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第8話

 大学のすぐ近くの洋食屋で皆と別れた頃、ポツポツと降り出した雨は、俺が駅に着いてマンションに向かうあたりから本降りになった。寒さも本格的になった十二月半ばだが、雪になる気配はなさそうだ。 「やっばいなー! 傘あってもこの雨じゃ濡れちゃうよ」  そう呟いて足を速めた。  普段は人通りの多い大通りも激しい雨のせいで、今夜はほとんど人通りがない。  “Adiantum”の電気も消えていた。今日は確か定休日だったはずだ。  桐谷さんはまだこの店で働いているのだろうか。あれから一度も店に顔を出していない俺には知る由もないが、店の前を通るたび、偶然会ったりしないかとありもしない微かな期待をする未練がましさに自分でも呆れる。 「あーもう! マジ酷い雨! 最悪だよ」  駅からタクシーを使えばよかったか、とも思ったがすでに時は遅し。穿いているジーンズの膝から下はびしょ濡れで、真冬ということもあり、身体が足元から冷えてくる。  風も強くなってきた。俺は傘をその風のほうへ向けて横殴りの雨をしのぎつつマンションまでの道を歩いた。  ようやくマンションの前に着くと、そのマンションのエントランスの前に佇む人影に気付いた。  依然激しく降り続く雨。煙る景色の向こうに見えるその人影に見覚えがあるような気がして、その正体を確かめるように目を凝らした。 「──え?」  まるでデジャヴ。こんなこと前にもあった。  傘をさしたまま立ちつくす俺に気付いたその人影がこちらを見てゆっくりと立ち上がり、こちらに向かって歩いてくる。 「……幻覚?」  ──そんな、まさか。  会いたい想いが募り過ぎて、とうとう幻覚を見るまでになってしまったのだろうか。濡れ髪についた雨粒が目に入り、視界がぼやけてよく見えない。 「幻覚じゃないよ。何言ってんの……」  そう言ってゆっくりと近づいてきたその声には聞き覚えがあった。ようやくぼやけた視界が元に戻り、目の前に立つ相手を凝視した。  見覚えがあるなんて、そんなもんじゃない。会いたくて会いたくて焦がれた男が俺の目の前に立っていた。  その優し気な表情も背格好も、何もかも懐かしく──とても鮮明に覚えている。  変わったのは、別れた時より随分と短くなった髪と、ほんの少し扱けた頬。 「彬文……」  姿を誰かと見間違えるなんてありえない。  この声を誰かと聞き間違えるなんてこともありえない。 「桐谷……さん」  そう呟くと、目の前に立っていた桐谷さんがさらに近づいて俺の腕を取り、そのはずみで手にしていた傘が地面に落ちた。拾い上げようと動いた俺の身体を桐谷さんが力強く抱きしめた。  強く、強く──それこそ俺の身体の骨が砕けてしまうんじゃないかと思えるほど強く。  いつだったか、夜中に俺に縋るようにしたみたいに。  冷たい雨が俺たちを濡らし、いつの間にか髪も着ていた服もずぶ濡れになっていた。  懐かしい匂いと温もりに涙が込み上げてきたが、顔中がびしょ濡れでそれが雨なのか涙なのか分からないくらいだった。  でも確かなことがある。ずっと焦がれていたんだ、この匂いを、温もりを──。 「……な、んで?」 「彬文。あの時みたいに俺を拾ってよ。今度は間違えないようにするから」 「……え?」 「身体だけなんて言わない。雨の日だけなんて言わない。彬文がいないと、僕はもうダメみたいだ……」  ますます激しくなる雨脚。あまりの激しい雨に、肝心の桐谷さんの声が上手く聞き取れない。 「もう一度、僕を拾って。ずっと傍にいるから──」 「……いまの、なに? どういう意味?」 「彬文の傍にいさせてよ。今度はうんと大事にする、だから──」  やっぱり、夢をみているのかもしれない。  あまりに桐谷さんに会いたくて、あまりに恋しくて──だからとんでもなく自分に都合のいい夢を。 「もう。遅い? 僕は彬文の心から完全にどこかに行ってしまった?」  だけど、桐谷さんが言葉を発するたびに俺の耳に掛かる息遣いと、抱きしめてくれている彼の温もりは、確かに身体に感じる本物で。その感覚だけが、いまこの瞬間が幻覚でも夢でもなく現実なんだってことを教えてくれる。  桐谷さんが、いる。──ここに、いる。  そう思ったら、身体の奥のほうから得体のしれない大きな感情の波が湧きあがってきて、それが一気に溢れた。 「……行くわけない!」  言葉にした瞬間、涙が溢れた。 「ずっといるよ、桐谷さんが! どんなに追い出そうとしても、俺の心の真ん中にずっと居座って離れていかないんだ……」  震える声で答えると、桐谷さんが俺を抱きしめる腕にさらに力を込めた。 「彬文……!」 「桐谷さん……」  この世に、まるでこの人しかいないみたいに、俺の瞳に彼が溢れてた。  視界がすべて桐谷さんでいっぱいになり、静かに近づいた彼の唇が俺の唇にしっとりと重なった。  ──ああ、覚えてる、この感触。  そっと重なって、一度離れて再び重ねられた唇。外は寒くて、雨に濡れた俺たちの唇はどちらもひやりと冷たかった。  ぎゅっと強く桐谷さんを抱きしめて、今度は俺の方から深く唇を重ねた。口の中いっぱいにひろがる懐かしい桐谷さんの味。 「……っ」  もし、明日世界が終わってもいいや。  桐谷さんの口内の熱を感じながら、そんなありもしないことを考えた。  だって、いまのこの幸せな瞬間を永遠に閉じ込めてしまえるのなら、たとえ明日世界が滅びたってかまわない。  最期まで傍にいるんだ、桐谷さんの傍に。こうしてキスをして、身体を重ねて、ずっとずっとそばに──。

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