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うさぎ

2019/08/05 紫野楓へのお題は『囁く声の甘さ・天使の逆襲・もう二度と伝えることは出来ない』です。 *****  小さい頃、俺は絵本ときみが好きだった。  幼稚園の頃だったかな。一冊の大好きな絵本があって、それはお袋が俺の誕生日に買ってくれたものだった。大きなうさぎと小さなうさぎが出てきてね。  お互いがお互いのことがどれくらい好きなのかめいいっぱい表現する話だった。  文字は読めなかったけれど、何度も何度も繰り返して読み聞かせてもらううちに言葉を全て覚えてしまったんだ。  その話を俺がきみにしないわけが無かった、だろ?  ……大地くんのことこんなにだいすき。俺はこんなにこんなにだいすき。なるほど……それは大きいなあ……じゃあ僕はあの川の向こうからこっちに帰ってくるくらいすき。それなら俺はあの山の向こう側に行って戻ってくるくらいすき。僕はあのお月様のところまで届くくらいだいすき。寝たふり。俺は月に行って戻ってくるくらい京基(あつき)のことがすきだよ。耳元で囁く。くすぐったくて笑う。  そんな遊びを二人きりでずっとずっとやったよね。もう覚えてないだろうな。十年と、ちょっと前の話だから。  夕立は嫌い。  いつもは外に出ている連中が手のひらを返して図書館へやってくるから。そういう連中は赤本だの参考書だのを持ってきたって少しも勉強しやしない。そのくせ飽きたと言って小難しい本を借りたがる。  夏は嫌い。  俺は読まれもしない本たちを貸し出していく。  いつもは無人のカウンターが忙しくなるのも癪だった。空想を引き裂かれてしまうから。雨の音も癪だった。匂い立つコンクリートの香りも。 窓際の隅っこから聞こえてくるきみの笑い声も癪だった。きみの笑い声は隣に座る女の子の声とunisonする。まるでそこにきみと彼女しかいないかのように。  きみの世界に俺はもういない。  嫌。  人気のない放課後。暑い廊下。蝉の鳴き声。ベタつくシャツ。溶けたアイスクリーム。きみの気持ちが音になって響く。今でも鮮明に思い出す。俺、×××のことが××……。後。笑い声。吐息。繋がる。手。なんでそんなところを目撃してしまったんだろう。  夏になると俺はいつも思い出す。ああ。  嫌な気分だなあ。  だのに俺はきみの声を拾わずにはいられないのです。 「×××のこと、こんなに好きだよ」  きみの声は劇薬だ。良薬にも毒薬にもなる。返却された本が手のひらから滑り落ちる。その音さえも二人には聞こえない。俺はゆっくりしゃがんで落としてしまった本を拾う。バタイユ、プルースト、フィス、谷崎全集。重い。誰かを撲殺できるくらいには。重い。本棚の向こう側でやだ、と笑う彼女。人がいるから、と。  誰もいないよ。きみの声。  本当に。きみの世界に俺はいない。 「あの山の向こう側へ行って戻ってくるくらい好き」  やめて。 「月へ行って戻ってくるくらい好き」  拾った本を元の場所に戻していく。きみの声が遠ざかる。フェードアウト。  なあ、俺は本当に、大好きだったんだよ。  あの頃みたいにどうして簡単に言えなくなってしまったんだろう。きみはそんなに簡単に今でも言うことができるのに。  俺はもうきみに二度と伝えることはできそうもない。  あんなに近かったきみの笑顔と温もりが、今はこんなに遠いのです。  俺は祈らない。  叶うならあの頃に戻りたいだなんて。  祈りません。どうか。  きみの消えた世界で息をさせて。  本を開けばいつだってあの頃と変わらないうさぎたちがだいすきだよって言い合っているから。 終

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