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嫌なことがあると見る夢がある。
安っぽい毛布みたいな毛皮に包まれて微睡む夢だ。間抜けな寝息が近くで聞こえる安心感で強張っていた体から力が抜けていく。
俺を「松風」と呼ぶ男の腹の下。未だに、あれ以上の寝具を知らない。
「枩吏、なに、どうしたの……」
ベッドを抜け出し、外の空気を吸いに行こうとしていると、同じ大学の由美(ゆみ)が目を擦りながら体を起こした。
由美の実家はIT系の会社で、大学内でも金遣いの粗い部類だった。αと言うだけあり、遊び呆けているように見えても成績はトップクラスで、学業の傍らモデル業にも勤しんでいた。
「モク切れ」
「うちも行く」
一人になりたいから部屋を出ていこうとしたのに、空気がわからないこの女は図々しくついてこようとする。
由美とは体の相性がいい。寝るのはただそれだけが理由だ。ベタベタ触れ合うのは気持ちが悪い。
「タバコ吸うα女とか無理だから」
「はあ?」
由美の怒号を背に部屋を出た。
そもそもタバコを吸う予定なんてない。スマホと財布を持って出たのは、夜中までやっているカフェで考えを整理したいからだった。
四年前、俺は野生の獣人に出会った。
――松風。
俺をそう呼ぶあのαとはどれだけ一緒にいても足りないと思った。家族にさえそう思えなかったのに、ずっと一緒にいたいと夜一相手になら思えた。
そう思い抱いて、俺はただ逃げていたことに気がついた。苦い過去を忘れて暮らす夢のような幸せに気づき、あの男から離れてこんな場所にいる。
月懐のような獣人を増やしたくないという思いで、煌めくほど澄みきったあの場所を手放した。
さすがに魑魅魍魎がばっこする政界に単身乗り込むことはできない。ただでさえ獣人を擁護する政治家は人気がないのだから、後ろ楯のない俺なんか一息で飛ばされてしまう。それなら、既存の組織に出資する方が堅実だった。
大学に通いながらアプリの開発で一山儲け、獣人の人権保護を謳う政治家の後援団体に寄付をし、今はアプリの開発を元手に会社を立ち上げて奨学金制度のための相談をしている最中だった。
獣人のΩを支援する団体にも寄付しているが、問題はほとんどの団体が聞こえのいいことを言うだけで、実際には手続きが面倒くさく、補助も下りづらいポンコツ団体だった。
月懐が悲嘆したのもわかる。
最悪なのは、支援団体と言っておきながら、獣人のΩの個人情報を愛玩獣人を欲しがっている者に流している悪徳組織が紛れていることだった。
こういう事件に対して警察は腰が重い。だからと言って見逃すわけにもいかないため、渋々、壮代の名を借りて発破をかけた。お陰で兄の智夕には睨まれているが、どうでもいい。
使えるものは何でも使う。プライドも何もかもを捨てても、俺は全てを変えたい。今もどこかで生きている月懐の両親に、変わった世界を見てもらいたかった。
そうなって、初めて俺は自分を許せる。月懐を見殺しにした馬鹿だった幼い俺を許すことができる。
俺が変えるから。次にお前が生まれてきた時、生まれてきてよかったと思える世の中にするから。
だからいつか、もう一度会えたらまた友だちになってほしい。
カフェでコーヒーを飲んでいると電話がかかってきた。夜中でも仕事関係なら珍しくないが、今回は違った。
「なに」
一応、出ないと後がうるさい。
『枩吏』
父の声にずきりと頭の奥が痛む。
『すまないが、明日の夜は空いているか』
「用件次第だけど」
父は俺が家に戻り、α然とした進路を歩み始めると満足したのか色々と便宜を図ってくれる。昔はそんな特権、くそ食らえと思っていたが、今は理想を手にするためなら、何でも使う。それが、打算に染まりきった肉親でも。
『倉本長官がね、ホームパーティーを開かれるんだが、お前を誘うよう言われてな』
倉本久彰(くらもとひさあきら)。警察庁長官で、壮代家にとっては恨みを買いたくない人物ナンバーワンだ。
「……警察関係のパーティーに、俺?」
『娘の瑠璃さんが今度、成人されるそうだ。婿探しだろう』
「長官の娘はΩか」
父が黙った。間違いない。
つまり集められるのは前途有望なα、と言うわけだ。
「……俺はつがいを作る気はない」
昔、一度だけどうしようもないくらいΩに劣情を抱いたことがある。相手は、夜一の兄だった。
