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【Long time no see】織リ子4@
「なあっ、そこの青年っ」
呼ばれて、岩にくくっていたロープを解いてボートを砂浜に引き上げようとハンドグリップを引っ張っていたニックは、手を止めて背後を振り返った。
真夏のシカゴの強い日差しに、眩しさと汗に目を細めながら。
夏は白夜で気が滅入る。夕方十六時だと言うのに、太陽はまだてっぺんだ。日が完全に沈むにはあと五時間以上はかかかるだろう。
――エバンストン。
イリノイ州の北西に位置するここは、ミシガン湖に面していた。
ニックがいるのは、その中でも住宅街の目の前にある横幅数メートルほどの僅かなビーチだ。
切り立った岩に囲まれて、昇り降りする階段らしきものすらない。
プライベートビーチではないが、狭すぎるためほとんど人の利用は無かった。よって本日も貸し切り状態だ。
今のさっきまでは。
片手で額の上に陰を作って、声の主を砂浜を超えた奥の岩の上に見つけた。
この辺りでは見かけないスーツ姿の男が一人。
ミシガン湖からの強めの風に帽子を飛ばされまいと、片手でつばを抑えて、もう片方の手をスラックスのポケットに突っ込んでいる。
ここからでは顔がよく伺えない。
「ちょっと待ってっ」
ニックはゴムボートを湖から砂浜に引っ張り上げると、慣れた手つきで船底のキャップと両サイドのキャップを外す。プシューと音を立てながら中の空気がみるみる抜けていくと、とりあえず、空気が抜けるまで放置して、真っ白な砂浜を踏みしめながら男の方へ歩み寄った。
近づくにつれ、男のディテールが見えてくる。
切り立った岩の上に立つ男を見上げれば――切り立った岩と言えど高さはニックより拳一個分高い程度だが――このくそ暑いなか、よりによってスリーピースの白いスーツを着込んでいた。
男は、頭に同色の中折れソフトハットを被り、足元はつま先が細めのスタイリッシュなライトブラウンの革靴。しかも、パティーヌと言うあえて色むらをつけた繊細な染色がほどこされたエレガントな革靴だ。
スーツもよく見ればサイドがシャープに仕立てられたリネンのダブルジャケットに、中に着込んだベストには衿があつらえてあり、クラシックなデザインだ。
シャツは生成で、タイは細めで落ち着いた深いネイビーカラー。
なかなか着こなせる代物ではないように思えたが、しかし、彼は見事に着こなしている。
対してニックはと言えば、全くの対象的なカジュアルなビーチボーイズスタイルだ。
白いTシャツに、膝下までまくりあげたデニムに、あとは――今は砂浜に脱ぎ捨ててあるが――ビーチサンダルだ。
先程まで湖に足が浸かっていたから、まさにそのままの姿だ。
岩下から直ぐ頭上の男を見上げて、おっと? と眉を上げた。心の中で、だが。
もっと中年の男を想像していたが、以外にも自分より数個年上程度に見えた。
「やあ。さっき聞き間違えじゃなかったら俺のこと青年……って呼んだ?」
挨拶がてら問いかけるニックの日焼けした笑顔は、後ろの青々としたミシガン湖が霞むほど爽やかだ。
男はそんなニックを見て、気づかれない程度に口元を緩める
ハットの陰から覗く男の顔は浅黒かった。面長で細く垂れた目はどこか近寄り難いものがあるものの、男らしく張った頬骨やそこからのシェービングラインがものすごくセクシーだと、ニックの目が思わず釘付けに、なりかける。
初対面のしかもスーツ固めの胡散臭い男に、こんなことを感じるのはおかしいのだけれど。
「ああ、言ったよ。何か問題でもあったかな?」
間近で声を聞くと想像しているものと違った。
古い映画に出てきそうなマフィアみたいな風貌なのに。足りないのは葉巻だけ?
声も話し方も穏やかで物腰が柔らかい感じだ。
けれど、シャツの襟からちらりと見える首筋の張りや、帽子を抑えるのに折り曲げた二の腕の張りなどを見る限り、スーツの上からでもだいぶ鍛えられているのが分かる。
ニックもそれなりに鍛えているが、それ以上だろう。
スーツで隠れてしまっているのが非常に惜しかった。
「よく言われるんだ」
「青年と?」
そう、young men と。
「こう見えてもう三十二だよ。日系だから、若く見られがちなんだけど」
「これは失礼」
「いや、気にしないで」
と言ったあと、一瞬モジモジ落ち着きない素振りをしてしまった。
イカしてるね、その格好。アル・カポネみたいだ。とはさすがに言えなかったから。言いたかったけれど。
ニック自身、アル・カポネは好きだが、かつてシカゴを牛耳っていた暗黒街の帝王のようだとは、初対面の人に口が裂けても言えない。
「それで、何か用でも?」
ポケットに突っ込んでいたタオルで汚れた指先を拭いながら問えば、男が顎でニックの背後をクイッと指す。
「あれは、お前のゴムボートか」
「え? ああ、そうなんだ。さっきまであれで釣りに行ってたんだよ」
「アキレスの最新型LFー297IB。底板は確か……」
「エアーフロアタイプ。詳しんだね。ボートに乗ったりするの?」
「たまにな。見てみても?」
「もちろん。手を貸そうか?」
と言えば、申し出を聞き終わらないうちに男は身軽に岩からひと降りした。
背が高い。
ニックも平均くらいには高かったが、男は岩下から見上げた時よりも実際横に立つとずっと大きかった。
