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【夏の約束】文月はつか

「あっつー」  夏休みの学校は、蝉がウンザリするほど元気だった。グラウンドから野球部の低いかけ声が重なる。その上に、女子テニス部の高く華やかな声が乗る。  クーラーが効いていた図書室から出るなり、むっとした空気に体がベタついていく。和成は開襟シャツの胸元を摘まんで扇ぎ、わずかな風を浴びた。  和成は水泳部だった。個人でスイミングに通い、選手としてタイムを競い合うような活発な部ではないが、そこが合っていたように思う。高校三年間、部活を辞めたいと思ったことは一度もなかった。泳ぐのが好きだという理由で入部する生徒がほとんどだ。のんびりとした雰囲気で、顧問も競泳経験者ではないし、コーチもいない。本気で競泳選手として活躍したい人は、在籍していてもめったに顔を出さない。  和成は体育館の横にあるプールに向かった。更衣室のドアを開けると、塩素の匂いがする。すでに懐かしい。汗ばんだシャツを脱ぎ、水着に着替える。引退した日に、勉強の合間に部活に参加したら、と顧問から言ってくれた。一学期の間は遠慮していたが、夏休みに入って、日ごとに増す暑さに我慢できなくなっていた。軽く準備体操すると、さっきまで痛いほど凝っていた肩が軽くなる。  プールは厳しい日差しを反射して、きらきらと輝いていた。日陰で本を読んでいる顧問に声をかけ、許可を得る。  和成は目を細め、泳ぐ生徒があげる水しぶきのなかに光太を探した。端のレーンの真ん中から、こんがりと焼けた背中が出てきた。水を弾きなめらかに進んでいく。そのフリーを泳ぐ姿を目で追う。ターンもきれいだ。あっという間に戻ってくる。タッチし、顔を上げ、ゴーグルを取った。日差しに負けない目が和成を射貫く。 「和成さん!」  光太が水から上がり、駆け寄ってきた。乾いたプールサイドに歩いたあとが残る。 「また速くなったんじゃないか?」 「計ってないから」  タイムのことを言うと、光太は機嫌を損ねる。一年後輩の光太は、入部したときから部で一番速かった。中学までずっとスイミングの選手コースに通っていたと言っていたが、どうして辞めたのかは教えてくれない。光太の選手記録を調べると、かなり良い成績を残している。もったいない。それが正直な感想だった。 「受験勉強は?」 「休憩も大切なんだよ」  光太の頭をシリコンキャップごとぐりぐりと撫でた。小さな頭だ。体も逆三角形で、バランスがいい。女子にもてるのだと、後輩が言っていたっけ。片っ端から断るんすよ、と一度も告白されたことがない後輩は悔しそうだった。  プールから溢れ出た水が溜まったプールサイドを歩く。足を濡らす水は太陽に温められ温水になって、どこか優しい。和成はキャップを着け、ゴーグルを装着した。きつい締め付けに、現役時代の気持ちが蘇る。胸に水を当てるとわくわくする。足から一気に頭の先まで潜った。  水の中の景色は、いつもと変わらない。ゆらゆらと空気の泡が踊る。部員達の声が遠く聞こえる。隣のレーンを泳いでいる後輩の足が底についた。和成も顔を出した。 「和成さん、来たんすか。勉強してます?」 「部員三人しかいないのに五レーンもあるんだから、ちょっと泳がしてくれよ」 「しょうがねぇっすね」 「ありがとうございます、部長」  和成はゴーグルを着け直し、飛び込み台にあがった。すぐそばで光太がスタートガンを持つ振りをして、和成に笑いかける。 「Take your marks」  両足に力を溜める。ホイッスルの代わりに、光太の腕が振り下ろされる。和成は勢いよく水に飛び込んだ。  体が重い。腕が上がらない。ターンをしてすぐ息が上がってきた。頭の中に、さっきの光太の泳ぎを思い浮かべる。魚のように水に馴染み、軽かった。手が壁についたとき、和成の足はつりそうだった。  運動不足は明白だ。