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6.
「飼い猫に手を噛まれるって、このことか」
顔を伏したままで言った星一に、リカが返す。
「それを言うなら猫じゃなく犬だろ」
「リカのどこに犬の部分があるんだよ。犬ならもっと従順でいろ」
「相変わらず星一は横暴だな。これでも、星一の我儘には寛大だと思うけど」
わしゃわしゃ、と星一の髪を掻き乱したリカが手を止める。不意に何かが動く気配を感じた星一は、思わず顔を上げた。卑屈になった自分にリカが呆れ、立ち上がってしまったと思ったのだ。
「リッ……――」
呼び止める星一の声が途切れる。それは、顔を上げた先にあるリカの表情が、あまりにも想像と違ったから。
普段は妖艶さが強いリカの瞳が、自分を映す。穏やかな色で、優しげに目尻を垂れて。まるで何年も大事にしてきた宝物を愛でるよう、視線だけで伝えてくる。星一は特別なのだと、リカの目が伝えてくる。
「どうした?」
「えっ……あ。どうって、何が?」
「は? 俺を呼ぼうとしたのは星一の方だろ。お前が聞いてどうする」
仕方がないやつだな。破顔して言うリカに、星一は胸を抑えた。俯き隠しながら胸元を掴み、鈍く軋む心臓に言い聞かせる。
駄目だ、駄目だ、と。これ以上進んでしまうのは、どう考えたって不毛なのだ。
人から好意を向けられることが苦手なリカに、特別な感情は抱いてはいけない。たとえリカが自分のことを特別視してはいても、それは『友情』という大きな輪から出ることはない。
だって、つい数分前に言われたばかりだ。リカは何があっても『星一だけは抱けない』と。
持てる全ての息を深く吐いた星一は、ゆっくりと顔を上げる。何も悟らせないように、わざと口角を上げて笑み、リカに言い放った。
「ところでリカちゃん。お前、自分がリカ呼びされることに抵抗なくなったのか? 最初はあれだけ嫌がってたくせに、もう諦めたのかよ」
途端に険しい表情へと変わったリカに、星一は内心で安堵の息をついた。
「どうせ呼ぶなって言っても、星一が聞くわけがないって知ってるからな」
「そんな理由で? 随分と物分かりがいいんだな、お前は」
「そんな理由って言うか……あー、なんだ、その。あれだ」
――他のやつなら許せないけど、星一だけは特別だから。
少しの躊躇いを経て、リカが言ったのは、この一言。それを聞いた星一は、聞くんじゃなかったと後悔した。そして同時に、何とも言い難い想いを覚えた。それは愛おしくもあり悲しくもあり、喜ばしくもあり切なくもある。嬉しいの一言では済ませられない。星一の抱く想いは、どこまでも続く難解な感情だ。
「お前は本当に何で……リカがそんなだから不必要に人を引き寄せて、不必要に揉め事を起こすんだよ。今度生まれ変わる時は、その顔とそのキザな性格は絶対に捨ててこい」
想像以上のダメージに星一は顔を上げることができない。そんな星一の様子に気づかず、リカはまた理不尽な文句に苦笑するだけだった。
こうしてリカと星一は一見すると穏やかで、けれどお互いに見えない線を引いた関係を続けた。たまに意見がぶつかって言い合いをしたり、どちらかが不機嫌になって八つ当たったり。かと思えば、何事もなかったかのように笑っていたり。そのうち大熊桃太郎と美馬豊も加わり、四人で過ごすことが増えたが、それでもやはりリカの隣には星一がいた。
いるのではなく、いた。今となっては過去形なのだ。星一とリカの関係は、ある日、突然終わりを迎えた。星一がリカを庇ってこの世を去るという最悪の形で。
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