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【Love in Red】日野カルネ

「んっ……」 頰に触れた指先が、氷のように冷たくなる。 雨に濡れたせいなのか、それとも―― *** はじまりは、奇妙な雨宿り。 陸上部の合宿で訪れた、そこそこ名の知れた避暑地。 先輩たちにふっかけられたジャンケンに惜敗し、標高の低い山の頂上に佇む研修施設を抜け出したのは、たった数時間前のことだ。 夜食を求め麓のコンビニを目指し、迷うはずのない一本道を淡々と辿っていたはずが、ふと気がついた頃には背丈の半分までを先の細い植物に覆い尽くされ、呆然と立ち尽くしていた。 足元を照らしてくれていた月明かりも、突然流れてきた厚い雲に隠されてしまった。 見渡す限りの闇。 頼りになるのは『圏外』と無情な現実を告げるスマートフォンの明かりだけで、だがそれも所詮は有限の命綱。 早いところなんとかしなければ。 そう焦り始めたところで、しとり、と控えめな気配が空から降ってきた。 色濃い空から水の雫がぽつりぽつりとこぼれ落ち、鬱蒼と生い茂る緑を遠慮がちに叩く。 やがてそれはまるで追い打ちをかけるかのように太い雨の筋となり、途切れがちだった勢いも断続的なものになった。 手の甲に刺すような痛みを何度も感じながらひたすらに藪をかき分けた先で、黄色い光に視力を奪われた。 瞬きを繰り返すと、ふやけた世界が徐々に輪郭を取り戻していく。 突如開かれた空間の中心でどっしりと構えていたのは、場違いなほど大きな邸宅。 ふいに途切れた雲の合間から差し込む月影を浴びて、黒暗を跳ね除けようとするかのように真っ白く浮かび上がっていた。 永遠に続きそうな窓と壁が左右に広がり、見上げた先では太く立派な柱に支えられた玄関……否、エントランスの上が、アーチ型のバルコニーになっていた。 手摺に施された立派な装飾が、輝きを増した月光の下、魅惑的な濃淡を浮かび上がらせている。 まるで、紳士淑女時代を描いた外国映画に出てきそうな洋館。 ぐう。 あんぐりと口を開けていただけだった身体の中心で、空っぽの胃袋がその存在を主張した。 反射的にジャージのポケットに手を入れ、だがすぐに絶望する。 そもそも、買い出しに行くところだったのだ。 食糧など持ち合わせているはずがない。 極度の空腹に加え、雨に濡れたせいで、体温がどんどん低下していくのがわかる。 寒い。 ほんの一瞬だけ躊躇って、重厚な扉を守るように牙を剥き出しているライオンに手を伸ばした。 せめて電話が借りられたら。 そしてあわよくば、キリキリと痛み始めた胃を満たすことのできるなにかを恵んでもらえたら。 そんな淡い期待を胸に、金属の重い輪っかを、ドン、ドン、と二度、叩きつける。 しばしの間。 耳に届くのは、雨が地面に染み込んでいく音だけ。 かなり歴史のありそうな建物だ。 もしかしたら、今はもう誰も住んでいないのかもしれない。 心の中で揺らめいていた期待の灯火(ともしび)を吹き消し、諦めて踵を返そうとした、そのとき―― 「どちらさま……?」 天使を見た、と思った。 *** 「怖い?」 薄い唇が妖艶に弧を描き、紅玉(ルビー)の瞳が煌めく。 挑戦的な視線は、それでいて僅かな不安を携え揺れていた。 彼は知らない。 自分が誰なのか。 なぜここにいるのか。 案内された居間の暖炉にはしっかりと薪がくべられ、パチパチと僅かな火花を散らしながら広大な空間を温めていた。 壁にかかった大きな柱時計は、軋みながらも規則正しく揺れ動き、時折鐘の音を響かせて長針の周回を告げる。 ティーポットは傾けるだけで淹れたての紅茶をカップに注ぎ、腹の虫が騒ぐと作りたてのスープが出てきた。 石造りの風呂にはなみなみと湯が張られ、冷えた身体を芯から癒してくれた。 〝ずっと誰も使っていない〟はずの部屋には塵ひとつなく、いつのまにか施されていたベッドメイキングも、どれだけ目を凝らしても小さな皺のひとつも見つけられない完璧さだ。 眠れないと漏らしたときも、断っていなければ、熱々のホットミルクが手渡されていたのだろう。 『僕はもう、この世の存在(もの)ではないのかもしれないね』 透明なヴェールの向こうで、泣きそうに笑いながら彼は言った。 儚げに紡ぎ出された言葉は、果たして真実なのだろうか―― 「いや」 「え?」 「怖くない」 群青色の空を稲妻が鋭く照らし、追いかけるように轟いた雷鳴が窓を痺れさせる。 彼は、微動だにしない。 傷つけないようそっと銀糸を掻き上げ、露わになった額に口づけを落とした。 伏せられた瞼から伸びるまつ毛が、白い目尻に濃い陰影を造り出す。 「綺麗だよ」 再び姿を現した(あか)い瞳が、まっすぐに俺の姿を捕らえた。 また一度降り出した雨がカーテンのように重なり、ひとつの厚みとなって窓を流れていく。 ゆっくりと体重をかけながら、うっすらと湿った首筋に顔を埋めた。 「あっ……あぁっ……」 淫らな情欲が交わり、濁った音が響く。 快楽に蠢く肉体が、彫刻のように美しい。 まるで、この世の汚れなどなにも知らないように。 「んっ……あ、あ、あっ……!」 雷光が、重なり合う俺たちをスポットライトのように一直線に貫く。 咎めているのだろうか。 嘲笑(わら)っているのだろうか。 「あっ、やぁっ……あぁっ……!」 たとえ、この出会いが幻だとしても。 夜明けとともに醒める夢だとしても。 俺は―― fin

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