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【彷徨う魂に愛の手を】めろんぱん
「明日には東京帰るとか考えられねぇ…あの灼熱の炎天下には帰れねぇ〜〜〜避暑地最高!な!!」
降り注ぐ太陽の光は同じもののはずなのに、東京では地獄の業火にも感じられるそれが今この八ヶ岳では春の穏やかな日差しとも間違えてしまいそう。
小川のせせらぎ、森のざわめき、小鳥のさえずり。都会の喧騒に疲れた心と体に染み入る優しい空気を胸いっぱいに吸い込んで、僕は曖昧な微笑みとともに頷きを返した。
「うん、帰りたくないよね。明日帰って明後日から仕事とか…あ〜やだね、うん。」
「うわぁぁやめろ!!言うな!!考えるなー!!」
「あはは、ごめんごめん。」
頭を抱えて大げさに叫ぶ村井は、ちくしょーとわかりやすい悪態をつきながら小石を拾い上げると、川に向かって大きく振りかぶった。
小石が水面を楽しげに跳ねていく。3回元気よく跳ねたそれは、糸が切れたように4回目で音もなく川底へ沈んでいった。
「あーあ、もう1泊してぇなぁ。」
「ご飯も美味しかったしね。」
「それなー!…はぁ、そろそろ戻るか。傘持ってねぇし。」
村井はニカッと八重歯を覗かせながら笑うと、地べたに置きっぱなしだった鞄をひょいと持ち上げた。
移ろいやすい山の天気に振り回されたのはこの八ヶ岳に到着した日、コンビニで酒を調達して宿に戻るまでのほんの30分でゲリラ豪雨に見舞われ濡れ鼠になった。幸い風邪こそ引かなかったが、翌日もまだ靴が乾ききらずに気持ち悪い靴で歩き回る羽目になったのは記憶に新しい。
時間を確認すると、15時。そろそろ気をつけねばならない時間帯だが、空を仰ぐと快晴だ。
「僕、もう少しだけここにいたいな。先戻っててよ。」
小川のせせらぎなんて、そうそう聞けるものじゃない。僕は村井の背を見送ると、靴を脱ぎ捨てズボンの裾を捲って川に足を浸けた。
冷たくて気持ちがいい。生まれてこのかた都会で暮らしてきた僕にとって、この場所はどこか非現実的だった。
歳をとったら田舎暮らしもいいなぁ、なんて軽率な思いつきを頭の中で繰り広げ、麦わら帽子をかぶって自給自足の生活を営む自分を想像したが、その隣には誰一人いなくて僕は苦笑する。
村井が唯一と言っていいほど交友関係の狭い僕だ。村井だってこの冬に結婚が決まっていて、家庭を持つとなかなかこうして友達と遊びになんて行けないからと盆休みを利用して誘ってくれたのがこの避暑旅行のきっかけだ。
家族は両親と老いた犬だけ。きっと将来は一人寂しく生きるのだろうと思っている。
どこかで良い人と巡り会えたらいいのだけど。それもなかなか難しい話だ。
僕はふるふると首を振って、深呼吸した。美味しい空気が体内を浄化してくれた気がして、僕は川から上がる。
その時足の裏にひやりと嫌な感触を覚え、背筋を何かが這った気がした。が、先ほどなんら変わらない岩だ。辺りを見回しても何もない。
気のせいか、とホッと胸を撫で下ろしたその時だった。
「いたぞ!!こっちだ!!逃すでないぞ!!」
嗄れた男の声だった。
僕は反射的に振り返り、辺りの様子を伺う。誰もいない。なのに確かに何者かの気配を感じる。僕は本能的に恐怖を感じて堪らず走り出した。
逃げるな
逃すな
捕まえろ
頭の中に直接響いてくる数多の声。男の怒号、女の悲鳴、子供の笑い声、そのどれとも違う気味の悪い甲高い声。
カッとあたりに光が迸ると、一瞬遅れて凄まじい雷鳴が響き渡った。
「ひっ…!」
より一層大きく頭の中に響く声。
人の声が遠くなり、気味の悪い笑い声と風の音が強くなる。加わったのは雨の音。危惧した夕立が襲ってきて、雨水が地を叩きつけられる音がまるで鞭打ちのように響いた。
