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【天使の護り人】春日すもも

どしゃぶりの雨が降りしきる森の中でSPである諏訪晴臣(すわはるおみ)は、護衛対象である城ヶ崎聖(じょうがさきひじり)を背負って歩いていた。 「聖(ひじり)様、大丈夫ですか?」 「うん……」 雨を吸い込んだ黒のTシャツは諏訪の体に張り付いて、体温を急速に奪っていく。自分は日頃鍛えているからいいとしても、白い半袖シャツの夏服姿の聖は自分よりもきっと体が冷えていることだろう。 聖から「いますぐ来てほしい」という一報を受け、諏訪は都心から城ヶ崎家の避暑地である別荘に車を飛ばした。別荘に着くと急いで敷地内の森へ向かった。探している間に、突然の夕立に降られ、体はびしょ濡れになったが、すぐに倒れている聖を見つけられたのは運が良かったと思う。 「別荘に戻るよりも温室の跡地のほうが近いので、そこで雨をしのぎましょう!」 背負った聖が頷いたのを背中で感じ、諏訪はゆっくりと歩き始めた。 ◇◇◇ それから雨の中を十五分ほど歩くと、役目を終えた温室は今では誰も訪れることなく、ひっそりと森の中央に建っていた。 聖を背負ったまま、諏訪が空いている片手で温室の古びた木製の扉を押すと、それは簡単に開く。 中に入ると鉢植えひとつないコンクリートの打ちっぱなしの床には、あちらこちらに埃が積もっている。どうやら掃除などは行き届いていないらしい。 昔は植物が生い茂る緑豊かな温室で、植物が太陽の光をたくさん浴びることができるように、と空を大きく切り取ったような大きな窓があり、豪華だった窓の装飾は今では錆に覆われてしまっているのが残念だ。 「聖様、濡れた服を脱いで、ここで待っていてください」 諏訪は、あまり汚れていない窓側の床に背負っていた聖をゆっくりおろし、諏訪は自らの体に張りついたTシャツを脱ぎ捨て、温室の隣にある控室に向かった。棚に片付けてあった宿直用の毛布とタオルを何枚か調達し、元の場所に戻ると、上半身を脱いだ聖が自分の体を両手で抱えながら、寒さに震えていた。 「さ、これを羽織って」 持ってきた薄手の毛布を聖の肩にかけ、その背中をゆっくりとさすると、徐々に体が温まってきたのか、聖の震えも収まってくる。 「諏訪……おまえは寒くないのか?」 「大丈夫ですよ。SPは体が資本ですから」 「そうか」 諏訪の鍛え上げられた上半身を見たのか、聖の頬が少しだけ緩んだ。 城ヶ崎家は代々続く名家だが、現当主だけは子宝に恵まれなかった。夫婦が子供が授かるよう祈り続けていたある日のこと、生後間もない赤子がこの森に捨てられていた。それが、聖だ。 ゆるく曲線を描く、赤みがかったピンクベージュの髪に、澄んだ蒼色の瞳に長いまつげ、色白な肌は透き通るようで、どこかの国のハーフを思わせる容姿だが、聖の出生はどれだけ調べてもわからなかった。それでも聖の両親は、聖は神様が自分たちに与えてくれた子だと信じ、実の子供のように大切に育てた。 一方、代々、城ヶ崎家に執事として仕える諏訪家の次男である晴臣は、体つきの良さから将来は執事ではなく護衛役の筆頭になるようにと武術を叩き込まれ、高校を卒業した十八のときに、聖を守る役目を与えられた。 二人は主人と護衛という立場でありながらも、すぐに打ち解け、聖は十歳離れている諏訪を兄のように慕った。 内向的な性格と、病弱な体のせいで学校にも行けなかった聖にとって、諏訪は初めてできた友達でもあったらしい。 そしてあれから十年経ち、今でも諏訪は聖の護衛役を勤め、聖もまた、諏訪に絶大の信頼を寄せていた。 さっきまで横殴りの激しい雨が窓を打ち付ける音で会話すらできない状態だったのに、今は穏やかな雨が窓を濡らしているだけで、しんと静まりかえっている。 まるで自分たちがここに来たことを見届けてから、雨が弱まったかのようにすら思える。 