七月の初めに引退してから、トレーニングどころか、走ることすらない。もともと和成のタイムは速くない。それでも泳ぐことが好きで、水の中にいると体が軽くていつまでも泳げそうな気がしていた。  それが今では、体に錘をつけているようだ。受験勉強のせいだというには、鈍りすぎだ。 「和成さん」  上がろうとすると、光太がプールサイドから腕を伸ばしてくる。その腕を取り、和成は思いっきり引っ張った。 「ちょ、まって」  バランスを欠いた光太が頭からプールに落ちる。派手に上がった水しぶきが、八月の太陽を受けて儚く輝いた。 「さ、練習しろ」  上がってきた光太を隣のレーンに押し込んだ。規則正しい水音を聞きながら仰向けに浮かび、空を見た。じりじりと皮膚が太陽に焼かれていくのを感じる。脱力し、水の動きのままに揺れる。  引退した三年はみんな塾や予備校通いで忙しい。夏休みに学校で勉強しているのは和成だけだ。  去年、親が離婚した。単身赴任中の父親の浮気が発覚したからだ。母と二人の生活は慣れていたが、明らかに変わったのは金銭面だ。家も狭いアパートに引っ越した。ずっと専業主婦だった母が働き出した。慣れない仕事に疲れているのか、毎晩倒れるように寝ている。和成は家のことを引き受けているが、本当は働いて、少しでも家計の足しにしたい。学校は許可さえとればアルバイトできる。家事をしてもまだアルバイト出来る時間はあるのに、母が認めてくれないのだ。  母はそれよりも大学に行くために勉強して欲しいと言う。だが、母がくたくたになるまで働いていても、生活にゆとりがあるようには思えない。予備校に通いたくても言い出せない。大学だって、受かったところで学費が払えるのかどうか……。  頭の隅から消えない将来への不安が溢れていく。今の勉強で受験は大丈夫なのか、落ちたらどうするのか、もし大学生になれたとして、なにができるのか、なにがしたいのか、その先は、もっと先は……。  叫びそうになって、体を反転し、水の中で思い切り息を吐いた。大量の水泡が顔の横で弾ける。頭を出して大きく息を吸い、水を掻いた。ゆっくり、丁寧に泳ぎ始め、徐々にスピードをあげる。端まで来たらターンして、また真っ直ぐ泳ぐ。そしてターン、またターン。体の動きだけに集中する。頭の中から不安を追い出したかった。  光太たちまだ泳ぎ続けている。光太はひとり随分とハードなメニューをこなしていた。和成は横目で見ながらプールから上がった。   ふらふらになった足で、また図書室に戻った。夏休みの課題をする一、二年が増えていた。  参考書を開く。頭から落ちる水滴がノートに染みを作っていく。体は心地よく怠く、窓から差し込む日差しが冷えた体を温める。切りの良いところまで勉強を進め、和成は大きく伸びをした。 「そろそろ閉めるから、片付け始めてね」  司書が声をかけてきた。残っている生徒に、順番に声かけして回っていた。窓から見える空はまだ明るい。まだまだ外は暑いだろう。早速うんざりしながら帰る支度をし、図書室から出た。  蝉の声は他の虫の音に変わっていた。グラウンドからは野球部の声は消え、代わりに陸上部のかけ声が聞こえた。プールのある方を見るが、水泳部がまだいるのかはわからなかった。  こめかみから垂れてくる汗を肩で拭き、校門を出た。なだらかな坂道に影が伸びる。ふいに後ろから誰かがぶつかってきた。 「和成さんっ」  まだ髪が濡れている光太が隣に並ぶ。髪先から飛んだ水滴が光って落ちた。 「まだいるかなって図書室まで見に行こうとしてたんですよ。この時間に帰るなら、俺のこと待っててくれたっていいのになぁ」 「約束もしてないのに?」 「部活の後は、いつも一緒に帰ってたでしょ。約束してたみたいなもんですよ」  光太が犬のように頭を振る。飛び散った水滴が顔にかかった。光太が動くと、塩素の匂いがする。その匂いは、湿って重さを感じる夏の空気を爽やかにする。