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彼が好き
【卯月さんの、奥さんって】
橘さんに聞くことじゃないと思い直し、メモ紙を破り捨てようとしたら、橘さんに見付かってしまった。
「もしかして、何も聞かされていないんですか?」
正直に頷くと、深い溜め息を吐かれ、しかめっ面された。がっかりするのも無理はない。
「未知、橘さん一旦休憩にしましょうか」
気まずい空気が流れて。どう返そうかと思案に暮れていると、ナイスなタイミングで茨木さんに声を掛けられた。ミルク多め、少し甘めのカフェオレ二つと、オレンジジュース。そして茨木さん特製のパンケーキがテーブルに並べられた。橘さんが意外にも甘党だと知ったのはつい最近のこと。
「いただきます」
ちょこんと椅子に座り、両手を合わせる一太。大好きなパンケーキを前に大興奮。歓声を上げていた。
そんな一太を目を細めて眺めながら、橘さんはカフェオレをゆっくりと口に運んでいた。
「那奈(なな)さんといいまして、卯月と同い年です。結婚して十年、子供はいません。皮肉なものですね、無類の子供好きなのに・・・」
寝惚け眼で彼が口にした名前、やっぱり奥さんだったんだ。
悔しくて、込み上げてくる涙を必死で堪えた。胸が苦しくて、下唇をギュッと噛み締めた。
「何も、未知さんが卯月の子供を産めばいいんです。違いますか?」
橘さんの言葉が、悪魔の囁きに聞こえた。
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