「諏訪ならきっと来てくれると思ったよ」 体が温まってきたのか、聖はようやく口を開いた。 「聖様、もしかして"力"を使ったのですか」 諏訪の言葉に、聖は何も答えず、ただ黙って頷いた。 「貴方の力をこんなところで使うなんて。他に使うところがあるでしょう」 「ないよ。僕はいつだって、この力を使うべきときにしか使わないようにしてる」 「聖様……」 聖が普通の人間ではないことに、諏訪は出会ってすぐに気づいていた。 人並み外れた整った容姿だけでなく、聖は時々不思議な現象を引き起こしていたからだ。 たとえば、森で傷ついた鳥を両手で包んで治したり、嵐の夜に動かなくなった救急車を触れただけで走れるようにしたり、そんな小さな奇跡をいくつも起こしてきた。しかし聖はその不思議な力を決して自分には使わず、困っている弱い立場の相手にだけ使う。 諏訪はその聖の優しさに触れて「人前では使わないようにしましょう」とだけ告げ、この力のことは二人だけの秘密だった。 「ここで、諏訪と二人きりになりたかったから」 ほんのりと頬を染めて、俯きながら聖が呟く。 聖がこの場所を選んだ理由は、なんとなくわかっていた。 この温室は、聖が捨てられていた場所であり、幼い頃、諏訪と一緒に遊んだ思い出の場所でもある。 ときどき、聖が誰にも内緒でここに忍び込んで、一人過ごしていたことも諏訪だけは知っていた。 「でもね、今はこの力が、昔みたいに気軽には使えなくなっているんだ」 「……」 諏訪は、最近の聖が以前のようにこの力を使っていないことに、薄々気づいていた。 最近の聖は、原因不明の病にかかり、ベッドで寝たきりの生活が続いていて、医者から面会も拒絶されている。 実際、二人が会ったのも一ヶ月ぶりくらいだ。 「こうして無理に、諏訪を呼んだのは、お別れを言いたかったからなんだ」 「何をおっしゃるんですか。聖様は必ず元気になります!」 勢い余った諏訪は、聖の白くて細い腕をぎゅっと握りしめる。 「仕方ないんだ。天使の寿命は、だいたい十八年くらいだからね」 「天使……!」 諏訪は、聖から告げられた言葉に驚くと同時に、心のどこかでやっぱりそうかと腑に落ちていた。 昔から見てきた聖の不思議な力は、天使の仕業だったのかと思うと理解できる。 この美しい容姿で森に捨てられていたこと、出生が謎に包まれていたこと、どれをとっても聖は普通の人間ではなかった。 「お父様やお母様、そして城ケ崎のみんなが優しくしてくれて、僕はとても幸せだった」 「やめてください!確かにあなたの正体が天使なのは納得できる。でもそれがあなたがこの世界からいなくなる理由にはならない!」 「諏訪……」 「あなたがいなくなったら困ります……!」 聖の目を見て訴える諏訪に、聖は優しく声をかける。 「それは護衛として? それとも諏訪の気持ち?」 「それは……」 その先に続く言葉を諏訪は飲み込んだ。 この想いだけは、告げてはいけないと決めていた。 ただの護衛である自分が主人に対して不相応な想いを抱いてはいけないと、ずっと気持ちを押し殺してきたのだ。 「僕たち、どんな出会いをしたら、結ばれたのかな」 「聖様……あまり私を困らせないでください」 「だって僕も諏訪のこと……」 「聖様、それ以上はいけません!」 諏訪はただ、首を横に振る。その先の言葉は言ってほしくなかった。 聖が自分に対して同じ想いを抱いていることは知っていた。 自分を見る目がいつしか、友情を超えたものになっていることに諏訪は気づかないふりをした。 二人の気持ちが同じであっても、身分があまりにも違いすぎる。 このまま二人の気持ちにお互いが触れることなく、そばにいられたらいいと望んでいた。 「僕は、ここでの役目を終えて天に還る運命だった。けれどひとつだけ間違いを犯した。それは人間であるおまえに恋をしてしまったことだ」 「聖様……」 「でも僕は間違いだなんて思っていない。