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泣かないで

2019.9.8 紫野楓へのお題は『言葉にも声にも出来ない・短い爪に唇を落とす・君の手の大きさに慣れた私の手』です。 +++++++++++++++++++++++++++++++  マヒロがわんわん泣く声で、僕は我に返った。視界には入れていたが、日頃の疲れで少し注意がおざなりになっていた。彼の泣き声に酷く叱責されたような気分になる。胸がぎゅっと緊張した。  僕もマヒロみたいに泣きたい。泣けるものなら。いいなあ、マヒロは。  血相を変えて彼の元へ駆け寄ると、右の親指の先からぽたぽたと血が流れている。 「どうしたの、なんで……。」  彼は砂場で遊んでいたはずだ。今だって砂場にいる。周囲にはマヒロ以外に子どもも大人もいないのに、どうしてだろう、と思った。  彼の足元に割れた瓶の破片が転がっている。僕はため息をついた。  少し考えれば分かるだろうに。どうして触ってしまったんだろう。なぜ分からないのか。その間もマヒロは土砂降りのように泣いている。彼の悲鳴のような叫びは聞くに耐えない。昨日も一昨日も彼はずっとずっと泣いて僕を困らせている。 「泣かないで、マヒロ……。」  一向に泣きやまない。  僕は……彼に手を上げてしまいそうになっている自分が恐ろしかった。今すぐ狭くて暗いところで膝を抱えて一人になりたい。彼に向かって言ってしまいそうな酷い言葉がのど元まで出かかって、それをやっとの思いで呑み込む。  もう彼の泣き声に耐えられない。駄目だ、駄目だと理性が警鐘を鳴らしているにも関わらず、力のこもった腕を彼に向かって振り上げてしまいそうになった時、信じられないくらい軽快な声が頭上から聞こえて来た。 「どうした少年。なにがあった。」  僕の心臓は弾けるようにドクンと高鳴る。僕は今、なにをしようとしていたんだ。声の主を苦しい気持ちで見上げると、そこには見たことのない男の人がいた。記憶にないからきっと初対面だ。歳は僕と同じくらいに見えるが、精悍な顔つきで僕よりずっと大人びて見える。  男はなんの躊躇もなくマヒロの前にしゃがみこんで彼の血だらけの右手を手に取った。 「こりゃ痛そうだ。歩けるか。」  彼はマヒロの手を引きながら、砂場の縁石に座った。 「ちょっと洗うよ。全然痛くないからね。」  マヒロは男の手際を見ているうちにだんだんと泣き止み始めていた。男は鞄からミネラルウォーターを出すとマヒロの患部を洗って、清潔なハンカチで拭いた。  最後に絆創膏を巻いてくれる。 「すぐ治るさ。」  男はマヒロの親指の小さな爪の先に何気ない仕草で唇を寄せた。おまじない、と彼は笑う。 「まだ痛いか。」  半分べそをかいているマヒロが頷く。  男はマヒロの患部の上を人差し指でくるくるしながら楽しそうに言った。 「痛いの痛いの、お兄さんのところに飛んでいけ。」  僕はハッとした。指をさされたのが僕だったからだ。  しどろもどろになりながら右手の親指が痛いふりをする。僕の演技に男は少しの遠慮もなく声を出して笑った。恥ずかしい。  そうしたら隣に座っているマヒロが……けたけたと笑ったんだ。  僕はなんだかたまらない気持ちになった。男はマヒロの頭を撫でながら、片方の手で涙と鼻水だらけのマヒロの顔を拭いてくれた。 「これで切ったのか。」  落ち着いてから男は破片を慎重に掴んで言う。マヒロは誰にも分かるように大きく頷いた。  マヒロの瞳はいつも以上に世界を鮮明に反射させている。彼の瞳には男に対して少しも警戒心も感じない。いつの間にか男に寄りかかっている。 「なんで触ったんだ。」 「きれいだったから……ロロくんにみせたかった。」  マヒロは僕を見て言う。僕は自分が惨めで仕方がなくなった。胸に湧き出るのは罪悪感や謝罪や後悔や自責の念ばかりで、溺れてしまいそうになる。 「そうか。確かに綺麗だよな。気持ちは分かるよ。でも触るとどうなる。」 「いたいし、ちがでる。」 「そうだな。じゃあ触るのは、どうだ。」 「あぶない。」  男は嬉しそうにマヒロの頭を撫でた。 「分かっているじゃないか。もう触らないようにしような。」  マヒロは嬉しそうにまた頷く。 「おにいさん、ありがとう。」 「どういたしまして。さあ、他の遊具で遊んでおいで。」  送り出された彼は、先ほどまで聞くに耐えないほど泣いていたとは思えない。 「マヒロ……。」  彼の背中を見送りながら涙が出そうになった。なんで彼の気持ちを考えられなかったんだろう。嫌だ。最低だ。  ありがとう、を言うために僕は男を振り返った。  そしたら男は僕に向かって両腕を広げている。 「貴方もどうぞ。抱き合うとストレスが和らぐよ。」  彼は至って真面目に言っている。冗談ではなさそうだった。 「いえ、僕は、そんな……。」  突然のことで狼狽していたら、男が僕に近づいて優しく僕の肩を抱く。 「子どものお守りって大変だよな。」  小さな声で彼は言った。それ以上なにも言わない。だけど抱かれた腕の温かさが心地よくて、気づけば僕はここ数日一人でずっと抱えていた酷い気持ちを名前も知らない男に吐露していた。  涙が堪えきれなくなって、つい溢れてしまった。それでも僕はひたすら喋った。取り留めのない、話したところでなにも解決しないような気持ちを言葉にした。  男は時折僕の背中をさすりながら、指で涙を拭ってくれた。 「貴方は酷くないよ。よく一人で頑張った。それにマヒロも、きっと貴方が大好きなはずだ。」 「……僕はあの子を笑わせられなかった。」 「そうだとしても貴方が自分のことをたくさん考えてくれていることは、きっとあの子には伝わっているよ。思いやりのあるいい子じゃないか。大丈夫。貴方は。」  すごく頑張っている。偉い。彼はそう言って僕を抱き締めて頭を撫でてくれた。  僕はこの温もりを手放したくない。腕を掴んで滑らせた先の彼の大きな手を握る。少し緊張していた。いつかこの手の大きさに僕の手が慣れても、僕は彼の手を離したくない。  マヒロが弾んだ声で僕の名前を呼びながら、大きな大きな落ち葉を持って駆けてくる。 終

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