おいでおいで
こっちへおいで
なぁんにも怖いことはない
さぁおいでこっちへおいで
瞬く間に勢いを増した雨がみるみる全身を濡らしていく。既に地面はぬかるみ一歩踏み出すごとに土が跳ねてズボンを汚した。でもそんなことお構いなしに僕はひたすら走った。
得体の知れない何かが僕を連れて行こうとしている。
右も左も分からないこの土地を全速力で駆け抜けた。息が苦しい。あちこち引っ掛けたせいで服はボロボロだった。傷だらけの手足の痛みは感じない。それほど必死に走った。
「わっ!ッ…いた…」
けれど慣れない山道を走るなんてことが長く続くはずもなく、僕は太い樹の根に足を取られて見事にすっ転んで動きを止めた。立とうとしても右足首が言うことを聞かない。捻ったのかも知れない。
邪魔になった使えない右足に、ぬるりとした何かが触れた。
「ヒッ…やめ、くるな!!」
頬を引きつらせて後退る。背中に触れる樹の幹は冷たく湿っぽい。ここで捕まったら、一生帰れない気がした。けれど、逃げられる気もしなかった。
半ば諦めかけたその時、温かいものが僕の腕をしっかりと掴んだ。
「こっち!」
低くてよく通る、温かくて優しい声。
凄い力でぐいっと僕の身体を引っ張り上げたその人は、僕をいとも容易く横抱きにして走り出す。僕があんなにも苦労した山道を、整備された陸上トラックのように軽々と走る。
ズルリズルリと何かが這う気持ち悪い音が背後から聞こえてきて、僕はギュッとその人の服を掴んだ。その人はまるで風のように山道を駆け抜けて、やがて見えてきた古びた小屋に飛び込んだ。
古木の香りが充満する小さな小屋は、強い雨風に悲鳴をあげている。ドアだけがガタガタと不自然に揺れているのは、あの得体の知れない何かが体当たりをしているのだろうか。それともそんなものは存在しなくて、ただ風に揺れているだけなのかもしれない。
わからない、怖い。
喉の奥が不自然な音を立てはじめる。僕は呼吸の仕方を忘れてしまったように浅い呼吸を繰り返し、過呼吸状態に陥っていた。
「おい、落ち着け。」
僕をここに連れてきたその人は、不自然な呼吸を繰り返しながらガチガチ歯を鳴らしている僕の肩を強く抱いた。
力強い温かさがほんの少し安心感を与えてくれたけど、窓の外を迸った稲光に再び震え上がる。より呼吸が詰まって、苦しくて、もしかしてこのまま死ぬのかも、なんて。
「チッ…」
そして次の瞬間、唇が塞がれた。
「…んッ…」
もともと呼吸困難に陥りパニック状態だった僕の唇は半開きで、その隙間から彼の舌が入り込んでくる。絡め取られて擦れ合う舌先からジンと甘い痺れが広がっていき、頭の奥がとろりと柔らかく蕩けていった。
何度も何度も唇を重ね合わせて、どちらのものかわからない唾液が僕の顎を伝っていく。そのころには、恐怖と過呼吸でガチガチに固まってしまっていた僕の身体はすっかり弛緩して、ただただ目の前の男にすがりつくしか出来なくなっていた。
「…は、はぁ…」
真っ暗闇を照らす稲光。その稲光が照らし出したのは、美しく整った精悍な顔立ちをした年若い男性だった。
どこかで見たようなその男は、僕の呼吸がすっかり正常に戻ったのを確認してホッとしたように優しく微笑んだ。
あれほど悲鳴をあげていたドアはいつのまにか静かになっている。僕を追いかけてきた何かは諦めて去ったようだった。雨風も先ほどよりは落ち着きを取り戻し、小屋の中は古い木の匂いに混じって雨の匂いがし始めた。
「もう落ち着くだろうが…夜の山は危険だ。特に今の時期は人ならざるものも出る。さっきのような…」
「ッくしゅん!」
男の静かな声を遮ったのは、僕の間抜けなくしゃみだった。
雨に濡れた体がふるりと震える。一度寒さを感じてしまうと止まらなくて、僕はギュッと両腕で己の身体を抱きしめた。
