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【海に浮かぶ恋】志生帆 海
『プロローグ』
「なぁ 紺 ……この夏、この海で……海の藻屑となった人がいたんだよ」
海辺で従兄の 和 兄ちゃんから、突然そんなことを言われて驚いた。
「えっと海の藻屑って……溺れちゃったってこと?こんなに穏やかな海なのに……」
「そうだね。でも海の機嫌はすぐに変わってしまうから、何があるか分からないよ」
「そうなんだ。ねぇ死んじゃったのは若い人だったの?」
なんとなく知りたくて問うと、和兄ちゃんの表情がさっと曇り今にも泣きそうな顔になってしまった。
「……僕と同じ大学生だったんだ」
そっか……もしかして亡くなった人と歳が近かったから同情しているのかな。
なんだか今にも和兄ちゃんまで海に消えてしまいそうで、急に怖くなった。
「俺は海の底に沈むのは嫌だ!きっと暗くて怖いよね。あーなんかゾクゾクしてきた」
「紺……ごめん、今日はもう帰ろう」
「その方がいいよ。兄ちゃん顔色悪いし……」
****
『夏のトキメキ』
俺には毎年夏休みになると、東京から神奈川の端っこの海辺の町にやって来る人がいた。
俺より七歳年上で、この春から大学生三年生になった和兄ちゃんだ。
和兄ちゃんのお母さんが俺の母ちゃんのお姉さんなので、従弟という間柄になる。
和兄ちゃんは一人っ子なので賑やかな俺の家に遊びに来るのが楽しいらしく、一年に一度しか会えないのに到着後いつもすぐに打ち解けてくれた。そしてまだ腕白な俺の相手も良くしてくれ、まるで実の兄弟のように一緒に遊び惚けた。
今日も我が家に着いたばかりの和兄ちゃんを誘って海にやって来たのはいいが、どうも気乗りしないみたいで珍しく海に入らなかった。
いつもよりどことなく元気がないのも心配だ。
だからそのまま帰宅した。
二人で足元を砂だらけにして帰宅すると、母さんが玄関でストップをかけてきた。
「まぁ~あなた達もう海に行ってたの?もうっ足が砂だらけじゃない。まとめてお風呂に入ってきなさい!」
「分かったよ!もう煩いな。和兄ちゃん行こう!」
「……あぁ」
和兄ちゃんとは小さい頃からいつも一緒に風呂に入っていた。
普通の家の浴室だから旅館のように広くはないから、大学生と中学生の男が二人で入ると、流石にもう湯舟がぎゅうぎゅうになってしまった。
「そうか紺ももう中学生か。なんだか急に大きくなったね」
「あっそれな。気づいてくれた?もう四月から5cmも伸びたんだよ」
「へぇじゃあもう160cm超えたのか」
「当たり前だよ。もっともっと大きくなる。和兄ちゃんを軽々と追い越すよ」
「それは困ったな。僕は紺を見上げないといけなくなるのか」
「そうだよ!」
思わずガッツポーズでザブンと立ち上がると、お湯が壁にビシャッと飛び散った。
「あー暴れるなって。ほらっちゃんと肩まで浸かって。なんだか紺が急成長したせいなのか湯舟が狭く感じるね」
ニコっと兄ちゃんが微笑んでくれた。
あれ?湯気の向こうの和兄ちゃんの笑顔が綺麗だなと……その時ふと思ってしまった。
どうしたんだろう。なんだか急に恥ずかしくなってきたぞ。
「ちょ……ちょっと兄ちゃん距離近すぎ!」
思わず声を張り上げてしまった。
去年までこんな風に意識することなかったのに……俺も思春期に入り、体毛も濃くなり身体にいろいろ変化が出てきせいかな。狭い風呂に兄ちゃんとくっついているのが無性に照れ臭くなった。
和兄ちゃんは相変わらず、ほっそりと綺麗な体つきで、もう二十歳だというのに、まだ高校生みたいに爽やかな雰囲気だった。
「へぇ恥ずかしいの?紺もお年頃なのかな」
茶化すように言われて、ますます顔が赤くなる。
「ちっ違うって!もうっ揶揄うなよ」
「ふふっ来年会う時にはもっと大きくなっているんだろうね。楽しみだよ」
和兄ちゃんは来年には大学4年生、やがて社会人にもなるし……流石にもうこんなガキの俺とは遊んでもらえないと不安だったので、その言葉にホッとした。
「来年も来てくれる?」
「……また来るよ」
「あー良かった!約束だよ」
「さぁ紺おいで。背中を洗ってあげるよ」
「うっうん」
あれれ、やっぱ俺変だ。
股間がぎゅーって硬くなったぞ……Hなこと考えている時みたいにさ。
背中を泡のついたスポンジで擦ってもらいながら、そっと肩越しに和兄ちゃんの身体を盗み見た。
和兄ちゃんの上半身の所々に真っ白な泡が飛び散って、その合間に妙に綺麗な色のピンク色のものがあるなぁと思って目を凝らしたら、それは兄ちゃんの乳首だったわけで、いよいよ股間が大変なことになった!
