る。「ああ、噂をすれば」
「なに」
「今夜の会食のお誘いです」
「断れよ」
「経団連の〇〇様ですよ。断る選択肢はありません」
「急な誘いってことは誰かの穴埋めだろ? 俺じゃなくてもいいんだから、そんなに気を使う必要ない」
「いえ、急ではないんですよ。今日の国会如何で左右されることでしたので、私のほうで預かっていただけです」
「なっ……」
「ですから、植田様も、使用人も把握してなかった予定……ということになります。残念ながら、終日二人でオフ、は難しそうですね」
「ふざけんなよ」和樹は吐き捨てるように言った。「なあ、俺、本当に大変だったんだから。仕事片付けて、植田説き伏せて、使用人たちに口止めして……。それで、これ?」
「嬉しいですよ」涼矢は和樹の手の甲に口づけた。「そのお気持ちは充分に」
「気持ちだけじゃ嫌だ」和樹は涼矢の両肩を強くつかんだ。「気持ちだけでも、体だけでも嫌なんだよ。どうやったら全部……おまえの全部を」
涼矢は和樹を抱き締めた。「全部あなたのものですよ、和樹様」
そうなんだろう、と和樹は思う。涼矢に愛されているのは知っている。でも、そんな風に「様」付けの愛を語られたいのではない。そんな主従関係など取り払って、素のままで愛し合いたかった。もっとさらけ出してほしかった。もっと貪欲に求められたかった。
和樹は涼矢にむしゃぶりつくようなキスをした。自分がそうされたかった。荒々しくネクタイを抜き取ると、ワイシャツのボタンを外した。垣間見える裸の胸を吸った。それからベッドに押し倒した。自分がそうされたいと願っていることを次々に涼矢の身体で実行した。
ならば今、暴力的に四つん這いにさせ、後ろ手にねじり上げた手を押さえつけている自分は、「涼矢にそうされたい」と欲しているのだろうか。ジャケットも脱がせないまま、ズボンを半分降ろさせた惨めな姿に、自分のほうこそ「されたい」と願っているのだろうか。
その通りだ、と思う。だから今から、涼矢の中に挿入しようとしている。大抵は自分が「そちら側」だが、今のこんな腹立ちまぎれの劣情は、受け入れるより突き立ててやりたい気分だし、涼矢にもそんな風に腹を立てて欲しかった。
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