6 / 11

5.

「星一、隈ができてる」  向かい合って座る星一にリカが手を伸ばす。下瞼に薄っすらと浮かぶ痕を指先でなぞると、星一の眉間に僅かに皺が寄った。 「リカ、ここ教室なんだけど。ちなみにもうすぐ朝礼が始まる」 「それが?」 「お前、人目って知ってる? 物質的なものじゃなく、抽象的な意味での」  リカが周囲に視線を巡らせると、数人と目が合った。 「それが?」  同じ言葉で訊ねたリカに、星一がため息をつく。 「お前さぁ、そういうこと自然としちゃうから駄目なんだよ。リカは生きてるだけで人を唆す」 「そういうこと?」  首を捻るリカに、星一は「その手」と答えた。リカが見るのは、星一の頬を撫でていた自分の手だ。 「至って一般的な手だと思うけど」 「そうだな、見た目は細くて指の長い素敵なお手々。あと、付け足すなら意地が悪いけど器用なお手々、だな。でも問題はそこじゃなくて、それが何に触ってるかなんだよ」 「何って、星一にだろ」 「おう。お前、どこの世界に友達のほっぺたを撫でる男がいると思ってるんだ?」  ますます意味が分からないとばかりに、リカは困った表情を浮かべた。それを見る星一は、頭を抱える。まさかあの孤高の獅子原理佳が、ここまで懐くとは思っていなかったのだ。  星一がリカに声をかけてから約一年。共に過ごすことが増えた二人に、初めは驚いていた周囲も、時間が経てば自然と見慣れる。リカと星一が一緒にいるのは、今となっては当然のことだった。  星一だけがリカと気安く呼び、リカだけが星一と対等に話す。いつの間にか星一はリカへの伝言係となり、最近ではリカの所在地を訊ねられることも多い。こうなった兎丸星一は思う。手負いの獣ほど、実は愛情に飢えているのだと。 「俺、リカと一緒にいるとそのうち妊娠しそうだわ……」 「は? 俺、お前とはヤッた記憶ないんだけど」 「あったら強姦罪で訴えて、死ぬまでも、死んでからも苛めてやる」 「死んでからもって、お前は鬼か。安心しろ、何があってもお前だけは抱けないから」  軽く笑ったリカが自分のスマホを取り出した。一度は両親だけになったアドレス帳は、星一と過ごす内に増えていった。星一にとってそれは喜ばしいことのはずなのに、どうも手放しでは喜べない。なんだか子供が手を離れていくような、複雑な感情を星一は覚える。 「そういやリカちゃん、先週末に合コン行ったらしいな」  ごまかすように星一が話題を変えれば、リカは表情を全く変えずに答えた。 「ああ。ああいうの初めて行ったけど、疲れるだけで退屈なもんだな」 「聞いた話によれば、ビール一杯で酔っぱらったらしいじゃん。そのまま綺麗なお姉さん二人に、未成年のくせにお持ち帰りされたってのも教えてもらった」 「そう。朝起きたら知らない部屋で、知らない女が喧嘩してた。どっちが付き合うかとか、自分の方が先に目をつけただとか……面倒くさくて抜け出したけど」 「死ねよ、女の敵。っつか、全人類の敵」  じとり、とリカを睨んだ星一は鞄からノートと数学の教科書を取り出した。それを開いて見つめるのは、昨夜どれだけ頑張っても解けなかった問題だ。  いいところまでは進むのに、あと一歩何かが足りない。あと少しで届きそうな答えが出ず、放り投げたシャーペンが机に転がる。それを拾い上げたリカは、教科書とノートを見比べ軽く頷いた。  淀みなく動くリカの手。その性格と同じく几帳面な文字が続く。それは星一が苦戦した箇所でも止まることはなく、最後まで綴り終えたリカは握っていたシャーペンを星一へと返した。 「ほら」  返されたノートとリカを交互に見た星一は、嫌そうに顔を顰める。 「なんで俺が解けない問題をリカが解けるんだよ。リカのくせに、なんで?」 「そういう時もあるだろ」 「あってたまるか。お前、俺が毎日どれだけ勉強してると思ってんの? 慧が寝てから、最低でも四時間はしてるのに」  荒々しくノートを閉じた星一が机に突っ伏す。今、リカを見てしまったら八つ当たりしてしまいそうになったからだ。  自画自賛にはなってしまうが、星一は自分が秀才だと自覚していた。けれど、それは努力に努力を重ねた結果のものであって、上には上がいる。それがリカだった。  毎日をなんとなく生き、自分を曲げることはない。その取っつきにくい外見から遠巻きにはされるものの、リカから歩み寄れば誰だって受け入れる。勉強も運動も、リカが本気を出せば自分は敵わない。それを星一は分かっていて、負けたくないから無理をする。最近はオーバーワーク気味ではあったけれど、まさかリカ本人に指摘されるとは思わなかった。  悔しいだとか、羨ましいだとか、そんな単純なものではない。星一が抱く感情に最も近いのは『恐怖』だ。

ともだちにシェアしよう!