「うわぁ」
慌てて股間を押さえたまま、風呂場を飛び出してしまった。
「あっ紺どこに行く?まだ流してないよ!」
****
『二十歳の約束』
その晩いつものように蚊帳を張った離れの和室で、和兄ちゃんと枕を並べて眠った。
「おやすみ。紺……」
「兄ちゃんお休み」
それにしても風呂場での惨事は危なかったなぁ。マスターベーションを覚えたての俺は、裸のままトイレに駆け込んで抜く羽目になった。
あーあ和兄ちゃんには絶対言えない秘密が出来ちゃったな。まさか兄ちゃんの裸で股間があんなになるなんて驚いた。これじゃまるで変態だ。もう一緒に風呂に入れないよ。
その晩は興奮気味でなかなか寝付けなかったが、兄ちゃんはすぐに寝息を立て始めた。
きっと俺に付き合って海まで行って疲れたんだろうな。今日は最初から元気なかったし……
そっと兄ちゃんの寝顔を盗み見すると、睫毛が長くて男なのに随分と綺麗な顔をしてるなぁと改めて思った。
あれれ……また股間がきゅーっとなって来るぞ。
「うぉー」
やっぱり俺どっかおかしいのかと頭を抱えてしまう。
そのまま何とか眠りにつけたのに今度はしくしくと押し殺した声が聞こえ、真夜中に目覚めてしまった。
泣いているのは和兄ちゃん?一体……どうして?
「……うっ……うう」
なんだかあまりに悲し気な声に、思わずガバっと身を起こしてしまった。
「あっ……紺、ごめん。起こしちゃった?」
兄ちゃんは恥ずかしそうに慌てて目を擦っていたが、泣いたのがバレバレだ。
「何かあったの?」
「いや、何でもないよ」
「でも泣いてるじゃないか」
「……」
「俺には話せない?誰にも言わないよ」
「紺……」
「さぁ話して」
「……なんだか今日の紺は大人っぽいな」
「うーん大人っぽいんじゃなくて、俺は早く大人になりたいというのが正直な所。和兄ちゃんを守れる位にね!」
「紺……ありがとう……実は怖い夢を見たんだ」
「どんな?」
「……いや……それはもう忘れた。それより少し僕の話を聞いてくれないか」
「いいよ!どんなことでも聞くよ」
「ありがとう。実はひとりで抱えているのが苦しくて……誰かに話したくなってね。実は僕……失恋したんだ」
「えっ!それいつ?」
怖い夢の内容も気になるが、もっと気になることだ。
「うん……この夏に入るちょっと前にね」
そっ……そう来るのか。
少し?いやかなりショックでガーンっとなった。
「驚いた?でも僕はもう二十歳だし普通な事だよ。ただ……ちょっと相手がね」
「振られたの?」
不躾なことだと思ったが、どうしても知りたかった。
だって俺は和兄ちゃんの全てを知りたいから!
