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第3話
「ソラ様、闇獣王様のお城に着きました」
「ありがとう、恒星(こうせい)」
恒星という名の宦官は、ソラの教育係だった。
今年四十を迎えるという彼は、丸い顔に優しい笑みを湛え、いつも穏やかだ。恒星が怒ったところなど一度も見たことがない。また不機嫌な様子も。
彼はソラに日常作法から、妃となった時の振る舞い方。もっと言えば、銅珠としてどう生きるのか? までを教えてくれた。ソラにとっては師であり、心の内を語れる唯一の銀珠の人間属だ。
恒星に片手を支えられ、ソラはゆっくりと馬車を降りた。
果てしなく大きな門扉は漆黒の瓦で覆われ、闇獣城が別名濡羽(ぬれば)城と呼ばれていることに納得する。
しかしここは、広大な敷地の正門に過ぎない。ここから先は闇獣城専用の馬車に乗り、最低限の宦官と護衛しか連れていけないのだ。
闇獣王儀晃はとても神経質で疑り深い性格をしている。それゆえ、自分の側近……しかもごくわずかな者しか信用していないそうだ。
よって許嫁の馬車であろうと城内に入れることは許さず、自分たちで用意した馬車と御者で殿舎まで来いというのだ。
このことに慣れているソラも恒星も、屈辱など一切感じず、素直に闇獣城の馬車に乗り込んだ。
すると馬車は、綺麗な石畳の上を静かに走っていく。
闇獣王が儀式を行う安泰宮を抜け、政治を執り行う新昌殿も抜けて、その後三つもの殿舎を通り過ぎ、やっと儀晃の寝所である養生殿に着いた。
鯉の泳ぐ池に架けられた橋を渡り、揺れる柳の横にある石階段を上ると、石柱で支えられた殿舎に入る。
漢方薬の香りがふわっと漂い、未だ儀晃が床に臥せっていることを察した。
「儀晃様」
寝所に入ると、前回会った時よりもさらにやつれた儀晃が横たわっていた。
「……ソラか」
「はい。今日は儀晃様が大好きな梨を持ってまいりました」
「ありがとう。では、早速いただこうか」
「かしこまりました」
ソラは恒星が持っていた籠の中から一番大きな梨を手にすると、儀晃の寝台の横に座った。すると儀晃の宦官が、すっと果物用の小刀を差し出す。
「しゃりしゃりといい音がするな。しかも、なんて甘い香りなんだ」
ソラが皮を剥き出すと、瑞々しい芳香が寝所を満たす。
「この梨を召し上がれば、きっとご病気もすぐに良くなりますよ」
微笑むと、儀晃も力なく微笑み返した。
儀晃は黒く長い髪を後ろで一つに結わき、着衣の乱れもなく寝台に寝ていた。
歳の頃は四十代前半にしか見えないが、実は魁のおかげで四百歳を超えているらしい。今は痩せてしまったが骨格はしっかりとしており、鼻筋の整った男性的な顔をしている。特に切れ上がった涼やかな目元は、見る者を魅了するだろう。
狼属の……しかも金珠は体躯立派で背も高い。
彼もそれを体現していて背も高く、五尺四寸しかないソラよりも頭一つ分背が高かった。
彼らは頭部に立派な狼の耳を冠している。
また艶やかでふさふさの尻尾が生えており、その毛並みで健康状態がわかるほどだった。
今、儀晃の尻尾は元気もなく毛並みもぼさぼさだ。
「儀晃様、尻尾にお櫛を通しましょうか?」
起き上がり、ほんの少し梨を食べた儀晃に訊ねると、ゆるく首を振られた。
「大丈夫だ。それよりヒイラギにそっくりなお前のかんばせを、よく見せておくれ」
「はい」
ヒイラギとは儀晃の先代の妃で、ソラの高祖伯父に当たる。
しかし百年前に不慮の事故で亡くなり、その時の儀晃の悲しみようは、見ている者さえ辛くなるほどだったという。
なぜならば二人は『運命の番』だったからだ。
『運命の番』とは魂と魂が惹かれ合い、抗うことのできない絆や愛情で結ばれる番をいう。
けれども『運命の番』と出会うのは何万分の一の確率で、そんなものはまやかしだと否定する者さえいた。
だが、儀晃は語ってくれた。
初めてヒイラギに出会った時、互いの魂が震えたと。
長年出会うことのできなかった半身と、やっと出会うことができたと。
滑らかなソラの頬を撫で、指で鼻筋を辿り、赤い唇を愛おしげに見つめると、儀晃はゆっくりと顔を近づけてきた。
(あっ! いけないっ!)
慌ててソラが顔を逸らすと、儀晃は不愉快そうに眉根を寄せた。
婚姻前の聖なる銅珠は、たとえ番になる相手であっても、口づけや性交をしてはいけない。なぜなら発情期が来る前に銅珠が性欲に溺れてしまうと、発情期そのものが来なくなってしまうからだ。
発情期が来なければ、妊娠しにくい銅珠はさらに子どもができなくなる。それを避けるために、聖なる銅珠は発情期前の口づけや性交を固く禁じられていた。
儀晃もそのことを知っているのに、時々こうしてソラの唇を奪おうとしてくる。きっとそれは今なお愛しているヒイラギの姿を、ソラに重ねているからだろう。
(僕自身を愛してはくれないのかな? 僕はやっぱり高祖伯父の身代わりで、ただ世継ぎを産むための存在でしかないのかな?)
まつ毛を伏せたソラに、儀晃が大きくため息をついた。
口づけを拒んだことで興醒めしたのかもしれない。
ヒイラギとの間に子どもがいなかった儀晃は、焦っているところがあった。
世継ぎがいなければ、闇獣国は他国の属国になるか、滅んでしまう。
ゆえに早くソラを孕ませようと、発情期前なのに身体を求められそうになることもしばしばだった。
「今日はもう帰れ。少し疲れた」
再び横になった儀晃は、もうソラを見ようとはしなかった。
「はい……」
恋愛という感情はわからないけれど、やはり夫となるべき相手に冷たくされれば、ソラも傷つく。原因が理不尽なものであれば特に。
ソラに非はないのだが、自分が儀晃を怒らせてしまった気がして、重たいため息と一緒に養生殿を出た。
「大丈夫でございますか? ソラ様」
恒星に心配されて、微笑んだ。
「うん、大丈夫。僕に発情期が来れば、解決する問題だから」
自分で口にして、自分の言葉にまた傷ついた。
これでは自ら世継ぎを産むための器だと、認めているも同然だ。
本で読むような激しく運命的な恋がしたいと贅沢は言わないが、ソラも死ぬまでに一度は、想い想われる相手と幸せな時間を過ごしてみたかった。
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