ニックには目もくれず、ほとんどしぼんだゴムボートの横まで行くと、両手を仕立ての良いスラックスのポケットに突っ込んだ。
「だいぶ身軽だな。釣りをしていたんだろう?」
「そうだよ。釣竿やクラーボックス、それと船外機とか、とにかくボート以外のものはもう家に運んじゃったんだ」
「家に?」
「近くなんだ。ものすごくね。この岩を上がったらもう目の前」
「だとしても、この岩を超えていくとしたら、随分な重労働だろうな」
「まあね」
背後の岩をチラッと見ながら笑顔で応える。
「いいトレーニングだよ。釣りに行って撤収するまで何往復もするから」
「収穫は?」
「サーモンキングを二匹! なかなか上等だろう? 汗をかいたあとのご褒美さ。一杯引っ掛けながら捌いてセビーチェにするんだ」
「悪くない」
だろう? と笑んだ。
「そっちは? もしかして観光か何かで?」
ニックはしぼんだボートの上を腕や膝で押して残りの空気を出しながら尋ねた。
「いや、仕事で立ち寄ったんだが、中数日暇ができてしまってな」
なるほど、と、観光客には見えなかったから納得だ。
「じゃあ、暇を持て余してるってところ?」
空気を押し出しながら男を見やれば、その意図を汲み取って、男は苦笑しながら仕方がないなと口角を上げる。
その表情が渋くて、またかっこ良かった。
「良ければ、手伝おう」
「助かるよ!」
ボートを畳み終わってナイロンのバッグに収納すると、ニックが岩肌をひょいっと駆け登り上から収納バッグを男から引き上げる。
この作業を毎度一人でやるのは、難しくはないが面倒なのだ。
「ありがとう。あ、ねえ、まだ時間あるだろう?」
男が首を傾げるのへ、
「ちょっと待っててよ。普段はあまりやらないんだけど、今日はちょっと……とにかく、ねえ」
と、バッグを肩に背負うと、人差し指を男に向けて、
「待ってて。いい? 直ぐ戻るから」
ニックは男の返事を待たずに踵を返して家に急いだ。
どうしてこんなにも気持ちが浮き立つのか、気にもしないで。
ボートのバッグを家に置いてきたニックはさらに二つのバッグを両肩に一つずつ背負ってビーチに戻ってきた。
一つは折り畳められたパラソル、もう一つはコンパクトに折り畳められて収納された一体型になったテーブルとベンチだ。
それともう一つ。ビニール袋が手に握られている。
「受け取って」
砂浜で言われた通り待っていた男に、ニックは一体型のテーブルを受け渡すと、パラソルとビニール袋を持ち直して岩を飛び降りる。
男から一体型テーブルを受け取ると湖に入り、深さ膝下辺りのところでニックはコンパクトに折りたたまれたテーブルと椅子を組み立ててパラソルを開いてテーブルの真ん中に差し込んだ。
「さあ準備できたよっ、座って。冷たくて気持ちいんだ」
ニックの楽しげな働きぶりを端で見ていた男が、何事かと言いたげに口元をひん曲げて眉をあげながら驚きの表情を作って見せる。
「まあいいから。座ってよ」
ニックはノンアルコールビールのグリーンのラベルが目を引くプレミアム・オーダウルスの瓶をビニール袋から二本取りだしてテーブルに並べながら男を呼んだ。
断られて帰ってしまうかと、正直不安だったが、意外にも男は躊躇い無く革靴を脱ぐと――靴の下は素足だった――スラックスの裾をロールアップして湖に足を踏み入れると椅子に腰をおろした。
それを見て、ニックも向かいに腰をおろす。
冷たい水に足元をさらしながら、砂浜に押し寄せては引いていく静かな波音と、五大湖の一つである雄大なミシガン湖の湖平線を眺めながら一息つくのは得もいえぬ気持ちよさだった。心が和む。大抵の人は。ニックはそれに該当しなかったが。
ミシガン湖は広い。対岸はミズーリ州だが、到底目視することはできない。まるで群青の湖平線に紺碧の空が溶け込むようだ。
ニックがエバンストンに引っ越してきてようやく一月が経とうとしていた。知人はいない。隣人とは挨拶を交わすくらいの関係にはなったが、会話を楽しんだり、共に食事をしたりと言うのは縁遠くなりつつあった。
だからなのか、突然声をかけられて少し嬉しかったのもある。
話し相手に飢えていたのかもしれない。
リタイアした伯母夫婦がウィスコンシンに新居を構えて引っ越すと言うので、古くなったエバンストンの家を安価で譲り受けた。
実家はアーリントンハイツで車で一時間もあれば行ける距離だが、親との関係があまり良くないため――軍に入隊することを両親は酷く反対したからそれ以来連絡を取らない――ニックは伯母夫婦からの申し出を受けたのだ。
だが、ここもそう悪くないと今は思えている。
それもこれも、この小さなビーチのおかげだ。
ニックは瓶ビールの蓋を手で軽く捻ってシュコッと開ける。
「じゃあ、乾杯」
男も筋張った大きな手で蓋を開けると、
「なににだ」
と問おた。
「アル・カポネに」
言ってやった。
悪戯な笑みを覗かせて見せれば、男はくだらないと、それでも楽しげに笑ってくれた。
「光栄だな。乾杯」
ビールを掲げて一口飲むと、男が口に含んだビールを吹き出しかける。寸前で飲み込んだ。
「おい、これは……」
「正解。バドワイザーだ。外見は合法だろ?」
悪びれるでもなくビールを美味そうに頬張るニックを見て、中身を入れ替えてくるとは呆れたものだと言いながらも、顔はまんざらでも無さそうだ。
アメリカの法律で、屋外での飲酒は禁止になっている。
でも、こんなクソ暑い日にノンアルなどどうして飲んでいられる?