僕は天使の力を失っても諏訪のそばにいたい」 「それはどういう……」 「実は、僕が生き延びる方法はひとつだけある」 「えっ……」 「でもそれは口にしちゃいけない決まりで、きっと叶わないと思う。だから最後の時間を諏訪と過ごしたかった」 最初、自分を呼び出したのは、病院を抜け出して、この森で二人で過ごしたかったのだろうと諏訪は思っていた。 けれどまさか聖の命が終わりを迎えようとしていて、自分に別れを告げようとしているなんて予想もしていなかった。 「諏訪、お願いだから……君の気持ちを聞かせてほしい」 聖の蒼色の瞳が揺れると、急に窓の外の雲行きが怪しくなってきた。周囲が薄暗くなり、ごろごろと空が鳴り、雷鳴が瞬く。 まるで聖の気持ちに連動して、空が激しく乱れているようだ。 「いけません、そんなに心を乱しては身体に触ります」 「最後くらい……最後くらい聞かせてよ!」 聖が、諏訪の腕にしがみついて揺する。 そんなことをされたら今までせき止めていた想いがいよいよ決壊してしまう。 気持ちを許してしまったら、二人はどうなるのだ。 「やめてください、最後だなんて言わないでください!」 「嘘でも……いいから!」 「嘘だなんて……!」 そんなことあるはずがない。だって、自分は―― 「愛してるに決まっているだろ!」 諏訪の叫ぶような声は轟く雷鳴よりも大きく、聖に届いた。 「諏訪……」 「天使だろうと人間だろうと関係ない。ずっとずっとあなたのことが……好きでした」 聖の瞳はみるみる涙で溢れ、その一筋が頬を流れ落ちた。 そして空はようやく静まり、再び雨が降り始める。 「やっと、やっと聞かせてくれた……」 「私だってずっと伝えたかった。でも最後だから言ったんじゃありません」 「……どういうこと?」 「あなたにこれからも生きてもらいたいから、私という未練をこの世界に置いて天に還らないためです」 「諏訪……」 「ほら、もう泣かないでください」 諏訪は聖の髪を優しくかきあげ、その額にキスをした。 「あなたがこの世で生きていける方法を必ず私が見つけます。どうかそれまでは消えないでください」 「僕は十分だよ。諏訪の気持ちが聞けて、二人が愛し合っていたんだと知ったから」 「まだです。私の気持ちは言葉だけじゃ伝えられません」 諏訪は細い聖の体を羽織られた毛布ごと抱き締めた。 「あなたを私のものにしたい」 「僕を諏訪のものに?……いいの?」 「それは私が聞きたい。私とひとつになってくれますか?」 「諏訪、嬉しい……」 聖の細い腕が諏訪の背中に伸びて、二人は強く抱き締め合った。 「身体がしんどいときは、言ってください。貴方に無理をさせたくない」 「違うよ諏訪、何があっても僕とひとつになって、やめないで」 「聖様……」 諏訪は聖を抱いた腕を緩め、その小さな唇に自分の唇を重ねた。差し入れた舌に聖は一生懸命応じた。 聖を優しく押し倒し、キスを深くする。このまま重ねた唇から二人が混ざりあってひとつになっていくようだった。 夢中になって聖を愛したあとで、諏訪は聖を抱きしめたまま耳元で囁いた。 「ちゃんと私たちのことを城ヶ崎のご主人様にお伝えして、これからは二人で静かに暮らしましょう」 聖は驚いて、諏訪の顔を見る。 「本当に?」 「はい。ですからどうか元気になってください」 「ありがとう、諏訪。愛しているよ」 「私もです。あなたを一生守らせてください」 二人は再び抱き合って、何度も何度もキスをした。 気づけば眠りに落ちていた諏訪は、ゆっくりと身体を起こすと、毛布が肩にかけられていて、温室に一人きりであることに気づいた。 辺りを見渡しても、聖の姿はなく、ただ、聖がいた場所には白い羽が大量に落ちていた。 諏訪は立ち上がり、温室の扉を開けて外に出る。 空を見上げると雨は嘘のように止んでいて、とっぷりと深い闇に星空が広がっていた。 