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ハンカチ泥棒
2019/9/7
紫野楓へのお題は『行方知れずの恋・不必要な自己犠牲・どこまでも行こう』です。
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雨が降っていた。
「貴方も傘を忘れたんですか。」
僕が軒下で革の鞄を両腕で抱えていると、いつの間にか隣にいた男に声をかけられた。
僕よりもずいぶん背が高く体も丈夫そうだった。服装は僕と同じような半袖のワイシャツだったが、薄墨色の制服のスラックスを履いている。よく見ればシャツの胸ポケットに刺繍されている校章も見覚えがなかった。どこの学校の制服なのか分からない。ネクタイはしておらずシャツは開襟にしていたが、どこか上品さを感じる。
僕が言葉に詰まっていると、彼は酷く雨に濡れたせいでこめかみに張り付いてしまった、短く切りそろえている髪を片手で掻き上げ、これまた水滴のついた眼鏡を外す。
僕は息を呑んだ。目鼻立ちが良く、少し弧を描いて結ばれた唇は少し透明な朱色に色付いている。不意に向けられた笑顔は柔和で品もいい。僕は目が合った時自分が思いがけず男をまじまじと見てしまっていたことに気づいた。
「失礼ですが、ハンカチをお持ちだったら貸していただけないでしょうか。」
取り繕うように俯くのが早いか、男は僕に一歩近付いてきた。
降りしきる夏の夕立の音にも負けないほどに胸が早鐘を打っている。
僕は腕の震えを抑えることに苦心しながら、抱えていた鞄からなんとかハンカチを取り出して彼に渡す。
男は軽く礼を言うとハンカチを受け取って眼鏡を拭いた。
「見ると、貴方は俺ほど濡れてはないようですね。」
確かに僕と彼の装いには雲泥の差がある。急に降り出した雨だったが周囲に軒先などたくさんあったし、雨宿りの場所を探すのにそれほど苦心はしなかった。
同じ場所にいるのに彼だけが濡れているのはなんとなく不自然な気もする。
「俺は鈍臭くって降ってからどこで雨をやり過ごそうか考えてしまって……考えが纏まらないうちに降られてこの結果です。」
男はそう言いながら眼鏡を掛け、開襟している襟元を摘んで困ったようにため息をつく。濡れたシャツが彼の肌に張り付いている。掻き上げきれなかった後れ毛から水滴がとめどなくポタポタと落ちていた。
僕は思わず視線を逸らす。それでも気になってすぐ隣の様子を伺ってしまった。僕が渡したハンカチで、男は滑るように濡れた体を拭いている。僕たなんだか足の力が抜けそうになった。
「大丈夫ですか。」
気づくと男が僕の体を受け止めている。眩暈がしそうだ。
「落ち着くまで寄りかかっていても構いませんよ。多少濡れてしまいますが。」
僕は息が詰まって頷くことしかできなかった。
男は少し困ったように笑いながらも、しっかり僕の体を支えてくれる。手は雨に濡れたせいかひんやりとして火照った肌に心地よかった。
密着すると、男の息遣いや香りを感じて余計に眩暈がしそうだった。
「夕立は突然降られるのは困りますが、止んだ後にはよく虹が出るから俺は結構好きなんです。」
男は雨が空から降って来るような自然さでぽつりぽつりと会話を繋ぐ。場を持たせようという気遣いは全く感じなかった。案外喋ることが好きなのだろうか。
なんにせよ、口がさっぱり回らない僕からすればそれはとてもありがたいことだったし、彼の声は今まで聞いたどこの誰よりも心地よくて身体中が熱くなる。
どのくらい時間が経ったか分からないが、男がふと空を見上げる仕草でハッと我に返った。
「……雨が上がりましたね。」
男は笑った。まだ見ぬ虹を空に思い描くように視線を上に向けたのち、僕と視線を合わせてまた笑う。眼鏡越しでも男の笑顔は僕を骨抜きにするには十分すぎる。
「立てますか。」
僕は名残惜しい気持ちを殺しながら一人で立ち上がった。
男が僕の様子を見て、不意に顔を覗き込む。
「顔が真っ赤ですよ。家まで送りましょうか。熱があるかもしれません。」
「……大丈夫です。」
僕は咄嗟にそんなことを言ってしまった自分を今でも悔やんでいる。
「やっと貴方の声が聞けました。」
男は慈しむように僕の頭を撫でてくれた。
「想像通りの綺麗な声ですね。」
僕はあからさまに狼狽してしまった。
「ハンカチ、ありがとうございました。きちんと洗ってお返しします。」
軒先を出た男のまだ濡れた体躯に、雲に隠れていた太陽の日差しが燦々と降り注いで神々しい。僕は彼の姿に半分陶酔しながらも、半分は狐につままれたような気持ちになっていた。
「次に会う時は貴方の笑った顔が見られたら嬉しいです。それでは。」
最後に見た、夏の日差しに照らされて眩しいほどに白い彼のシャツと彼の頭上に掛かるささやかな虹を、僕は今でも覚えている。
ハンカチはいまだに返って来ていない。
学生時代が過ぎ去った今でもここを通りかかるとあの時のことを思い出す。
もしもう一度会えたなら、ハンカチと引き換えに僕の行方知れずになっている気持ちと笑顔を男に渡したい。
この気持ちを思い出にするには熱を持ちすぎているから、彼の濡れた手で冷してもらえる日がいつか来ることを静かに願いながら、雲一つない夏の空を見上げた。
終
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