「可愛い顔しておいて、とんだクソ野郎だな。バレたらどうする」
「バレないさ。それに、家で飲むのもいいけど、実は今エアコンが壊れてて。修理は頼んでいるけど一週間後なんだ。ファンだけじゃ日中はなかなか酷でね」
それは、確かに酷だな。と男も同意してくれた。白夜とあっては尚更だと。
「その日焼けは吊りでか?」
「いや、海だよ」
「海? この辺に海はないだろう」
「海軍にね。一年の大半が海の上だから日焼けなんて日常茶判事だ」
「基地は」
「カルフォルニアに」
「従軍は?」
「アフガニスタンに二回。イラクとシリアにも。でも、どれも物資の補給にだけ。だから戦闘経験はゼロなんだ。十五年もいるけれど」
「物資の補給だって立派な仕事だ」
「だね」
「今は休暇を」
そう訊かれて、ニックはビールの瓶をクルクル回しながらしばらく黙り込んだ。
爽やかな笑顔があからさまに曇る。
男は急かすでもなく、ゆっくりビールを飲みながらニックのタイミングを待った。
「実は」
と、曇った顔を上げる。
「退役したんだ。先月。ちょうど休暇に入るところだったし」
「なに? またどうしてだ。あと五年もいれば恩給を受けられるだろう」
「そうなんだけど。その、あの事件が……」
「事件」
男がビールを口に運ぶ手を止めた。
ニックは首を振って、ビールを軽く傾けながら肩を大きく上下させる。
「いや、何でもない。とにかく、それでこっちに引っ越して、まもなくエアコンが壊れた。でも、まあ、サーモンフィッシングは楽しいし、とりあえずは満足してるよ。あとは……そう、仕事探しだけかな」
「両親のところへ戻ろうとは思わなかったのか」
「ああ。入隊の時に大喧嘩してそれ以来でね。あ、でも近くだよ。アーリントンなんだ。それより」
一口ビールを飲むと、今度はニックが男に質問する。
「自己紹介がまだだったよね。俺はニック。そっちは?」
問われて、ハットのつばの先からセクシーなブルーアイがニックを見つめてくる。
「ジョン・ハンコック」
ブハッとニックは思わず吹き出した。
「その顔で冗談言うのはやめてくれ。ジョン・ハンコックだって?」
ニックは背後を振り返って南を指さした。
ミシガン湖の湖岸線が真っ直ぐに伸びで、少し湖に突起した岸がある。ネイビーピア(海軍埠頭)だ。
埠頭の手前に、小さく霞む程度にシカゴのダウンタウンがうっすらと見える。
その中でも一際高いビルが二つ。
一番高いのがウィリス・タワー。そして、二番目に高いのがジョン・ハンコックタワーだ。
加えて言うなら、このタワーの展望台から眺めるミシガン湖の眺望は最高だ。
「あのビルがジョン・ハンコック」
「そうなのか?」
揶揄うように鼻で笑いながらビールを頬張る男に、呆れながらも、ニックは完全に絆されていた。
「じゃあ、本当にジョン・ハンコック?」
「ジョンって呼んでくれ」
絶対に嘘だと思いながら、名前なんてどうでもいいと思うほど、どうしてかジョンとの時間が楽しかった。
その後も会話は弾んで、どうして海軍に入ったのか訊かれて、ニックは子供のころからの憧れだと答えた。アーミーや戦艦ものの映画が好きだと話したら、意外にも盛り上がった。
子供のころは、兄弟のように仲の良かった、大好きだった三つ年上の隣に住む幼馴染みと本当によく映画を観た。
海兵隊やネイビーシールドに憧れて、二人でよく庭でサバイバルごっこをしたものだ。
ツリーハウスを戦艦のブリッジに見立てて遊んだり、お揃いの迷彩柄の自転車用ヘルメットを被って、泥で顔を汚し、特大の水鉄砲片手に庭の植え込みの間を訓練だと、匍匐前進をして遊んだ。
二人で秘密基地だと言って、お互いの庭を仕切る木版の壁に小さな抜け穴を作った時など、さすがに両親たちにこっぴどく叱られた。
懐かしい。あの穴は、今も残っているだろうか。
昔のことを思い出しながら、ニックはジョンとの映画話に花を咲かせていた。
話しているうちに、ジョンもかなりの映画通だということが分かってきた。
しかも、そのジャンルは多岐に渡る。ニックと同じかそれ以上だ。
「アンタッチャブルか。あれは名作だな」
ジョンが唸る。
「ああ。オールスターだよ」
裁判に被告として出廷しても、動じることなく葉巻をくゆらせる。行動の節々まで余裕を見せるアル・カポネのカリスマ性に惹かれた。
アル・カポネの残虐性を示す場面もあったが、やはりニックはあのスカーフェイスを憎めない。
だって、かつてファッション雑誌を飾ったギャングのボスなど、カポネを除いて他にいただろうか。
映画の話は尽きなかった。ビール一本では到底足りない。
「ホームアローンだって?!」
ニックは身を乗り出してちょうど飲み干したビールをテーブルに勢いよく叩き置く。
「俺だって昔はガキだったんだ。ホームアローンもゴーストバスターズも観るさ」
「グーニーズも?!」
「もちろん」
絶対に外せない映画だよ、とビールを掲げる。
なんてことだ。
「実はレンタルしたんだ、今朝」
幼馴染みの弔いと思って、あの頃、彼と一緒に観た映画を幾つかレンタルしてきてあった。
どれも笑って楽しめる映画たちを。
今朝は気持ちが落ち着かず、実はずっと心ここにあらずだった。
エアコンの壊れた部屋で塞ぎ込んでいると、その内に腐って自暴自棄になりそうで、ニックは気晴らしにボートを出したのだ。
いつか大人になったら、二人でゾディアック(軍用ボート)を購入して、海に釣りに行こうと約束した一週間後にあの世に行ってしまった幼馴染みを思いながら。
今夜、一人で観ようと思っていた。明日の友の命日を想って。
何も恐れず無邪気だった子供の頃の思い出を、ボール一杯のポップコーンと一緒に。
話し相手が欲しかったと感じたのは、きっとそれが原因だろう。
寂しかったのだ。ニックは。
十八年も経って、例の事件が完全なる終焉を迎えて直ぐに退役を申し出てから、ずっと一人。
笑顔は作れても、心が躍ることは無かった。
ニックはこの十八年ずっと悔やんで自分を責め続けている。
愚かだった思春期の自分を思いっきり殴ってやりたい。
「どうかしたか」
「あ、ごめん。いやちょっと考え事をしてて」
ニックはどこか悲しげに、けれどなんとか笑顔を作るとジョンに提案を申し出た。
「良かったら、DVDでも見ながら、うちで続きをしないか」
伯母夫婦から買い受けた家は、玄関先にカウチ付きの、スリーベッドルームの二階建てだ。
広いリビングダイニングにアイリッシュキッチン。壁に食い込んだ王座のように佇む大きくて威厳たっぷりの煉瓦作りの暖炉だ。
