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入居作業の前日の夕方、両隣と下の住人に菓子折りを持って挨拶に向かうことにした。
下の階の部屋、隣、そして最後に残ったのは「松田」という表札がかかった部屋だった。
拓海は一呼吸おき、松田さんの家のインターフォンを押した。数秒もすると中から「はーい」という声が聞こえて応対してもらえた。出てきたのは40代くらいの女性。
「こんにちは、明日隣に引っ越してきます、石蕗と言います」
「あらー! まった随分と若くて綺麗な人ねー!」
女性は拓海を見るなり何故か上機嫌になる。それに呼応するように抱っこ紐で抱えていた茉莉が「あー!」と大きい声を出して笑い始めた。
「あらまぁ…可愛いわねぇ! 女の子?」
「ええ…茉莉って言います」
「しょうなのぉ、まちゅりちゃーん」
「きゃーい!」
茉莉はすっかりこの女性、松田さんに懐いていた、そして松田さんも楽しげに話してくれる。
「いやぁね、うちにも子供が2人いてね、高校生と小学生。どっちも男でむさ苦しいったらありゃしないわー」
「へー…そうなんですか?」
「そうなのよぉ! 女の子はいいわねぇー」
松田さんは茉莉のほっぺを突いたりして茉莉もずっと笑っている。その光景を見ると拓海の緊張は少しだけ解けた。
「石蕗さん、もしかしてシングル?」
「え?」
「最近ここに越してくる若い人ってシングルの家庭が多いのよ。もしかしたらと思ってね」
「…そう、なんですね………はは、情けないですけど男手一つで右も左もわからない状態です」
拓海はそう自嘲してしまう。すると松田さんは拓海に向かってあっけらかんと笑って。
「何かあったらいつでも頼って頂戴ね、力仕事が必要な時はうちの息子 たちを使っていいから」
「え…」
「困ったら遠慮することはないわ」
松田さんからしたら何気ない一言だが、それは拓海のボロボロだった心を救った。
膝が震えてその場で泣きそうになったがここはグッとこらえる。そんな時に、後ろに人の気配がした。
「あれ? お客さん?」
当然振り返る。
だがその数秒、拓海の心を揺さぶる出来事となった。
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