夏の匂いだと和成は思い、光太そのものが夏だと思い直す。  眩しくて、あつくて、強烈で、避けられない。その存在に、どうしても焦がれてしまう。軽々とした泳ぎや、爽やかで整った顔や、人懐こい性格に憧れているんじゃない。もっと触れたいとじれったく思うほどに、惹かれている。最初は可愛い後輩だったのに、特別な感情が生まれてしまった  気持ちを伝える気は全くない。いまはこうして懐いてくるが、光太にとって高校を卒業した先輩なんて過去の人になるだけだ。思い出に残るぐらいがちょうど良い。家のことや受験で精神的にも余裕がない和成は、そう自分を納得させていた。  バス停まで並んで歩いた。夏休みのバス停は人がおらず、ベンチはカンカンに焼けていて座れない。時刻表を見ながら、バスがこのまま来なければいいのに、と急に思った。家に帰りたくない。ずっと、光太のことだけを考えていたい。 「あ、俺アイス買おっと」  別にアイスは食べたくなかったが、光太がさっさと歩き出すからついていった。  すぐそばのコンビニはよく冷えていた。外の湿度のある空気から解放され、体が軽く感じる。少しでも涼しさに浸っていたくて、アイス売り場に行くまで用もなく雑誌コーナーから全ての棚を見て歩いた。光太はソーダ味の棒付きアイスキャンデーを迷わず手に取る。光也は同じ種類のコーラ味を選んだ。  店を出るなりひとくち囓る。口の中に甘い味と冷たさが広がった。バス停に設置された柵に並んで腰をかけた。  太陽は西にあっても空はまだ青く、夜は気配も見せない。夏は、昼がずっと続く気がする。でも夜は来て、朝を迎えるとまた永遠を感じる昼が始まる。 「和成さん、大学どこに行くの」 「どうなるんだろうな」  柵に置いた光太の指先が、和成の指にわずかに重なった。太陽に熱された柵よりも、光太の指は熱い気がする。光太に触れられたことで、体温が上がっているせいかもしれない。 「俺、和成さんと同じところに行く」 「おまえ、勉強だって出来るし、今のタイムなら水泳の強いところ目指しても」 「和成さん、俺ね。タイムを競うのは高校でやめる。っていうか、ここの部活入った時点でやめてるようなもんでしょ。本当はね、親にも中学んときのコーチにも、学校の部活よりもっと強いコーチについてやれって言われてた。でも、部活見学で和成さん見たときに、いいなって思ったんだ。気持ちよさそうで。タイムは遅かったけど、楽しそうだった。泳ぐのって楽しかったよなって思い出した。ずっと、苦しいばっかりだったから」  和成はなにも言えなかった。ただ、重なる光太の指を指の間に挟み、軽く手を握った。光太の指に力がこもり、和成の手を上から強く握ってくる 「たった二年じゃ、足りない。いまだって、毎日一緒に泳ぎたい。こんな後輩、気持ち悪いかもしれない。でも……」  光太は溶け始めたアイスの残りを一口で食べた。重なる手には汗が滲んできたが、嫌じゃなかった。光太の手は大きく、骨張っている。まるで告白されたみたいだったが、嬉しさより戸惑いが先に立った。  そんなことを言ってもらえるような立派な人じゃないのは、自分が一番知っている。外に出さなくても胸の中は不安や焦りばかりで、先のことなど具体的なことがなにひとつ言えない。光太が好きだからこそ、光太と自分が釣り合わないと感じてしまう。 「一年あれば、考えも変わると思う。いや、変わらなきゃダメだ。光太はもう、オレがいなくたって、楽しく泳げるだろ? でも、嬉しいよ。俺も光太と泳ぐの好きだった」  溶けたアイスが手に流れてきた。落ちて地面を茶色く濡らす。慌てて残りを口に入れると、頭がキンと痛んだ。 「あ、当たってた」  光太が目の前に差し出してきたアイスの棒に、アタリの文字があった。和成は自分の持っている棒を確認したが、なにもなかった。 「これ、再来年の夏までまで取っておく」 「なくしそうだな」 「俺が大学生になったとき、また和成さんと泳いで、その帰りに一緒に交換する」 「俺の話、聞いてた?」 