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第3話

 しばらくして、シャワーを浴びて風呂場から出て来た彼のティーシャツ姿に俺は思わず目を奪われた。  用意しておいたティーシャツとスウェットのズボンを彼が身に付け、濡れた髪をタオルで拭いている。俺よりひとまわりくらい体格のいい彼が着た俺のスウェットは、袖口も足元も少し寸足らずだったけれど、スタイルのいい彼が着ているとそれだけでなんだかカッコよく見えてしまう。  長く綺麗な首筋。腕まくりをした筋張った腕。  また彼に見惚れてしまっていたことにはっとして慌てて目を逸らした。 「着るものまで借りちゃって悪いね」 「いえ。来てた服、あまりにびしょ濡れだったんで洗濯しちゃいました。乾燥かける予定ですけど、待てずに帰るようならその服着て帰ってください」 「ありがとう。何から何まで」 「じゃ、俺も急いで風呂入ってきます。適当にその辺で寛いでいてください」  そう言って、風呂場に行きかけた俺を彼が「あ!」と呼びとめた。 「お世話になったお礼にコーヒーでも淹れたいんだけど、キッチン使わせてもらってもいい?」 「……いいですけど、うちコーヒーなんてインスタントしかないですよ」 「充分だよ。ヤカンとカップとコーヒーがあれば」 「じゃあ……」  俺は彼をキッチンのほうへ促し、備え付けのガラス戸棚の戸を開けた。 「コーヒーとかカップとか、この辺にあるんで勝手に出して使ってください。ヤカンはこっち」  そう言って吊り戸棚を開けてみせると彼が「ありがとう」と言って戸棚からヤカンを取り出した。俺ならば背伸びしてやっと届く戸棚に、彼があっさりと届いたことに、やっぱり背が高いんだな、なんて感心した。  信じられないような気持ちだった。ずっと憧れていて──でもまともの言葉さえ交わしたことのなかった彼がいま俺の部屋にいるというこの現実。  夢なら覚めないで欲しい。このまま雨が止まなければいいのに──。    俺がシャワーを浴びて風呂場から部屋に戻ると、キッチンのほうから香ばしい香りがした。  髪をタオルで拭きながらそっとキッチンを覗くと、彼の優しげな横顔が見える。  俺の気配に気づいた彼がこちらを向いて柔らかな笑顔を見せた。 「そろそろ出るころかと思ってね」  俺が風呂場から出て来るタイミングを見計らってコーヒーの準備をしていてくれたということだ。店での彼もいつも客の動向を観察していて、ベストなタイミングで淹れたコーヒーをサービスするのだ。  とても優しい顔つき。なのに、時折その表情がどこか寂しげに映る彼のことがずっとずっと気になっていた。 「きみは──あ、名前……」 「彬文(あきふみ)」 「彬文くんは、コーヒーは好き?」 「うん。でも正直豆によって違う味とかよく分かんないけど」  俺の言葉に、彼が小さく笑った。 「いいんだよ、それで。好きかどうか。それが一番大事」  彼が淹れたてのコーヒーの注がれたカップを俺に差し出した。 「ありがとう」 「こちらこそ、ありがとう。雨宿りさせてくれて」  カップを受けとった瞬間、ほんの一瞬彼の指先が触れた。それを意識してしまったことを誤魔化すように、ソファに座ってカップに口を付けた。 「きみはいつもだいたい同じ席に座ってるよね」  そう彼に言われてカップを両手で持ったまま顔を上げた。  店でのことだろう。俺はいつも、カウンターから一番近いボックス席に座る。店の出入り口から近く、正直落ち着くとはいえない場所だが、あの席から見る彼の姿が一番好きだからだ。 「俺のこと知ってたんですか?」 「そりゃ、お客さんの顔くらいは覚えるよ。きみはいつも同じ席に座るからよく覚えてた。常連さんってね、わりとそういうとこあるんだよ」  常連といってもらえるほど通っていたわけではないが、顔を覚えて貰っていた。彼が自分の存在を認識してくれていたということに嬉しさが湧き上がる。 「あの店、落ち着くんだ。特にあの場所が」 「どうしてあの場所がいいの?」  彼が訊ねた。 「どうしてって……分かんないけど、気に入ってるんだ」 「それは──僕のことを観察できるから?」  彼が静かに笑った。まるで何かを見透かしているような目。 「……え?」  「きみは、僕に興味を持っているよね?」  気づかれていた──慌てて飲み干したカップを持って立ち上がると、彼がそのカップを取り上げた。 「──は? 何言ってんの」  誤魔化そうとした声が分かりやすいくらいに震えた。否定するより早く、彼の手のひらが俺の頬にそっと伸びた。 「ごめんね。そういう視線、分かっちゃうんだ。僕も同族だから」  そう言った彼の顔が近づいて、彼の温かな唇が俺の唇にそっと重なった。  それがきっかけ。それが俺と桐谷(きりや)さんの始まりの夜。

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