「…脱げ。体温を奪われるぞ。」
男の静かな忠告に、僕は恥じらう暇もなく着ていたTシャツを脱ぎ捨てた。ぐっしょりと濡れたそれは絞れそうなほどだった。
元凶を取り除いても既に冷えてしまった身体はカタカタと震え出す。するとふわりと温かい何かに包まれて、震えが治った。
それは、男が着ていたパーカーだった。
「…着てろ。」
「でも、貴方が。」
「気にするな、俺は平気だ。」
均整の取れた美しい筋肉を纏った身体を惜しげもなく晒した男に、こんな時だというのに僕は少しの興奮を覚えた。直視できなくて、でも気になってちらりと見てしまう。
僕は誤魔化すように、緊張で戦慄く唇を開いた。
「あ、ありがとう…えっと、」
「タイガ。」
「ありがとうタイガ。僕は渓 。」
タイガはゆっくりと視線をこちらに寄越した。あまりに真っ直ぐ見つめるものだから気恥ずかしい。だのに囚われてしまったように視線を逸らすことが出来なかった。
───
ゲリラ豪雨のような夕立はすぐに過ぎ去り、外は大分静かになっていた。しかし空が明るくなることはなく、しとしとと弱い雨が降り続けている。
時折遠くから動物の鳴き声なのか人の声なのか判断し難い不気味な声が響いてくる。アレはなんなのか、ここはどこなのか、果たして帰れるのか、言いようのない不安に押し潰されそうになって僕は膝を抱えて座り聞こえないふりをしようと目をぎゅっと閉じたのだが、これが失敗で、視覚を奪われたことで聴覚が敏感になってしまいより恐怖に震える羽目になった。
「…渓は、旅行者か?」
「えっ…あ、うん。」
「どこから?」
「東京…」
ふつりと会話が途切れて、また不気味な鳴き声が脳内を侵食する。
会話が弾んでいるとはとても言えない程度ではあったけれど、外の不気味な声を自分たちの声にかき消すには十分だった。
あ、もしかして。
僕の中で一つの仮説が立つ。もしかして僕が恐怖に震えているのに気付いて、話を振ってくれたんじゃないかと。
僕は早速何か会話のきっかけになるものがないか探した。
「タイガは、この辺りで育ったの?」
タイガはチラリと僕の方を見て、少し考えた。
「…いや、何年か前からここにいる。」
「ここ?この小屋?」
「ああ。」
僕は小さな小屋を見回す。
古びたベッド、今にも足が折れそうなテーブルと椅子、いつから使われていないのか見当もつかない簡易キッチン。錆びて使い物になりそうもない包丁。とても人が暮らしていける環境には思えないが、タイガはここに住んでいるという。近くにスーパーやコンビニの類もない。
年下にも思えるくらいなのに、何年か前からって、10代の頃からたった一人でこんなところに住んでいるんだろうか。
「ごはんはどうしているの?」
「腹が減ったのか?」
「えっ…あ、いや違うけど。」
そういえば、腹が減らない。
そろそろ昼を食べてから随分と時間が経ったはずなのに、一向に腹が減る気配がない。それどころか喉も乾かない。
ぞくりと背筋に悪寒が走る。額を伝ったのは冷や汗だ。
「…ちょっと寒いね。ごめんねタイガ、寒いよね?」
気温が下がってきているのは事実だったから、それに乗じて冷や汗も悪寒もなかったことにしたくて、僕はきゅっと借り物のパーカーを握りしめた。
僕にこれを貸してくれているせいで、タイガは上半身裸のままだ。いくらなんでも寒いだろう。けれど僕がもともと着ていたTシャツはずぶ濡れで、寒さをしのげるものは他にない。
「いや、平気だ。」
「嘘、こんなに冷えるのに寒くないわけない。くっつこう、その方が温かいよ。」
戸惑うタイガを他所に僕はタイガにすり寄った。こつんと触れ合った肩が温もりを感じる。タイガはそっと僕の方へ手を伸ばし、しかしその手を引っ込めた。その視線は僅かに揺れている。まるで触れるのを迷っているように見えた。