一人暮らしには贅沢な広さだった。
ジョンに窓とファンを頼むと、ニックはキッチンへ行く。
時間が惜しかったから、キングサーモンを捌くのはやめにして、代わりにトースターで焼いた冷凍ピザとボールに盛ったポップコーン。それとキンキンに冷えたビールを用意した。
ようやく陽射しが傾いてきて、窓を開けファンを最強で回していれば、あとは冷たいビールでなんとかやり過ごせそうだ。
ジョンはハットと上着を脱いで、ゆったりと深くソファーにもたれかかった。
胸筋ではちきれそうなベストのボタンが目に毒だ。
ボール一杯のポップコーンを抱えながら、リモコン片手にニックも隣に腰を下ろす。
男の一人暮らしには、ソファーは皮張りの大きいものだと決めていた。
奮発しただけある、座り心地も最高だが、男二人が、ルーズに足を投げ出して座っても幅に余裕があった。
「さあ、何から観ようか」
「あ……あぁ……んっ……待って……まだ、あっ……」
どうしてこうなった? 正直よく覚えていない。
ホームアローンの後半あたりからビールの在庫が切れるとウィスキーに切り替えた。ロックで飲んでいたのが、ホームアローンを見終えてころには、氷をとりに動くのが面倒になりストレートになっていくと、強めのアルコールが進むにつれ、互いの距離が近づいていった。
顔はテレビに向けたまま、どちらからともなく体が傾き腕が触れ、手が重なり指が絡むとそこから唇を奪われるまではやかった。
ゴーストバスターズを見始めてから、ピーターがインチキな超能力実験を行って、被験者の女の子を口説いてしまうチャラさ満載のあたりから記憶が曖昧だ。
かなり冒頭のシーンだったと思う。
甘い愛撫などなく、二階へ駆けあがって、お互いのペニスを扱き合いながらベッドにもつれ込むようにして始まったセックスは、オリーブオイルでニックのアナルを半ば強引にほぐすとジョンはギンギンに反り勃ったペニスを待てないと言わんばかりに突き立てた。
拘束するように、ニックの両膝を押し開きながらペニスを奥へ突き進めるジョンの腰つきは、それだけでニックの下腹部を疼かせる。久しぶりのアナルセックスで痛みを多少伴いはしたが。
スーツの下のジョンの体は完璧に鍛えられていた。
厚く張った胸筋に無駄な肉を削ぎ落として筋肉で固められた首から肩への綺麗な三角筋のライン。
割れた腹筋と腸腰筋が、腰を振るごとに波打つのを見ると、無意識にせがむように腰が浮いた。
その上、上体を真っ直ぐ起こして、ニックの中へ腰を前後に動かしながら威圧的に見下ろしてくるブルーアイがまたセクシーだった。
もっと意地悪く虐めてくれと懇願してしまいそうになるほどに。
拳にした手を額に押し当てて堪えようにも、せり上がってくるものを止められない。
「あっ……ああ……いい、さ……いこう……ああっ……」
顎があがるにつれ声に抑えが効かなくなり、甲高い甘い声が荒い吐息と混じり始めると、乱暴な口付けでジョンがそれを封じた。
喘ぎまで貪るような、脳天まで痺れるような口付けと容赦ない突き上げにニックは頭がぶっ飛びそうだった。
汗まみれの湿った屈強な腕にしがみつきながら封じられた口の代わりに鼻を鳴らす。
久しぶり過ぎるセックスはたまらなかった。焼かれて溶けそうだ。
理性など最初から無かったかのように激しく求め合う濃厚で危険な臭いが閉め切られた蒸し暑い部屋に充満している。
一階の窓は開けたものの、二階の寝室までは開けていなかったから。
ジョンが片手でニックの頭を押さえ込みながら、もう片方の手でニックのペニスを扱くと口付けの隙間から堪えようのない喘ぎが漏れる。
「うぅっ……あっ、だ……や、ジョンっ……ああっ、あっあっ……あっ」
ダブルベッドが軋むほど、床が抜けないか心配になるほどジョンの抽挿がいっそう激しさを増すと、柔らかいジョンの髪に指を絡めながらニックもたまらなく体をよじる。
もうイキそうだと、爪先を反らして全身の筋肉を張り詰めながら体が弓なりになった時、上体を浮かせてジョンが低く唸る。
ニックがジョンの腹に白濁を放った瞬間、ジョンも中で達したのが分かった。
達したペニスをマーキングするように何度もニックの中に叩き込む。
アナルの中でスキンをした上からでも射精を感じるほどにジョンのペニスが脈打っていた。
お互いに息を切らせながらベッドに仰向けになるも、余韻を楽しむ余裕などなく、ファンもなく窓が締め切られた部屋の蒸し暑さに痺れを切らせて、二人は早々にシャワールームに転がり込んだ。
シャワールームから先に上がったニックは、ボクサーパンツとTシャツだけ着ると頭にタオルを被ってウォーターボトルを取りにキッチンへ降りた。
開けっ放しの窓から吹き込んでくる湖の風が気持ちいい。外は真っ暗だ。
暖炉の上の時計を見やれば、二十二時を回るところだった。
ニックは、テレビがゴーストバスターズがエンドロールを迎え青くなった画面のまま止まっているのを、なんだか不思議な気持ちで眺めていた。
床に落ちたリモコンを拾ってニュースに切り替えると、頭をタオルで拭きながら冷蔵を開ける。
初めて会った男と寝てしまうなんて、どうかしていた。
冷水シャワーを浴びて、頭が冷えるとなぜだか急に罪悪感に苛まれた。
亡き友を弔うための鑑賞会が、己の欲求を満たすための淫らな物になってしまったことが、大切な幼馴染みの命日を汚してしまったような気がして、ニックはジョンとのセックスを後悔していた。
冷蔵庫からウォーターボトルを二本取ると、冷蔵庫をしめてキッチンカウンターに置く。首に掛けていたタオルを放った。
両手をカウンターについて、無気力にニックはこれからどうしようかと項垂れた。
暫くすると、上着とハット以外をきちんと着込んだジョンが、額にかかった洗いざらしの髪の毛を掻き上げながらリビングに降りてくる。
ジョンが、リビングのコーナーのスタンドランプをカチャっと点けた。
カウンターで両腕をついて立ち尽くしているニックに、ジョンがカウンター越しに立ち止まる。
「どうした。浮かない顔だな」
「ああ」
カウンターを見下ろしながら返事だけを返した。
「浮かない顔の原因は、これか」
ジョンがそう言って手に持っていた一枚の写真をカウンターの上に滑らせて寄こした。
ニックの顔が途端驚きに変わる。と、同時に怒鳴っていた。
「勝手に持ち出すなっ!」
「威勢がいいな」
ジョンは動じず、ニックの様子を冷静に見守っていた。
ジョンがカウンターに滑らせて寄こした写真には、子供の頃のニックと隣の家の三つ年上だった幼馴染みのマーロンが映っていた。
