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第7話

「俺ね、慶一さんがマンションの下で、ずぶ濡れの俺を拾ってくれたあの日に、大学辞めるつもりだったんです」 昔から絵が好きで、絵を描く仕事に就きたかった。美大に入ることはひとつの目標ではあったけれど、そこをゴールにしていたわけではもちろんない。 けれども、努力を重ねてやっと望んだ大学に入れたら、何を描きたいのか、どうやって描いていたのか、わからなくなってしまった。 「ずっと休学してて、長いこと筆も取ってなかったし、キャンバスにもPCにも向かえてなかった。俺が絵を好きなことは家族も友達も知ってて、みんな応援してくれたし。大して裕福な家庭じゃなかったのに、両親は高い予備校に通わせてくれて、入学金も惜しまず出してくれました」 でも、ここに残りたいっていう理由が、あれだけいろんな人に支えられてここまで来たんだから今さら後には引けないっていう、見栄だったから。 情けないけど、と秋青は続けた。 「しがみついてたい理由が描きたいからじゃないんなら、もう辞めてしまおうって。あの日は退学届だけ持って大学に向かってたんです」 そうしたら、予報ではそんなこと言っていなかったのに、突然の雨に降られた。傘も持っていないが、財布も持ってきていない。ポケットに忍ばせておいた退学届は、雨が沁みてもう使えない。 大学は目前だが、仕方ないから出直そう。それにしてもどうやって帰ろうか。 そんなことを思いながら、いまだ降りしきる雨を見るともなしにぼんやりと眺めていたら、慶一が声をかけてくれたのだ。 「俺は本当に、昔から絵しか描けなかったんです。勉強とか苦手で。だから美術書以外の本とは縁がなかった。でもふと、目に留まったんです。あんなにたくさん本ばかりある棚の中から、一冊だけ浮かび上がるみたいに、慶一さんの書いた小説が」 『草原の砂』と題されたその小説は、まるで愛おしむように、慈しむように、繊細に紡がれていく若い男女の恋物語。真っ白なキャンバスに、画面に、色をのせていくように、文字で風景を、感情を描ける人もいるのだと、そのとき初めて知った。

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