「待っててください。俺がどう変わったか、見せに行くんで」  さきを行くのはいつだっておまえだ。和成は空を見上げた。真っ白だった雲が、薄いオレンジ色になっている。夜が近づいているのだ。時間は確実に過ぎていく。永遠に続く夏はない。けれど和成のなかで光太はいつまでも夏の輝きのままい続ける確信がある。  自分に正直に進んでいく光太を、どこまで追っていけるだろうか。その眩しさに、いつか目を閉じてしまわないだろうか。真っ直ぐに自分の気持ちを表す光太と、きちんと向き合えるのか不安がよぎる。  それでも再来年、大学生になった光太を、いまよりもっと眩しく思いながら見つめていたかった。近くからか遠くからかは、わからないけれど。 「あっ、来た」  光太の手が離れた。西日を正面から受けるバスが見えた。ベタつく手を持てあましながら、和成は太陽を反射して光るバスから目を逸らした。空にはもう白い月が浮かんでいる。到着したバスの熱い排気を浴びた。光太が乗り込む。奥へと進む光太を確認して、一歩後ろにさがった。 「俺、もう部活に顔出すのやめるよ」  バスのドアが閉まった。気づいた光太と窓ガラス越しに目が合った。バスが発車し、光太の驚いた顔が小さくなっていく。 「おまえにがっかりされたくないんだ」  目を瞑りたくない。その輝きを受け止められるだけの強さがほしい。足りないのは覚悟だ。  和成はコンビニに戻って、手を洗った。顔も洗った。水がぬるく、気分はさっぱりとしないまま外に出た。駅へと歩きながら、光太にラインを打った。『学校に忘れ物したんだ。ごめんな』たったそれだけを送った。すぐに既読になったが、返信は来なかった。代わりのように母からのメッセージが届く。 『今日は会社でトラブルがあったから、帰りが遅くなります。晩ご飯はいりません。戸締まりしっかりとしてね。勉強がんばって』  背負ったリュックが重みを増したように感じた。後ろに引っ張られるようだ。どれだけやったら、頑張ってと言われなくなるんだろう。  光太も、こんな感じだったのか? コンマ何秒の差を競わされ、頑張って、もっと速く、と言われ続けた中学生の光太を想像し、ため息が漏れる。のしかかる周りの期待に応えるだけが正しいんじゃないと、光太は行動で示している。自分のしたいことや好きなことを優先できる強さがある。  和成は、好きな人に気持ちを伝えることも、最初から諦めている。好きな気持ちを軽く扱ってきた。そのうち良い思い出になって、いつか思い出さなくなるはずだと。  勉強も、家の事情も、どこかしょうがないと思っていた。自分がどうしたいかより、周りのためにどうすべきかと考えていた。  なにかひとつ、やりたいことをするなら。譲れないものはなんだろう。手に入れたいものはなんだろう。後悔したくないことはなんだろう。  頭から吹き出た汗が首を流れ、シャツの襟に染みこんでいく。背中とリュックと間に熱が籠もっている。いつのまにか空は見事な黄金色に染まっていた。それに気づかず和成はただ、交互に踏み出す足先だけを見ていた。  視線の中に、見覚えのあるスニーカーが入った。ゆっくりと顔を上げた。 「光太」  夕焼けを背負った光太が立っていた。息があがり、肩が上下に動いている。和成は近づき光太の影の中に入った。 「オレはね! こういうの、腹が立つから、やっぱりはっきり言う。オレのことが嫌なら、はっきり言葉で言って。曖昧に避けるのは卑怯だ」  きつく睨んでくる光太の目は怒りを感じる。和成はその目をしっかりと見つめ返した。さっきまで歩きながら考えていたことが、まとまらないまま口から出た。 「いまの自分が中途半端で嫌いなんだ。だから、逃げた」 「わからない、どういうこと」 「ついてきて」  和成は光太の手首を掴み、黙って駅へと歩き出した。光太も黙ってついてくる。汗だくのまま電車に乗った。