この右も左も分からない状況下でタイガの存在に大きな安心感を覚えていた僕は、タイガのその不安定な視線に囚われて、僕の方から手を伸ばしてその大きな手を握りしめた。
指先から伝わってくる確かな熱と交差した視線。恐怖と不安で冷え切った身体がじんわりと解される。タイガの揺れていた視線もしっかりと僕に定まっている。僕がホッと力を抜いたその瞬間、くいと優しく手を引かれて僕はタイガの腕の中に飛び込んだ。
「渓、あったかいな…」
独り言のように呟かれたそれは、僕こそ感じたことだった。
僕らは雨の音を聞きながらきつく抱き合い、互いの体温を感じながら体を温めあう。そしてどちらからともなく唇を重ねて舌を絡めあった。雨の音よりも唾液が混じり合う音の方が大きくなり、そしてごく当たり前に肌を重ねた。
古いベッドに腰掛けたタイガに乗り上げて熱を受け入れながら、声を上げて涙を振りまいて、タイガの頭を掻き抱いた。ほんの数時間前に出会ったこの男に全幅の信頼を寄せ、そして確かに愛おしさを感じていた。
「タイガ…ッ!タイガ、あ、んぁッ…も、…ッ」
「渓、渓……」
「あっ…んんッ!」
タイガは僕の胸にぴったりと耳を当てて、壊れてしまいそうなほど動いている鼓動の音を聞いていた。
僕は絶頂の余韻に浸りながら、短く切り揃えられたタイガの髪を愛でた。
「渓…心臓の音がする。」
「ふふ、何言ってるの。当たり前だろ。」
こんな壊れてしまいそうなほど動いているのは普通じゃないけど、と付け加えると、タイガはフッと小さく笑った。
「…そうだな。」
───
空が白み始めた。
結局丑三つ時を過ぎても降り続いていた雨はようやく小雨になり、もうまもなく止むだろうと予想がつく。
僕とタイガはぴったりと身を寄せ合って、外の木々の葉な雫をこぼすのを見ていた。
「…渓。」
タイガの静かな声が狭い小屋に響く。絡めた指先に力が込められて、うつらうつらしていた僕は意識を取り戻して握り返した。
「渓、もうすぐ夜が明ける。小川のせせらぎを頼りに真っ直ぐ歩くんだ。決して振り返ってはいけない。人里に出るまで絶対にだ。」
「タイガ…?」
「人に会ったら、綺麗な水を一口でいいから飲むといい。」
「タイガは?行かないのか?」
僕は当たり前にそう尋ねた。
こんな山の中で、スーパーもコンビニもないところでたった独りなんて。一緒に行こうと、言外にそう誘ったつもりだった。しかしタイガは、とても晴れやかに笑ってみせた。
「…俺は、いくところがあるから。」
そう言うと、タイガはゆっくりと僕の手を離して立ち上がり、すっかり乾いたTシャツを着せてくれた。そして再び手を握ると外へ出るドアに誘導する。
ドアノブに手をかけ、しかしすぐに離して僕の頬を両手で大切に包み込み触れるだけのキスを落とすと、タイガは痛みを感じるほどに強く強く僕を抱きしめた。
「ありがとう渓。愛情ってやつを教えてくれて…お前のおかげで、やっといけそうだ。」
その時僕の第六感が告げた。
もう、二度と会えないんじゃないかと。
「タイガ!」
「行け。振り返るなよ。」
とん、と背中を押されると、僕は一歩小屋の外に踏み出した。
さらりと肌を撫でる温かくて穏やかな風に僕は本能的に悟る。
帰れる、と。
耳を澄ませば風に乗って微かな水音が聞こえた。途端に僕は渇きを感じて歩き出す。腹が減った。強烈な空腹と渇きが身体を襲い、キュッと胃が悲鳴をあげる。
段々と足を早め、終いには走り出した。どんどん水音が近くなる。それは小川のせせらぎのようだった。
タイガの言った通りだ。
「タイ…」
振り返ってタイガに呼びかけようとして、ハッと思いとどまった。
振り返ってはいけない。