医者から城ヶ崎聖は今夜が峠だと言われていた。ここ数日の聖は一人では歩くどころか、昏睡状態で、面会も謝絶だった。 携帯に連絡があったときには驚いたが、聖が自分に会いたくてあの力を使ったのだとすぐにわかったのだ。 本当に聖の言うとおり、最後に、自分に想いを告げにきてくれたのだとしたら、この事実を受け入れたくない。 腕には、先程はらったはずの羽が、名残惜しそうにはりついている。 「聖様、あなたのいない世界で私は何をしたらいいのでしょう」 最後に二人で過ごした森の中で、聖に想いを告げることができてよかった。そう想いたいのに、割りきれない。諏訪の頬に一筋の涙が流れ、あとからあとから涙が流れてくる。 「聖様……聖様……」 もっと早く気持ちを伝えていたら、二人の思い出が増えたのかもしれない。でも自分は、聖に気持ちを伝えることすら、躊躇していたのだ。 それでも聖がいなくなるとわかっていたら、もっと早く行動を起こして、二人で過ごすことができたのではないか。 後悔ばかりが、まるで泡のように浮かんでは弾けて消えていく。 ポケットにいれていた諏訪の携帯が鳴る。画面を見ればそれは病院からだった。 「嫌だ……嫌だ……絶対に嫌だ! お願いだから、私の聖さまを連れていかないでくれ……」 祈る気持ちで携帯を握りしめる。この電話にでてしまったら、すべてが消えてなくなるかもしれない。 ようやく聖と繋がったのに、思い出にしなくてはいけないのか。まだ二人は始まったばかりなのに。 着信は止まった。 ひと呼吸置いて、諏訪はかけ直すことに決めた。 現実は受け入れがたい。まだこの先のことが何も見えていない。それでも、時間は流れるし、生きていかなきゃいけない。 「もしもし諏訪です。お電話いただきましたか?」 電話の向こうの声は予想以上に弾んでいて、その声は信じられない事実を諏訪に次げた。 「聖様の意識が……戻った?」 ◇◇◇ それから車を飛ばし、聖が入院している病院へ向かった。 病院には明け方近い時間に到着したが、聖は起きているらしく、諏訪は病室で面会を許された。 「聖様」 ベッドに横たわっている聖は、ゆっくりと目を開け、諏訪を見つけた聖は嬉しそうに微笑んで、ゆっくりと手を伸ばす。 諏訪はその手に触れようと聖に駆け寄り、そしてすぐに聖の異変に気づいた。 目の前の聖の髪は今までと違って漆黒の色になっており、その瞳は茶色がかった黒い瞳をしていた。 「聖様……もしかして」 「諏訪、ありがとう。人間のおまえと繋がること。それが人として生きていくたったひとつの方法だったんだ」 「それじゃあ……」 聖は頷く。 「そうだよ。おまえのおかげで僕は生まれ変わることができたんだ」 「それではもう、あの力は……」 「もう僕は天使じゃないから力は使えない。これからは城ヶ崎聖という人間として生きていく」 「では、もう……もう」 諏訪の目から、ぽろぽろと涙が流れた。 「諏訪、大人が泣いたらだめじゃないか」 「聖様が……悪いのです」 聖は困ったような顔をして、諏訪の頭を優しくなでる。 「おまえは僕がいないとダメなんだね」 「そうです……ずっとそばに置いてください」 「うん、これからも僕を守ってくれ」 二人はそっと唇を重ねた。あのときと同じ感触だった。 「諏訪、退院したら、あの森へ連れていって」 「わかりました。でも、その前に、やるべきことがあります」 「やるべきこと?」 「はい、これからは二人で生きていきましょう。そして」 ――これからは私だけの天使でいてください。 その言葉に聖は驚いた様子だったが、すぐに顔をほころばせ、優しい笑顔になった。 これから先も、自分は聖を護っていく。どんなことがあっても護ると決めた。 私だけの天使をこれからも護っていくのだ。 End

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