まんまるによく太った二人の少年。
背が低い方がニックで、背が高い方がマーロンだ。
庭で毎日のようにサバイバルごっこをして遊んでいた時の思い出の一枚。
お揃いで買ったメイサイ柄の自転車用ヘルメットを被って、左手には特大の水鉄砲、右手で敬礼している写真だった。
マーロンの家の庭で並んで撮った写真。ニックが五歳でマーロンが八歳の時だった。
泥で汚した顔は、どちらもくしゃくしゃになるほどの笑顔で当時のあのワクワクが今でも鮮明に蘇る。
見るのが辛い。楽しかった日々を一時の偏った自尊心から全て壊してしまった自分が憎くて、この笑顔を見るのが辛いのだ。
大切な思い出の一枚だったが、飾る勇気もなく、ベッドのサイドボードに仕舞い込んでいたものだった。
「泣いているのか」
「うるさいっ」
「背が低い方が前か? 随分太ってたんだな。別人みたいだ」
「……人の思い出を勝手に持ち出さないでくれ」
「隣の奴は?」
「……幼馴染みの……マーロンだ」
「ほう、仲が良さそうだ」
「…………」
「思春期に入って、体に変化が現れたってところか」
ニックは苦々しく下唇を噛みしめた。カウンターの上の写真を見やる。
「ああ……」
小さい頃のニックは肥満児と言われるほど太っていた。幼馴染みのマーロンはそれ以上に太っていて大きかったが、親も友達もニックとマーロンの体形をとやかく言う人はいなかったから気にもしなかった。
毎日がただただ楽しかった。それだけでニックは満足だった。幼いころは。汚れていない、無垢だったから。
「ミドルスクールに入ったころから、俺は背が伸びて体が細くなっていった」
マーロンは身長こそニックよりもはるかに高かったが、成長しても体が痩せることは無かった。
むしろ、身長が伸びた分、小さいころよりもさらに大きく見えた。
冬でもよく汗をかいていたし、ちょっとした運動で直ぐに息を切らせていた。
全くもってスタイリッシュではなかったけれど、マーロンの性格はとても明るかった。強い意志と自分自身に自信をもっていたし、勉強熱心だったからとても博識で、彼の話はいつも人を楽しませた。
太い指は見た目以上に凄く器用で、辛抱強くどんなことでも解決してみせた。
三つ年下のニックには、そんなマーロンがヒーローのように思えたし、心と体が成長するにつれてマーロンに惹かれていくようにもなった。
それが、ニックの初恋だった。
なんでもできたマーロン。いつだって冷静で、穏やかで優しかったマーロン。大好きだったマーロン。
けれど、ある時、ニックはマーロンを酷く傷つけたのだ。
「ミドルスクールとなれば、それまでと違って、つるむ友達も様変わりしてっただろう」
ジョンの言う通り、ミドルスクールに上がってから、ニックはマーロン以外の今までとはあまり縁の無かった系統の友達ともよく遊ぶようになっていた。
それでも、月に何度かはマーロンと映画鑑賞やゲームをやったりした。
マーロンもハイスクールでの勉強やクラブ活動が忙しいのもあったから。
ある時、学校の帰り道、友達とシェイクシャックでテーブルに座ってバーガーを食べていたニックは、偶然そこにマーロンと居合わせた。
ちょうど店にマーロンが入って来た時で、向うはニックがいることに気が付いていなかった。
ニックが呼びかけようとした時、テーブルでクスクスと笑いが起こったのだ。
呼びかけるのをやめて見れば、友人たちがマーロンを見て笑っていた。
その時に、ニックは人の偏見やコンプレックス、世間体と言うものを一気に感じ取ってしまったのだ。
「おおかた、痩せたらその幼馴染みとつるむのが嫌になったんだろう」
「そんなことっ」
「無かったのか? ん? 急に恥ずかしくなったんじゃないのか」
「…………」
言い返す言葉が全くなかった。カウンターに置かれた拳がうっ血で筋張る。
「……そうだ」
そう、思春期真っ只中のニックは恥ずかしいと思ってしまった。自分も同じように友人たちの笑い物になるのが怖くて、マーロンを拒絶してしまったのだ。
十四歳だったニックは、世間の長い物に勝つ術をまだ知らなかった。
「俺は、友人たちの前でマーロンに声を掛けられて、こ、……こんな奴知らないと、笑いながら……マーロンを足蹴にしたんだ」
友人たちがあることないことを、レジカウンターで注文するマーロンを見ながら陰口をたたき出した。
太っていることをキモいだのオタクだの、根暗だショタコンだ、デブ専受けのゲイだのと。
耳を塞ぎたくなるほど、それは酷い言われようだった。
当然、ニックはマーロンがそんな奴ではないことを知っていたが、外見が相手に与えるイメージと言うものをこの時初めて意識したのだ。
そして、注文を終え、テイクアウト用の紙袋を受け取ったマーロンが、テーブル席のニックに気が付いた。不運にも。
ニックは狼狽えて戸惑いながらも、笑顔を向けてくるマーロンに笑顔を返せなかった。
『おい、あいつこっちみて笑ってるぞ! 気持ちわりいっ』
騒ぎ出す友人たちに、ニックは何も言えなくなっていく。
『あいつニックを見てねえ? やっぱゲイなんじゃね?』
『お前の知り合いとかじゃねえよな!』
完全にマーロンに聞こえる声で口々に罵倒する友人たちに、ニックはとうとう幼馴染みだと言えなかった。まして、自分がゲイだなんて、とも。
『知らないよっ。あんなキモイ奴!』
ニックは己を守るためにマーロンを犠牲にしたのだ。
あの時の、茫然と無表情になって目を見開いたまま、何も言わず踵を返して店を出て行ったマーロンの姿が今でも脳裏から離れない。
忘れられるわけがない。あんなにショックを受けて表情が感情に付いて行けず、無感情な顔つきのまま去っていったマーロンを。
そのまま、二度と帰ることが無かったマーロンを。
「で、そいつとはどうなったんだ」
ニックは写真をそっと手に取ると、Tシャツの裾で顔を拭ぐった。
「……死んだよ」
「自殺したのか」
「……そうだ。いや、違うっ」
「ほう」
ジョンはゆっくりとカウンターの向かいのスツールに腰を下ろした。
立ったニックとカウンターを挟んで向かい合う形になる。
カウンターの上で手を組んでニックを見上げた。
「なぜ違うと思う」
「違う」
ニックは苦しそうな目でジョンを見た。
「何が違う。警察は自殺だって言ったんだろう」
「そうだけど、マーロンが、自殺なんて」
「するわけないか。利己的な考えだな。おおかた、あの程度のことで心が折れるような意志の弱い男じゃない、とでも言うんだろう」
「そうだっ」
