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3.

「……ここ、どこだよ」  おそらく五回以上は呟いた言葉を、リカは再度落とす。けれど、返事をくれる者はいない。それはリカに友達がいないからではなく、現実問題、この場にはリカ以外の人間がいないからだ。  通い慣れたとは言い難い学校の、静まり返った廊下。自分の記憶が確かなら、この時間は美術の時間のはずだ。そうなれば、自分が向かうべきなのは、おそらく美術室で間違いないだろう。そこに『おそらく』と付くのはリカが前回の美術の授業をサボったからで、今は何の課題をしているのか知らないからで、訊ねる友達がいないからでもある。ここにきて、獅子原理佳は自身がぼっちであることを痛感する。 「ああ……面倒くせぇ」  歩き疲れたリカは、壁に凭れて休んだ。とりあえず自分の知っている美術室に行ってはみたものの、そこは無人だった。そう言えば課題の内容によっては使う教室が変わることを、学年初めのオリエンテーションで聞いた気がする。気がしたところで、目的地がどこかは不明のままだ。 「気まぐれで授業に出ようとすればこれだし、移動してみれば迷うし、さっきから同じところを徘徊してるだけだし……同じ美術で使う部屋なんだから、一ヶ所にまとめろよ。誰だよ、この校舎を設計したバカは」  リカ本人は断固として認めないが、極度の方向音痴である。主要な移動教室は地図を頭に叩き込んだものの、こうして異例の事態が起きれば対応できるわけがない。そもそも、美術室に一度たどり着けたのも、リカにとっては奇跡に近いぐらいだった。  姿の見えない相手に文句を零し、ため息をついたリカは額に手をやる。本当なら煙草を吸って気を落ち着けたいところだが、さすがに校内でそれをするほど愚かではない。  もういっそ、サボってしまおうか。どうせ自分が来ないことなど、誰も気にしないに違いない。美術の担当教師に怒られた時は、素直に謝ればいいだろう。そう考えたリカは、立ち上がり進行方向を変えた。自分の今いる場所が分からなかったとしても、階段を上って行けば自ずと屋上に出る。 「これで美術の先生が女なら楽勝なんだけどな。男か女かすら覚えてないって、ヤバいな、俺」  自分の顔の良さを武器にしようと、リカは開き直った。仮に美術の担当が男だったら、泣き落としも辞さないぐらいだ。半ば自棄に居直りながらも、リカは足を進める。もう頭の中には一服することしかなく、着いた先の扉が施錠されていたら、とは考えもしなかった。  そんなリカの足が、ぴたりと止まる。正しくは止めざるを得なかった。 『あー、あー』  ガガッ、と濁ったノイズの後に、どこかで聞いたことのある声。意味のない言葉を発してマイクの調子を確かめた声の主が、すっと息を吸いこむ。リカは、その呼吸音を確かに聞いた。 『一年二組の獅子原……あれ、あいつの本当の名前何だっけ? あー、駄目だ。分からないからリカでいいや。獅子原リカ君。聞こえてますかー?』  授業中だというのに、突然流れた呼び出しにリカは周りを見回した。それは何の意味も持たない行動だったが、見回さずにはいられなかった。そんなリカを置いて、声は続く。 『きっと美術室に行ったけど誰もいなくて、どこに行けばいいか分からなくて、でも誰にも聞けずに彷徨ってる獅子原君。お前が行くのは屋上じゃなくて、美術室は美術室でも、第二の方だよー』  わざとらしく語尾を間延びさせ、声はリカの一連の行動を言い当てる。まるで全てを見ていたかのように、リカが辿った逐一を指摘してきた。しかも、かなり意地の悪い言い方で。 「この声。それから、ふざけた呼び方も。絶対あいつだろ……」  リカの脳裏に浮かぶのは、屋上で出会った傍若無人な男の姿だ。あの男以外に、リカと呼ぶ人間はこの世に存在しない。  自然と険しくなるリカの眉。綺麗な形だと賞されるそれが、今は眉尻を上げて歪んだ。まさか全校放送で恥を晒されるとは思ってもみなかった。 「あいつ、まさか全部どこかで見てたとか? いや、それはないだろ……それなら、どうやって知ったんだよ」  一人で迷子になっていたはずなのに、全て言い当てた星一にリカは驚く。あたかも最初から見ていたかのように言い切った星一は、ふっと吐息で笑った。 『ちなみに、リカが学校に来ているのは知ってるから。どうせ教室に一人でいるのが耐えられなくて、屋上に逃げたはいいものの気づけば寝てたってとこだろ。急いで美術室に向かったら誰もいなくて、誰にも聞けなくて迷子になった獅子原君』  眉間に刻まれたリカの皺が深くなる。そして怒るのではなく、呆れた。推測にすぎないことを自信たっぷりに言うところにもだが、それを放送するという形をとったことに対してだ。 「やっぱり、どうかしてるって。普通は、こんなことしないって」  予測のつかない暴挙に出た星一にリカは頭を抱えたが、相手はマイクの向こうにいる。一方的に話しかけられることはあっても、こちらの声は絶対に届かない。どこまでも強引な男。初対面の時の印象を覆さず、星一は続けた。 『そんな獅子原君のことが心配で、迎えに行ってあげようかと思ったんだけどさ。迷子のリカちゃんがどこにいるか、残念だけど分からないんだわ。どこで迷子になってるのか、それを知るところから始めなきゃ駄目なんだわ』  だからさ、と一旦言葉を切った星一が笑って、そして続ける。 『獅子原君以外の人は、聞かなかったことにしてくださーい。そして獅子原君は、これを聞いたらすぐ行動してくださーい。一回しか言わないから、いいね? ぜろ、きゅう――』

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