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【とろける湖】弓葉

 ああ、頭が痛い。今日は何連勤目だったんだろう。飛び乗った終電電車に揺られながら、酔っ払ったテンションが高い人、低い人を茫然と眺めていた。  楽しそうでいいな。  明日も出勤だったけ……?  ガタンと大きく電車が揺れて、目をつむる。次に目を開けた瞬間――水に浸かっていた。  誰かに背中を押されて、ゆっくりと水の中から身体を起こす。  目の前に見たことがない男が立っていた。左腕には刺繍をしていたが、やーさんみたいに怖くはなく、どこかの部族みたいな神聖さがあった。  優しいまなざしを向けられ、ドキリとする。目線を少し上へと外し、彼の背後から差す太陽のあたたかい光を見た。ブラインドが下がった暗いオフィスにずっといたからか、久しぶりの光だった。不思議と、サングラスがなくても直視できるぐらい光に受け入れられている。  そして、浸かっている水は冷たくはなかった。といっても、ほどよく冷たく心地がいい程度にだ。そよそよと風が吹けば、葉が揺れる音が聞こえた。  どこからか、花が舞い散り、目の前の男にふりかかる。花のおこぼれが、俺にもきた。  花は少しくすぐったかった。でも取り払う気力はない。疲れていた。はやく家に帰って寝よう……いや、待てよ、ここはどこだ? 家に帰れないじゃないか。 「あ、あの……すみません」  おそるおそる、男に『ここはどこか』と聞いたが、言葉が伝わらず首を傾げるだけ。敵意がないのは分かるが、俺の言葉は一切伝わらなかった。  じゃあ、ジェスチャーをして伝えようとするけれど、男は同じように俺の真似をするだけ。 「いや、そういう意味じゃないんだけどな……困った」  次はどうしようか悩んで口に手を当てた瞬間、手首をつかまれる。 「え?」  男にキスされた。  キスをするのも何十年振りだったから、男相手なのにすごく興奮した。頭の死んでいた脳細胞が一気に覚醒していく。死んだように冷たくなっていた身体もあたたかくなっていった。周りには誰もいないし、(とが)めるやつもいない。 『――お、……さん……――しゅ……よ……』 「え?」  男が喋った、と思ったのは間違いだった。 「お客さん! 終着ですよ!! この列車、車庫に入るので降りてください!!」 「あ、すみません……」  また電車の中だった。俺と車掌さん以外、誰も乗っていなくて、あの男もいない。車掌さんはおじさんだった。  夢の続きをみたい。あの男に会いたい。  頭の中を支配され、あの優しい世界に1秒でも早く戻りたくなった。あの世界に戻る方法はただ1つ、眠ること。 ***  駅からタクシーを拾って家に帰る。お風呂に入る前、ご飯を食べる前にベッドへ潜る。まぶたを閉じれば、また水の中だった。  一度、現実に戻ったからか男の唇から離れている。  試しに口に指を差してみたが、男は何も反応しなかった。話しかけた時と同じように首を傾げている。  今度は俺からしなくちゃいけないのか。  夢はいつ覚めるか分からない。そして今回は偶然、この世界に戻ってこれたものの、次は必ずしも成功するとは限らない。  がんばれ、俺。  ジッと男を見つめれば、また優しく笑いかけられる。  ゆっくりと近づき、男の髪を撫でた。男は抵抗せず、無防備だ。後頭部に手をかけ、キスしようと頭を近づければ『2人とも裸だった』ことに気づいた。 「あ? え? なんでハダカ?!」  さっきはあまりにも疲れていたから気づかなかった。短い時間でも睡眠をとったからか、妙に今回の世界は鮮明に見える。その状況判断は、今の俺にとって不必要なものだった。  今の俺は衣服を着ていない。透き通るぐらい綺麗な水から、俺の身体は困るぐらいよく見える。それは男も同じだった。  慰安旅行にも久しく行っていないから、他人のものを見るのも久しぶりだ。あまり見過ぎるのもよくないと目線をそむける。  身動きすれば、パチャリと水が跳ねた。周りの景色が変わったことで、この水は陸に囲まれていることに気づく。例えるならば、ここは大きなみずたまりで、湖の中に男と2人でいることになる。  『湖』といえば、深いのだが足を伸ばしても泥にたどり着かない。夢の中だからか、足が着かなくても浮いている。水面からしか確認できないが、男も俺と同じく浮いているようだった。  湖の中へ顔をつけて確認したいが、水に顔をつけることで、この状況が変化してしまうならばしたくはない。だからといって、このままなのも嫌だ。  意を決して、男と向き合う。  男はまた首を傾げて、優しく笑う。その笑顔だけで、(すさ)んだ心は癒やされた。裸なんてどうでもいいじゃないか、どうで夢の中なんだ。  唇を重ね、舌を伸ばす。男の唇はゆっくりと開き、俺の舌を受け入れた。受け入れてもらえたことに安堵し、さらに深く口づける。    舌をはわせ、味わえば、舌の冷たさ、そして、とろける。  男とのキスは最高だった。  唾液が口端から垂れ落ち、首筋を通り、湖と混ざり合う。  ずっと、ここにいたい。現実じゃない、この優しい世界にいたい。 おわり。

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