利己的だろうがなんだろうが、ニックは心からそう思っていたし、そう信じていた。自分の罪を軽くしようとそう信じたかっただけなのかもしれないと、思うこともあったが。
「そいつはどうやって死んだ」
「当時の警察の話では、火だるまになって死んだって」
サウスエリアの廃墟になった倉庫で、ガソリンを被って火をつけたと。
だから、葬儀の時も棺桶の中は公開されなかった。
ひっそりと数人の身内だけで執り行われた寂しい葬儀。
その後、忽然とマーロンの両親も夜逃げのように姿を消した。
息子が自殺して住みにくくなったのだとみんなは思った。
「なら、自殺なんだろう」
「違う」
「では」
「殺されたんだ、きっと。マーロンは何かの事件に巻き込まれて」
「事件?」
「そう、あの日、マーロンが自殺したとされるあの日、サウスエリアで大きなギャング同士の抗争があったんだ。麻薬と人身売買が原因と見られていたけれど、実は……」
事件の真相は根深く、後に、汚職警官と悪徳政治家たちも絡んでいることが判明した事件。
根絶するまでに十八年もかかった。
その時、ニックはつけっぱなしになっていたテレビに顔を向けた。
FOXが今まさにその事件のニュースを伝えているところだった。今年になって、十八年もの年月をかけて完全なる解決をみたビッグニュースのトップとして。
ジョンもつられてテレビに半身を向ける。
「この事件に巻き込まれたと?」
「……そう」
「根拠は」
「……マーロンは、サウスエリアの貧困と区画整備に関するなんらかの授業を学校でとってるって話をしていたことがあったから。きっと、あの日、そのことでサウスエリアに行ったんだと思う」
「なるほどな。それで、自殺じゃなく事件に巻き込まれたと」
この事件がニックの贖罪の始まりで節目だった。
「海軍に入隊したのは、マーロンの弔いと贖罪からだった」
サバイバルごっこを共に楽しんだ思い出を背負って、十七歳で入隊した。
二人の憧れだったネイビーシールズには、射撃の才能に欠けて不合格だったが。
従軍することで自分の犯した罪が償えると自分自身に言い聞かせることでここまで生きてきた。
それから十八年たって、あのサウスエリアでの事件が完全なる解決をみた今年の五月に、ようやく罪を償い切ったような気がして、ニックは軍を退役することを決めたのだ。
そして先月の休暇に入るタイミングで、正式に退役した。
利己主義、自己満足、そう言われても仕方がないと、きちんと分かっている。
けれど、そう、ニックは心身ともに疲れ切っていた。
解放されたかった。自分が犯した罪から。傷つけてしまった事実から。もう、許してもらいたかったのだ。
「明日、マーロンの命日なんだ。会いに行こうと思ってる。十八年ぶりに」
それも、シェイクシャックで別れたぶりにだ。
ニックは、当時マーロンの葬儀に参列れできるような精神状態じゃなかったから。そう、彼の墓に足を運ぶのはこれが初めてになる。
花束を持っていこうか、一度も飲み交わすことの無かった酒を持っていこうか、未だに決めかねている。
謝罪をするのに、何が必要なのか。
「今日のDVD観賞会は、そんなマーロンを弔おうと思って考えに考えて厳選してレンタルしてきたものなのに、俺は、……寂しさと欲からあんたとセックスなんてもんをしてしまった」
死者への冒涜のなにものでもない。
「シャワーを浴びたら途端に頭が冷えたよ。だから、八つ当たりなんてして、その、本当悪かった」
「…………」
「今日は、もう帰ってくれないか。もし、ホテルをとってないって言うなら、上のベッドを使ってくれていい。俺はここで寝るから」
と、ソファーを指さす。
「いや、帰る」
ジョンは、上着を羽織るとハットを持ちながら玄関へ向かった。
ニックはカウンターに立ち尽くしたまま、背中でジョンを見送る。
扉が開いて、しかし、いつになっても閉まる音がしないからニックは不思議に思って振り返った。
ジョンがポーチでこちらを向いて立っていた。
「どうした……」
「ニック」
ジョンはハットをらしくなく両手で弄びながら、おもむろに尋ねてきた「お前は、そのマーロンて男が好きだったのか」と。「それとも、ただの幼馴染みなだけか」と。
低く、落ち着いた声だった。
問われて、ジョンを見つめたまま、しばらく口を結んだニックは、思い切るように童顔の顔をくしゃくしゃにひしゃげて、喉を詰まらせた。
「ああ」
声が掠れて、涙が頬を伝う。
「大好きだった」
「…………」
「愛してたんだ、俺は。マーロンを本当に。なのに……」
涙が溢れて嗚咽が混じる。
今まで誰にも語ることの無かったあのころからの想いを、見ず知らずの会ったばかりのジョンにぶちまける。
見てくれなんて関係なかった。マーロンはそのままで充分かっこよかったから。
「自分がゲイだと知った時も、俺は全然悩んだりしなかった。マーロンだったから。好きになった相手が、マーロンだったから」
なのに、と、もう声は言葉にならなかった。
奥歯を食いしばって肩を揺らす。感情を吐露すると、いっそうマーロンが恋しかった。
「従軍先で、戦闘に巻き込まれて死んでしまえてたら、今頃マーロンにあの世で謝罪ができたのに」
そう思わずにいられない日はない。
「そうか」
ジョンはそんなこと言うものではない、などと説教じみたことは言わなかった。
「今日は、ゆっくり休め」
そう言って、踵を返した。
ドアが閉まりジョンの背中が見えなくなる。
今日は帰ってくれ、なんて言い方をしたが、言っても今日会ったばかりの素性も知れない男だ。
玄関を出て行ったら最後、もう二度と会うことも無いだろう。
なぜだかとても寂しかった。
翌日は、夜が明ける前から雨が降り出した。
墓地で誰にも出くわしたくなかったから、ニックは夜明けと共に家を出た。
時折、ワイパーをフルに稼働してもおっつかないほどの激しいスコールに見舞われながらも、アーリントンハイツ墓地に着いた時には止んでいた。
車を降りると、雨上がりの蒸し暑さと、雨で湿った草土のこもった臭いが一気に押し寄せてくる。車中の時計は六時二十三分。
グレースラックスにネイビーのジャケット。インナーに白Tとカジュアル目だが、なんとなく正装を意識した。どんな格好をして墓参りなんてしていいのかよく分からなかったから。
けれど、湿度の高さに早々にジャケットを脱ぐと車内に放り投げる。
ドアを閉めてパーキングを歩き出した。
十五年ぶりに訪れた懐かしい地元は、ほとんど何も変わっていない。ニックは墓地の入口にくると、仄暗い重たげな雲の合間に少しの青空を見つけて、しばらく眺めていた。雲の動きが速い。
広大な墓地の真ん中を真っ直ぐに伸びる道が一本。
その道を挟んで両サイドには、綺麗に刈られた芝生と、そこに点在する大小様々な墓石たち。
雨に濡れて、芝生がいっそう青々と見えた。
マーロンのお墓がどこにあるのかも知らないから、ニックは一つ一つ墓石を見て回るしか無い。
マーロン・エメリー 一九八四~二〇〇一と刻まれた墓石を。
墓地を半分辺りまで来たところで、目的のものをとうとう見つけると、ニックは冷静でいようと思っていたのに、右手の平で顔を覆った。
たまらない。
こんなやり切れない気持ちは生涯で初めてだった。
食いしばった歯から嗚咽が漏れ、手の平で抑えきれないほどの涙が滝のように零れた。
かける言葉などない、沈黙を貫く墓石に向かって、自分は一体何を語りかけようとしていたのか。
滑稽だ。
謝罪なんてものはなんの意味ももたない。今となっては、墓石に謝ったところで無意味だ。ただ己が楽になりたいがためのものでしかない。
取り返しのつかないことをしてしまった、自分の言葉がマーロンを殺してしまった。
罪と後悔が、ニックの背中に重くのしかかって、ぬかるんだ地面に両膝をつかせる。
「……マ……ロン」
右手の平で顔をおったまま、縋るように左腕でマーロンの墓石に触れた。
ああ、マーロンに、あの大きな体の、温かかったマーロンにもう一度触れたかった。
泣き止まないニックを、マーロンはどんな顔して見ているのだろう。
「マーロン……ごめん」
くっと歯を食いしばった。
謝る以外に言葉は見つからなかった。
ごめん、ごめん、マーロン、本当にごめん。
何度も何度も、墓石に額を押し付けてニックは泣いた。
静寂が満ち、鳥がどこかの木で羽ばたいた。
着いた膝が、雨上がりの芝生から水分を引き上げて湿っていく。
このまま、自分自身が朽ち果ててしまったらいいのに。
今からでも遅くない。
車のグローブボックスにしまい込んだ銃を持ってきて、いっそのことここで、こめかみを撃ち抜いてしまおうか。
そんな物騒なことが頭を過ぎったとき、不意にスラックスのポケットから携帯が鳴った。
ハッと我に返ったニックは、肩袖で顔を乱暴にぬぐうと、ポケットから携帯を取り出す。
画面のナンバーを確認しながら着いていた膝をあげ立ち上がった。
知らない番号からだった。
鼻を数回すすると、一度咳払いをして通話ボタンを押す。
「はい」
『ジョンだ』
「……ジョン……どうしてこの番号を」
『細かいことは気にするな。まあ、いいから聞け』
いつの時も変わらないジョンの低くく、ゆったりとした声のトーンに、気弱になっていた気持ちが落ち着きを取り戻していく。同時に耳朶がわずかに火照る。
まさか、またこの声を耳にするとは思わず、ニックはマーロンの墓石を前に、モヤモヤとした複雑な気持ちにかられた。
「ごめん……今はちょっと、取り込み中なんだ」
『いいだろう、ちょっとぐらい』
「いや、悪いけど……」
『聞いてくれ。ある男の話だ』
「…………」
『十八年前の今日、男はサウスエリアで、ある事件を目撃した』
「十八年……前」
唐突に話し始めたジョンに、ニックは電話を切らずに話を聞くことにした。少しだけならと。
『学校から一人でサウスエリアに行くなと言われていたのに、その日の男は少し自暴自棄になっていて、一人でサウスエリアに行ったのが運の尽きだった。廃倉庫エリアに迷い込んでしまった男は、気がついた時にはもう手遅れで、逃げる間もなく咄嗟に身を隠した。ギャングたちが来たからだ』
「…………」
『ギャングたちは何かを取り引きしようとしていた』
「……人身売買の女たちと、麻薬」
『それと金もだ』
ニックが、マーロンが巻き込まれたと思い込んでる事件の話だと気づく。
『取り引きは順調に進んださ。でもな、そこへもう一つのギャングがどこからともなく沸いて出たんだ』
銃を乱射して一面血の海さ。
と、語る。まるでそのもの自体を実際に目撃していたように。
ニックの頭が、僅かに混乱してくるも、その混乱がなんなのか説明することは出来なかった。
『それを隠れて見ていた男は、じっと身を潜めて警察が来るのをひたすら待った。恐怖にチビりそうになりながらな』
まさか、その男と言うのは、言いかける前にジョンに阻まれる。
『証人保護プログラムって知っているか』
「……知らない奴なんていないだろう」
なぜか、フッと沸いた「待て」という気持ちがニックを焦らせる。
「ジョン……」
『男は警察に事情聴取を取られると、そこへやってきたFBIの提案に二つ返事でのった。証人保護プログラムさ。悩む必要なんて無かった。男は即決したよ』
まさか、そんなことって、
「待ってくれ、それって……そんな、ありえないっ」
『証人保護プログラムを受ける代わりに男は条件を出した。自分を死んだことにしてくれと。ちょうど心を痛める出来事もあったことだし、自殺にしてくれとな』
「…………」
『勘違いするなよ。他意はない。単純にその日の出来事からそれが一番怪しまれないと思ったのさ。男の本当の目的は……ニック、お前を巻き込みたく無かったからだ』
「巻き込む……? ……何からだっ」
ニックは訳も分からず怒鳴っていた。
驚愕の事実を突きつけられているこの状況で、ニックの頭は完全に取り乱していた。
『男が忽然と姿を消していたら、お前はどうしていた』
問われて、はたと冷静に考えると、息を呑んだ。
「当然、探しただろうな」
『だろう?』
「ああ、とことん地の果てまでも探したよっ」
『そこだ、それを男は懸念したんだよ』
「なんだって」
ニックは目を見開いた。
『おいおい、すっとぼけるなよ? 男がお前の気持ちに気がついて無かったとでも思うのか、本気で?』
「…………」
『お前を傷つけようなんて男は一ミリも思っちゃいなかったよ。当然だ。愛してたからな』
「……マーロンが……」
携帯を持つ手が震えた。
『FBIは、その時の抗争で死んだギャングの一人を、男の身代わりにたてて葬儀をすることにした。ガソリンかけてこんがり焼いた後でな』
「……まさか、そんな」
ニックは、恐る恐るマーロンの墓石に視線を下げる。
『男の両親も同様に証人保護プログラムをうけることになった』
だから、マーロンの両親は葬儀のあと挨拶もなしに忽然と消えたのか。
「どうしてそんなに詳しいんだ、あんたは」
『……なあ、知っているか。証人保護プログラムってのはな、ずっと国が生活を世話してくれるって訳じゃないんだ。仕事は自分で見つけて稼いで行くしかない』
名前も社会保障番号も書き換えられて、今までの自分のことは一切話してはいけない。
たいがいが、それまで働いていた仕事を辞めざるをえない状況になる。保護されてしばらくは金銭面の世話をしてもらえても、やはりそのうちに自分で仕事を見つけて働かなければならない。
初めての土地で知り合いもいない。
素性を隠して、可能性は低いにせよ、命を狙われる危険性に毎日怯えながら暮らすのだ。
『新しい名前と社会保障番号を与えられてマイアミで暮らすことになった俺は、そんなビクビクして暮らすのが嫌になったのさ』
「ああ……なんてことだ……」
ジョンは、今確かに「俺は」と言ったのだ。
ニックは悲痛に目をつむって天を仰いだ。
『事件に関われなくても例の事件の情報は入る。身を守る術も覚えられるしで、俺は、卒業したら刑事になろうって決めたんだ。それまで、あの鈍った体をどうにか鍛え上げて、とうとう今となっちゃ見る影もない』
ニックはガクガクと体が震え始めて、頭が揺れ始める。急に血圧が上がったせいだったが、それほどまでにニックは衝撃をうけていた。
もしも、ジョンが話していることが事実ならば。
「嘘だ」
「嘘だと思うか」
通話が切れると、ジョンの声が直ぐ後ろで聞こえた。
振り返れなかった。ニックは携帯を耳から下ろすと、肩で大きく荒い息をして、どうあってもジョンを振り返ることができなかった。
「……ニッキー」
その呼びかけに、ニックははっとしてとうとうジョンを振り返る。
その呼び方でニックを呼ぶのは、両親の他にマーロンしかいなかったからだ。
中折れのソフトハットを被って、ノーネクタイの真っ黒なシャツを腕まくりし、リネンの白い衿付きベストと同様の白のスラックス姿のジョンが立っていた。
これがマーロン。
ニックは信じられなかった。
あの太っていたマーロンとは別人にしか見えなかったから。マーロンが痩せて体を鍛えたらこうも変わるものなのか。
分からない。十八年の長い歳月の間で風化してしまった記憶からではもう想像することができなかった。
ニックには分からなかった。
「お前はこう思ってるのか? もっと早くに知らせていてくれたら、従軍してここまで己を追い込み罪の意識に苦しめられることもなかったのに……と、怒っているのか」
スラックスのポケットに両手を突っ込んだジョンが、呆然と泣き腫らした顔で眺めてくるニックに首を軽く傾げた。
「……いや。怒ってなんてないよ」
信じられないだけなんだ、と。
「こんな嬉しいことが、自分におこっていいのかって、こんな嬉しいことが、俺なんかにおこっていいのかって」
「俺が、昨夜お前とセックスして、お前の気を今一度引くために嘘をついていると?」
「違うのか」
真面目にそう尋ねた。
「刑事だから、色々調べることもできるだろう」
でっち上げたのかと。
「だって、こんなプレゼントみたいな話が、あるはずがない。もし、今の話が事実なら、なんで昨日会った時に言わなかった」
「俺は、ジョンとしてお前に会う必要があった。そのジョンをまずお前に受け入れてもらいたかったんだよ。それと、お前がかつての俺をどう思っていたのか、その口から聞きたかった」
「ニッキーなんて、どこから仕入れた情報だ?」
「仕入れちゃいない」
「俺の親か?! 親に会ったんだなっ!」
頭が混乱してどうしたらいいのか分からなかった。
「会っていない」
「じゃあなんなんだよっ。俺にどうしろって?!」
「ゾディアックのことを覚えているか」
ウロウロしながら怒鳴り散らすニックをジョンがその一言で制止させた。
落ち着かない犬のようにさ迷っていたニックがはたと止まりジョンを見る。
「ゾディアックだって?」
「そうだ。マーロンが形式上死ぬ一週間前にお前とした約束だ。覚えてないのか?」
「いや、いやいや待て。覚えてる。忘れるわけがないだろっ」
人差し指をジョンの肩に突きつけて、ニックの困惑した顔に、もしかして、まさか、本当にマーロンなのかと書かれている。
いつかゾディアック(軍用ボート)を一緒に買って海へ釣りに行こう。
その約束をした一週間後にマーロンは消えた。
「本当に」
「ガキの頃、お前と空けた壁の穴は、言っておくと今も健在だ」
お互いの家の間にたつ壁に、小さい頃抜け穴をあけて両親にこっぴどくしかられたあの穴が、今もあるとジョンが言う。
「ああ……神様……」
ジョンが笑った。
ニックが両手で顔を覆って天を仰ぐと声をあげて泣き出した。押さえても押さえてもとめどなく涙が溢れてくる。
「ああ、ああ、神様……神様……」
声を隠そうともせず、ニックはむせび泣いた。
膝から泣き崩れて、頭が地面に項垂れ着く前にジョンが駆け寄って抱きしめてくれた。
白いリネンのスラックスが汚れてしまう、そんなことが微かにニックの残りの理性に過ぎったけれど、そんなものはジョンの腕の中に霧散した。
「ごめんっ、ごめん……ジョン……俺は……」
「ああ、分かってるよ全部。ニッキー。あの日、お前がそんなつもりじゃなかったってことくらい、ちゃんと分かってたさ」
「……許してくれ……」
「始めから怒っちゃいない」
嗚咽まじにり声を引き攣らせて許しを乞うニックの体をジョンはいっそう強く抱きしめた。
「ようやく会えたんだ。お互いに素直にそれだけ喜ぼうぜ。ようやく会えたんだ。本当に。……ようやくだ」
そう言うジョンの語尾が詰まって揺れる。
吸う息を震わせて、ジョンがニックを抱きしめながら天を仰いだ。
ニックの腕がジョンの背中に回る。ジョンの肩に埋もれたニックの目からはまだ涙が止まらないでいた。
「……やりたいことが沢山あるんだ」
マーロンと。いや、ジョンと。
「沢山沢山あるんだ」
「ゆっくり一つ一つやって行こうぜ」
これから先は、長いんだ、と。
「手始めに、……昨日の残りのDVDを一緒に見終えちまおうか」
そんな、軽い提案に、心の安らぎを感じた。
「エアコン壊れてるよ」
「ポータブルDVDプレーヤーってやつは、持っていないのか」
訊かれてジョンの肩から顔をあげた。
ブルーアイが悪戯に笑う。
「波間にパラソル持ち込んで」
ノンアルビールの中身はもう入れ替えるなよ、と刑事さんの忠告に、ニックが笑う。
いつの間にか、二人の上空には真っ青な空が広がっていた。
了
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@halu_oriko4
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