戸籍を持たない獣人は駆除の対象になるため、人間とは接触せずに暮らしている。俺自身、夜一が現れなければ野生で暮らす獣人の一族がいるとは思わなかった。
そんな中、夜一はともかく、その兄がどうして俺の前に現れたのか。あの時、夜一に聞いた気がするがよく覚えていない。
本能のせいで無理矢理発情させられたあの感覚は、これ以上ないほどに不愉快だった。
そして、恐らくだが、俺の魂のつがいは夜一の兄だ。あの時に嗅いだにおいは、発情したΩのにおいとは明らかに違っていた。関係を持てば、噛まずにはいられなかっただろう。
俺がそうならなかったのは、月懐を思い出したからだ。理性を捨てたケダモノに襲われ、人としての権利をこの社会に奪われた月懐を。
あそこで本能に負ければ、俺は月懐を犯そうとしたβと同じになるところだった。
そして、それをしなかったからこそ、今こうしてここにいる。
『誤解するな。選ぶのはお前ではなく長官だ』
「それなら、俺もβに指図される筋合いはない」
『長官直々のお呼びだぞ。それに、倉本と聞いて思い当たらないか』
そう言われて、少し考えた。そしてすぐにある男の顔が思い浮かぶ。
倉本銀行。そこの社長である倉本政一郎が俺の会社への融資を渋るせいで仕事が滞っていた。
『わかるか。この話を断ればお前の仕事にも影響するだろう』
わざとらしい忠告だ。俺のやろうとしていること全て覆そうとしているくせに。
『そう言えば家にあるお前の古い服だが、処分して構わないか』
「急になに」
『いや、少しな。それで、どうなんだ』
実家に置いてきた服にはたった一ヶ月ほどの間に経験した眩しいほどの思い出が詰まっている。
自分じゃ捨てられない。
「……捨てていい」
『そうか。明日は帝王ホテルに八時だ。遅れるな』
返事をせず通話を切った。
帝王ホテル。嫌味なほどの高級ホテルだ。余計な時間を使いたくなかったが、仕方がない。
αの社交場は腐りきっている。俺はαが集まるパーティー以上に醜悪なものは見たことがなかった。
あんな場所に好き好んで行く輩の気が知れない。
カフェに入り、無愛想な店員にカウンターで大きなサイズのコーヒーを注文する。味なんてどうでもよかった。
安っぽいジャズがかかっていて、寛げはしないが何となく嫌な問題が遠くに感じた。
大味のコーヒーを飲みながら、このまま朝までここにいて、大学に行ってから着替えようか悩む。由美に会うのが面倒くさい。明日も会いたいと言われた時、断るのも面倒だ。大学近くのコインロッカーに着替えが数組み入れてあるし、ホテルの部屋に戻らなくてもなんの問題もない。
昔から友だちは多くはなかった。いや、友だちは多かったのかもしれない。それほど親しくなかっただけで。
俺が今までまともな関係を築けたのは、月懐と夜一だけのような気がする。
第二性はΩとαで全く違うが、二人ともどこか似ていた。
何がと言うと、二人とも俺にせせら笑いを向けた。
――夜一の話は何だったんだ?
やりたいことができたと夜一に告げると、何か夜一も話があると言っていたのに俺を嘲弄して呟いた。
――忘れたから、構わなくていい。
その刺のある言い方が嫌で、思えば何となく喧嘩別れをしたみたいになった。そんなところも、月懐との状況に似ていて胸が悪くなる。
あんな別れ方だったのに、未だに俺は夜一のいるあの山が恋しくてたまらなかった。
何もかもが嫌になっていたあの春。俺は人間で、ずいぶん昔に分岐して全く違う進化を遂げたのに、獣のように山の中を走ることがたまらなく楽しかった。
あんなに楽しかったのは月懐と秘密基地を作って以来かもしれない。
ふと木漏れ日を浴びる月懐の横顔を思い出した。
そういえば、まだあるのだろうか。
当時の記憶としては、かなり居心地のいい場所に出来上がっていた。校舎裏の林に作ったはずだ。そこは、当時の俺たちにとって海外のファンタジー小説の森のように神秘的な場所だった。今、冷静になって考えれば、夜一がいた山の一割にも満たない貧相な林のはずだ。
それでも校庭で遊び、疲れた体を癒してくれる秘密基地は特別な場所だった。何より、俺と月懐だけの秘密と言うのがたまらなく嬉しかった。
行きたいと思った。
俺の人生の中で、輝いていたわずかな名残を見に行きたかった。
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