「俺の大事な和兄ちゃんを振るなんて、一体どこのどいつだよ!」
思わずまだ真夜中なのを忘れて大声を出してしまった。
「紺ってば!しーっ、静かに!」
「あっごめん!」
「それに振られたんじゃないよ。僕からは何も言ってないから片思いだったんだ。でも彼らが付き合っているのを見ちゃって」
「そっそうか、ごめん。振られたことなんてもう忘れろよ」
「そうだね。彼はもういないから……忘れないとな」
最後の言葉にひっかかったけれども、その時は気にも留めず和兄ちゃんの肩をポンポンっと叩いて励ましてあげた。
「ほら、手を貸せよ」
「んっ何で?」
「怖い夢を見たんだろう。だから手を繋いでやる」
「へぇ今日の紺は喋り方も態度も、本当に僕より年上の大人みたいだな」
「早く兄ちゃんに追いつきたいから、すごく頑張っているんだよ」
「ふふっ、でもその分僕は歳を取ってしまうよ」
「今のまま待っていて」
「それは無理だよ」
兄ちゃんがクスクスと笑ってくれた。
あ……やっと笑ってくれた。
それから手をぎゅっと繋いでやった。
すると兄ちゃんもほっと落ち着いた表情を浮かべてくれた。
「兄ちゃんさ、何か困ったことがあったら俺を頼れよ。なるべく早く大きくなるから」
「そうだね。どうしようもなくなったら、またここに来るよ。紺の所に」
「うーん、やっぱりなんとなく不安だな。兄ちゃんのことだから困った時、誰にも頼れないで……無理しそうだから心配だ。そうだ!ちゃんと日にちを決めておこう」
「……何を?」
「だから確実に会える約束だよ。俺が大人になったら、兄ちゃんのことを守ってやるから安心していいよ」
「紺が僕を守る?何だか分からないけど、会う約束ならするよ」
「やった!じゃあ……そうだ!俺が二十歳になる日の夜はさ、今日みたいに手を繋いでここで一緒に寝ようよ。その時は兄ちゃん家みたいに、ふわっとオレンジ色の電気にしておくからさ」
「オレンジ色の電気?」
「何かふわっと温かみがあって好きだった。兄ちゃん家に昔泊まった時にいいなって思ったんだ」
「あぁ……あれは白熱灯だよ。この電気器具を替えるだけだよ。確かにこの部屋も白熱灯にしたらいいムードになりそうだね」
「だろ?じゃあ約束だよ。俺が二十歳になった夏休みはここで必ず一緒に過ごすこと。ほらっ指切りして」
「指切り?ふふっ結局紺はまだまだお子様だね。さっきまでは大人っぽかったのに」
「いいから指を絡めて!」
「んっ」
「指切りげんまん嘘ついたら針千本飲ます!」
****
『行方不明』
ところが次の朝少し寝坊して起きると、兄ちゃんの姿がどこにも見当たらなかった。
「母ちゃんー和兄ちゃんはどこ?」
「おはよう。あぁ和くんなら朝早く東京に戻ったわよ」
「えっ何でだよ。昨日来たばかりなのに」
「それが何だか大学の方で用事があるのを思い出したとかで、朝一番のバスで帰ってしまったのよ」
嫌な胸騒ぎがした。
でもまだ中学生になったばかりの俺には、すぐに和兄ちゃんを探しに行くことは出来なかった。
あの日……無理してでも追いかければ、何かが違ったのか。
気が付けば、もうあれから五年の月日が経ち、俺はこの春から大学生になった。
和兄ちゃんが通っていた都心の大学に合格し、今は都内で一人暮らしをしている。
何でこの大学にしたかって?
それは決まってるだろ!和兄ちゃんの足取りを追いたくて……
兄ちゃん一体どこにいる?
翌年もその次の年も……夏休みなのに遊びに来てくれない和兄ちゃんのことが心配になって……東京の兄ちゃんの家を訪ねた。だけど叔母さんに聞いても何も教えてもらえなかった。
何だか……まるで行方不明みたいじゃないか。
朝から晩までおばさんの家の前で和兄ちゃんの帰りを待ってみたが、とうとう現れなかった。叔母さんが俺を追い払うために「もうここには住んでいない」と言ったのは本当なのか。
あんなに優しくて綺麗だった和兄ちゃんが失踪してしまった?
どうして?
一人息子で大事にされていたのに。
そんなことってあるのか。
「どこにいるんだよ──!和兄ちゃんっ!会いたいよ!」
夕暮れ時の土手で、悔し涙を浮かべながら大声で叫ぶしかなかった。
****
『落ちