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第2話

寝て、お腹が空いたら起きて、言葉にならない声を出す。 すると、またあの顔の綺麗ながやってきて、何かを彼が一方的に話しながら、何かを口に入れたらまた眠る。 何度繰り返しただろう。 食事は、液状のものからどろどろしたものに、そして固形のものへと変わっていき、だんだん力なくも寝返りが打てるようになり、そして自力で上体を起こせるようにまでなった。 そして彼の一方的な話を聞いて、彼の名がアシュリーということ、両親が何らかの目的で異国から来たことやその両親は事故で亡くなっていること、なぜ僕がここにいるかなどが分かった。 たまたま遠い街に買い物をしに行った帰りに、僕が路地裏に怪我だらけの意識がない状態で倒れていたのを見かけ、連れ帰ったそうだ。 彼の声は、聞いていて心地が良い。少し低めの声音は、凛としている一方で優しく、そしてなにより美しい。 話し方も、僕の心を少しずつとかしていくみたいに温かい。 そして袖から覗く痛々しい痣や、鎖骨のあたりにあるミミズ腫れのような傷をみても、決して僕に何も聞かないのだ。 そうしているうちに彼のことを信じることができるようになり、もう触れても震えることはなくなった。 むしろ彼の少し冷たい手が熱を帯びた体に心地よいとさえ思える。 次第に眠る時間が減り、ベッドの上で起きていると、今度は良くないこともわかってきた。 ここまで尿意などを覚えなかったのは確かだったが、この夢のような不思議な出来事のせいで何も気にしないで来た。 実際には寝ている間に彼が全て体を拭いたり、髪を洗ったり、排泄を促したりと世話を焼いてくるていたのだ。 今思えば確かに自分は何もしていないのに毎日清潔にされていて、服も体も臭わず、口もさっぱりとしているのはおかしい。 そして、一気に恥ずかしくなった。しかしその一方で、これが現実なのかもしれないと、密かに安堵して。 彼はよく僕の手足を曲げ伸ばししたり、僕の体制を変えたりしていた。 でも。 「少しでも早く動けるようにね」 と言いながら優しく微笑む彼の、やっぱりその笑顔にはやはり隠しきれない寂しさみたいなものを感じる。 こんなに手厚く、優しくしてくれる彼のためにも、早く動けるようになろうと思う。 …ここに置いて欲しいと、頼んでみようかな。ふと、そんな考えが頭を巡った。 まだ覚えてないことが多いけれど、たくさん手伝うから。 あの、守ってあげる、という言葉を信じてみたいと思う。 もし裏切られたら、その時は自ら命を絶てばいい。 今まで大人という大人は僕を殴り、蹴り、そして口でも殴っていった。なぜか小学校教育だけは受けたが、担任にはやっぱり毎日殴られた。 同級生には、いじめられたわけではない。ただ、いつも周りのヒソヒソ声は自分を責めているのだと感じたし、結局のところ必要に迫られない限りは同い年とも話さなかった。 だから、こんな風に優しくされたのは初めてで、もし嘘でもこの思い出と共になら後悔なく旅立てると確信している。 彼は全てジェスチャーで僕の考えを把握してくれたが、それでも少しもどかしくて、なんとか伝えられないかと思い、僕は彼の方をじっと見た。 「どうした?」 優しそうに微笑まれて、やっぱり綺麗な人だからと、恥ずかしくなって少し焦点がずれる。それでも、やはり伝えたくてもう一度向き直った。 ジェスチャー以外で言葉を伝える手段は文字しかない。彼の発音を聞く限り彼は同じ言葉を使っているし、発音を聞く限り母語も同じ。 一生懸命、片手にペンを持って、もう片方の手に紙を持って、ものを書く様子を擬態する。 「ん?なんだろう?」 しかし、彼は全く理解してくれない。他に何か方法はないかと考え、そしてあることを思いついた。それには1つ障壁があるけれど。 でも、大丈夫。 彼の手を掴み、そして手のひらを開かせて、指で文字を書く。 「!?」 彼は形の良い目を丸くして驚いている。かなり緊張はしたけれど、自分でも驚くほどあっさり、自ら大人の身体に触れた。やはり少しも怖くない。 「そうか、文字は書けるの?」 聞かれて、こくこく、と頷く。どうやら伝わったみたいだ。 「少し待っていて。」 小さく微笑むと、彼は部屋を出て、そして紙とインク、そしてペン。書きやすいように紙の下に板まで用意されている。 「自由に使って。何か欲しいものがあるとか、して欲しいことがあれば書いて伝えて。」 紙は、触っただけで上質だとわかるような高級なもので、板と紙とペンを受け取り、インクをつけたあと、もったいないからと端の方になるべく小さく文字を書いた。 ここにいたい 1年ぶりに書く文字は、短い文でも手にうまく力が入らないことも相まってひどく不恰好になった。でも、ギリギリ読めるように丁寧に丁寧に、そしてどうか許してもらえますようにと強い思いを込めて書いた。 文字を書いたあとなにも返事がないから、不安になった。やっぱり出来すぎた夢?すぎたわがままだったのだろうか。彼の顔を恐る恐る覗くと、彼はこちらを見ていなかった。 数えで13の、傷だらけの、何もできない子供。 そんな子供を傷を縫い合わせ、手厚く看病し、こんなに優しくしてくれる。それだけでとんでもないことなのに、確かにこんな願いをするのは図々しい。 やはり自分で動けるようになったなら、彼にこれ以上世話になるわけにはいかないのだと感じた。 彼なら優しいから。と、そんな理由でどこまで図々しいのかと、反省した。 どうすればいいのかわからないから、ごめんなさい、と、紙の端っこに書いて、彼の袖を引く。袖を引く瞬間にわずかに伝わってきた振動で、彼が小刻みに震えているのがわかった。 そして彼は、ハッとしたようにこっちを振り向くと、その文字を見て紙と板、ペンを取り上げ、僕を抱きしめた。 「どうして?すごく嬉しい。ありがとう。」 なぜ感謝されるかもよくわからないまま、その抱きしめる手の強さに、初めて人の愛情?温もり?のようなものを感じた。とても心地がいい。でも、強すぎて苦しい。息ができない。 耐えきれなくなって彼の手をぽんぽんとたたくと、彼は僕を離して今度は頭を何度も優しく撫でてきた。 その目はなぜか涙で潤んでおり、しかし彼は幸せそうに笑っていた。そう、幸せそうに。 …あの優しい微笑みの裏に覗く寂しさも、今の表情からは感じられなかった。 「ごめん、嬉しくて。…名前を聞いてもいい?」 名前、か。自分の名前。 名前を呼ばれるのは決まって怒鳴られる時だったから、あんまり言いたくないな。彼にはその名前で呼ばれたくない。 そんなわがままな気持ちで1つだけ、嘘をついた。 わからない そう、紙に書いた。 君でも、お前でも、好きなように呼んで欲しい。でもこの名前では、呼ばれたくない。ひどいわがままだ。 困っているかもしれない彼の反応を見るために顔を覗くと、彼は何やら真剣に考え込み、そして数分後に口を開いた。 「じゃぁ、テオドール、テオ、と呼んでいいかな?呼ぶ名前がないと、不便だから。」 思ってもみない反応に、びっくりしながらも嬉しかった。 だから、こくこく、とうなずいて。 今日からテオ。 どうしてか温かな響きをもったその名前は、僕をうまれかわらせてくれたような気がした。

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