振り返れば、タイガには会えるかもしれない。いや会えないかもしれない。タイガはいくところがあると言っていた。
それに、帰れなくなるだろう。あの古びた小屋の中で、人か霊か妖 かもわからない生き物に怯えながらたった独り永遠にも思える時を過ごさねばならないだろう。
僕はグッと堪えて、再び走り出した。
汗とは違うものが頬を伝う。
確かに愛し合ったと、そう思えるのに。
「タイガ…ッ!」
顔を上げると、涙の膜で曇った視界に広がるのは村井と別れた川べりだった。
───
「はい、はい…申し訳ありませんでした。」
トンと一つスマホを叩くと、簡単に通話は途切れた。ため息を一つついて、僕は窓の外を見やる。
燦々とと表現するにはあまりに凶悪な日差しがアスファルトに降り注ぎ、アスファルトは対抗するかのように照り返す。ちょうど中間地点であるこのアパートの3階という位置は、窓の外が真っ白で何も見えない。
タイガと別れ、川べりに戻ってきた僕は記憶を頼りに宿への道をのろりのろりと歩いて行った。やがて宿まで辿り着くと、主人は目を見開いて、大粒の涙を零したのだった。
「ああ、お客様…!良かった…!!」
主人だけではなく女将も中居も、果ては他の宿泊客まで集まり騒然となり僕は狼狽した。
聞けば僕は1週間も姿を消していたらしい。
先に宿に戻った村井は待てど暮らせど戻ってこない僕を心配して辺りを探し回ったが見つからず、翌朝警察に捜索願まで出して東京に戻ったという。村井は東京に戻って僕の両親に頭を下げ、会社にも連絡してくれていた。
盆休みに避暑地の山中で忽然と姿を消した僕の話はあっという間にニュースになり、神隠しではと世間を賑わせたという。それも3日を過ぎると皆が僕の生存を諦めて、世間が僕の失踪を忘れ去ったその矢先に僕はフラフラと宿に戻ってきたというわけだ。
誰かが呼んだ警察に引き渡された僕は病院に運ばれて、ありとあらゆる検査を受けたが健康体そのものだった。そう、1週間も失踪していたとは思えないほどに。
病室で受けた事情聴取にも、僕は大した情報を提供できなかった。誘拐でも失踪でも自殺未遂でもない。僕はただあの不気味な森の小さな小屋でタイガと一晩過ごしただけだ。
夢だったのかもしれない。
もちろん僕もそう思った。けれど夢だったと思うにはあまりに全ての記憶が鮮明だった。
タイガのパーカーの肌触りも、タイガの声も手の大きさも重ねた唇の感触も、意外と柔らかかった髪の手触りも、受け入れた熱も。
そして何よりも、僕の胸の間、ちょうど心臓のあたりに、タイガは情事の痕を残していた。今はもう消えてなくなってしまったそれを見つけた時の僕の喜びは天にも昇る心地で、同時にどうしようもない喪失感と虚無感に襲われたのだった。
健康体そのものの僕はすぐに退院して、警察もおざなりな注意をして僕は晴れて自由となり東京に戻ってきた。
その時点で、タイガと別れたあの日から既に2週間が過ぎていた。
2週間が過ぎてもタイガの記憶は薄れることはない。それどころか日毎恋しくなる。
あの腕に抱かれ、愛を囁きあいたい。想いは募るばかりで、次の連休にはもう一度あの宿に泊まって山に入ろうかと思っている。タイガに会える可能性なんて無いに等しいにもかかわらずだ。
今、どこで何をしていますか。
届くはずのない問いを窓から都会の雑踏に投げ入れて、僕は馬鹿らしくなって何となくテレビをつけた。
「それでは次のニュースです。」
真昼間のワイドショーらしい派手なセットに似合わないどこか真剣みを帯びた声を聞きながら僕は立ち上がり、冷蔵庫を開けた。
そろそろまた麦茶を作らないとな、とぼんやりしながらグラスに注いでいく。小気味いい水音を聞くと、それを一気に煽った。