手首は握ったままだった。和成は、自宅のアパートの前で光太の手を離した。 「俺の家。親が離婚して、引っ越したんだ」  アパートの階段を昇る。光太も後ろからついてくる。いつの間にか太陽が見えなくなり、東の空は薄灰色になっていた。夜が始まる。廊下に二人の足音が響いた。  和成はドアを開け、光太に部屋の中を見せた。光太はなにも言わず靴を脱ぎ、部屋に入った。  短い廊下の先にすぐに台所があり、小さなダイニングテーブルが置いてある。その上に手紙や学校からのプリントが山になっている。奥にある二部屋が、母と和成の部屋だ。どちらの部屋にも、家具は少なかった。 「俺の部屋、こっち」  昼間さんざん太陽に熱された室内は熱く、二人の汗は止まらない。和成はエアコンをつけたが、出てくるのは温風だった。 「涼しくなるまで、ちょっとかかる」 「うん、待つ。オレ、今日は用事ないから」  光太に勉強机のイスを勧め、和成は台所で冷蔵庫で冷やしてあったお茶を入れ、持っていった。二人とも一気に飲み干す。和成は床に座った。エアコンの稼働音がやけにうるさかった。 「俺、大学に行けるかわからない。予備校行く金がない。勉強は一人でやってるし、学校で先生が教えてくれてるけど、これでいいのか不安で仕方ない。やってもやっても、足りない気がする。頑張れてない気がするんだ」  やっと部屋の温度が下がってきた。冷たくなったエアコンの風が、光太の髪を揺らす。和成は洗面所から新しいタオルを取ってきて、光太の頭にかけた。 「風邪引くから、汗拭いとけ」 「オレ、不安を煽った?」  タオルを頭に乗せたまま、光太は俯いた。和成は光太の側に立ち、頭を撫でるように、優しくタオルで汗を拭いてやる。首も額の生え際も、丁寧に何度もタオル越しに触れた。 「俺が勝手に情けなく感じただけだよ。本当の俺を知られて、幻滅されたくなかった。でも、隠しきれるもんじゃないよな。これが俺だよ。この家で、ひとりで焦ってるのが俺だ。それでも、俺と同じ大学に行くって言えるか?」  タオルを取ると、光太の頭はぐちゃぐちゃになっていた。手で軽く整えた。光太はその間、大人しくされるがままだった。 「オレは、ただ、和成さんと離れたくなかったんだ。それだけだよ。また一緒に泳ぐんだって決めてないと、もう会えなくなりそうだから。ただの後輩で終わりたくないんだ。だって、和成さんがオレの人生を変えた。好きなように泳いでいいんだって教えてくれた。和成さんがいないと、オレ……怖いんだよ」  和成を見上げた光太の目が潤んでいた。いつも強く輝いている目が、濡れている。和成は体の中から込み上げてくる衝動を必死に押さえ込んだ。 「俺は、おまえが――」 「なに」  言っていいのか逡巡した。しかし、全てさらけ出すつもりで家に連れてきたのだ。一番大事なことを隠していては、うまく付き合っていけないとわかったはずだ。 「好きなんだ、おまえが。後輩としてじゃなくて。それでもこの俺に、さっきのように言えるか?」  光太の眉が寄り、目に迷いが浮かぶ。必死に考えているようだが、視線は和成を捕らえたままだ。光太が何度か口を開きかけ、閉じる。その動きを見ていると、じわじわと力が抜けていくような諦めが全身に広がっていった。 「悪かった。どっちかというと、そういう感情よりも、おまえに憧れてる方が強いかな。おまえにみたいに強くなりたい。だから、人生を変えられたのは、俺の方だな。忘れてくれとは言わないが、出来たら気にしないで欲しい」  声が震えそうになるのを必死で堪えたせいで、タオルを持つ手に力が入る。ちゃんと笑顔を作れないのを誤魔化そうとタオルで汗の乾いた顔を拭く。  そこに光太の匂いがあった。夏の匂いだった。きらめく水面が脳裏に浮かぶ。たまらなかった。 「送っていけないけど」  帰ってくれ、と言いかけた和成に、飛び上がるように立ち上がった光太が抱きついてきた。タオルに移ったより鮮明な塩素と汗の混じった光太の匂いに、くらっとする。ぶつかった光太の、薄いがしっかりと筋肉のついた体を抱きしめそうになった手が宙を舞う。 「大学は同じじゃなくても、もう泳いでなくても、オレは和成さんといる。もう決めた。だから、不安でも頑張って。焦ってもやり遂げて。どんな和成さんでもいいから、オレと一緒にいて。これがただの依存でも、恋愛でも、憧憬でもなんでもいい。オレはただ、あんたといたい」  一層強く抱きしめられ、和成は光太の体に腕を回した。びくっと光太の体が震えた。バランスの取れた筋肉と硬い骨の感触は、想像していたよりずっと熱かった。でも、回した腕に力を籠めると、壊れそうな気がした。 「でも、」 「あんたとなら、なんでもできる」  体を離そうとした和成に、光太は下から勢いよくキスをしてきた。唇越しに歯が当たり、舌に血の味が広がる。離れたと思い切れた唇を舐めた隙に、またキスされる。今度は舌を差し込んできた。ぬるりとした舌先が触れ合う。雷に打たれたような衝撃が走る。  どうして? こんなのはダメだ。そう思うが、舌は勝手に絡み合っていく。光太の舌を吸い、歯を舐め、奥まで差し入れる。時折漏れる光太の短い声に煽られ、激しさを増していく。   光太の舌に翻弄されながらも、なにが光太をこんな行動に向かわせたのか考えた。光太の泳ぎを思い出す。ただ泳ぐのが好きだというだけじゃないなにががある。タイムを計っていなくても、あれは本当に競技を諦めた人の泳ぎじゃない。  どうしようもなく興奮に流さそうになる衝動を、必死に押しとどめた。寄せてくる光太の顔を両手で挟み、遠ざけた。光太は泣きそうになっていた。子供みたいに不安をそのまま顔に乗せて和成を見る。 「おまえ、本当は競泳に戻りたいんじゃないのか」 「違う!」 「自分がまだ通用するのか怖くて、踏み出せないんだろう」 「そんな……違う」  光太が顔を振るが、和成は手を離さず、しっかりと顔を向き合わせた。 「俺を言い訳にしなくちゃいけないほどやりたいんだろ。なら、やればいい。ちゃんと見ていてやるから。ダメでも誰もおまえを責めたりしない。この高校を選んだことを後悔してもいいんだ。俺と出会ったせいにすればいい。全部俺のせいにしろ。もう一度コーチをつけてやり直せば、まだ間に合う。だから、こんなこと、しなくていいんだ」  わかったな。そう言うと、光太は小さく頷いた。光太の噛み締めた唇が震えていたのを、気づかないふりをして手を離した。さっきのタオルで光太の顔中を雑に拭う。 「さあ、帰れ。俺は勉強する」 「部活、また来る?」 「行かない」 「一緒に帰るのは」 「しない」  光太は来たときとは別人のようにのろのろと玄関に行き、靴を履いた。ドアを開けると、空は夜が満ちていた。昼の名残は空気の暑さだけだ。 「まだ暑いな」  見送るつもりでサンダルに足を入れたが、光太に押し留められた。 「オレ、和成さんに出会ったこと、後悔したことないから。今日のことだって、そう。どんな和成さんでも知れてよかったと思うし、やっぱりまた一緒に泳ぎたいって思う。……会えなくなるのは、さみしい。それだけ覚えといて」 「わかった」  光太の頭をいつものように乱雑に撫でた。髪が乱れたまま光太が出ていく。ドアが閉まる。最後に見たシャツの白さが目に残る。瞬きしても、目から涙が零れても消えない。胸が痛かった。  勉強しようと思った。もっと必死に。もう迷わないように。決して後悔しないように。そして光太の眩しさを目を細めなくとも受け止められるようになったら、競う勇姿を観に行こう。  和成は勉強机に向かった。やることはたくさんあった。やれることは、もっとあった。 【完】 一言でもいいので、感想いただけると嬉しいです。Twitter→@fumi_hatsu

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