「先日、八ヶ岳の山中で発見された白骨化した遺体の身元が、3年前義理の母親を殺害したとして全国に指名手配されていた我妻 大河 容疑者のものと判明しました。」
八ヶ岳。
山中。
タイガ。
耳に飛び込んできたワードの数々に、僕は恐る恐るテレビ画面を見た。
そこに映し出されたのは、恋しくて恋しくてたまらない人の顔。僕の知る顔よりも少し若く写りはあまり良くないけれど、それは確かにタイガだった。
「発見された遺骨は頚椎に激しい損傷が見られ、側には錆びた包丁が見つかっていることから、我妻容疑者は被害者を殺害後にこの包丁で自害したと見られており…」
がしゃんと大きな音を立てて、僕が持っていたグラスはあっという間に割れた。
「………嘘。」
確かに触れ合った。
確かに温かかった。
けれどどこかで、彼の言動が不自然であることには気が付いていた。
スーパーもコンビニもない場所で、錆びた包丁一本と壊れそうなベッドと共にたった独りきり。暑いとか寒いとか、腹が減るとか喉が乾くとか、睡魔に襲われるとか、そういった人間として当たり前の欲求を失ったかのような言動。
僕の胸に耳を当てて心臓の音を聞き、自嘲気味に笑った姿。
『俺は、いくところがあるから。』
「うそ、嘘だタイガ…!」
ぼくは信じられなくて、いや信じたくなくて、スマホでネットを開き我妻 大河という名前を検索した。
───
トップに表示されるのは、たった今僕がニュースで聞いたものと同じ。そして画像欄に並ぶ写真。
間違えるはずがない、この腕に抱かれた。この唇に触れた。
少しスクロールすると、我妻 大河が起こした事件の概要が簡単に表示される。僕は意を決してページを開いた。
今からちょうど3年前の夏、長野県で発見された女性の遺体。酷く損傷した状態で見つかったそれに当初は猟奇殺人犯の犯行と見られたが、調査が進むにつれ血の繋がらない息子の犯行であることがわかった。
それが、我妻 大河だ。
大河は全国に指名手配されたものの、有力な情報もなく逃亡中とされていた。そして先日、八ヶ岳の山中で発見された白骨化した遺体が、我妻 大河のものと判明し、恐らく事件直後に自害したと見られている。
被害女性は大河の父親の再婚相手で、義理の息子にあたる大河に随分小さな頃から日常的に虐待を加えていたことがわかっていた。度重なる仕打ちに耐えかねての犯行と見られている。
───
僕はスマホを握りしめたまま、滝のように流れる涙をそのままにしていた。怒りと悲しみが同時に押し寄せて、どうしたらいいのかわからなかった。
たった独り、小さな頃から。
そんな事件を起こすほどに苦しんで、苦しんで苦しんで苦しんで、挙句あんな山の中で自害して、空へ還ることもできずに。
それほどまでに彼を追い詰めた周りにどうしようもない怒りを覚えた。もうどこにもいない、本当に二度と会えないことに悲しみを覚えた。
こんなにも、愛しているのに。
「タイガ…タイガ、たいが、…ッ!」
助けてあげたかった。彼が生きているうちに出会い、手を差し伸べてあげたかった。笑い合い、時には喧嘩して、共に歳をとりたかった。
どうして、こんな形でしか出会えなかったのか。
「大河ぁ…!」
けど、それでも。
彼の魂を救ったのが僕で良かった。彼を愛したことで、僕が彼を天に導いたのだ。彼を誰よりも愛したなによりの証を、彼に誰よりも愛されたなによりの証を、僕は手に入れた。
僕は、死して尚苦しみ続けた大河の1番になれた。
「大河、愛してる…大河…ッ!」
僕はスマホに表示された写りの悪い大河の写真にそっとキスをする。
そして窓を開けて、空を見上げた。
☆☆☆
読了ありがとうございました。
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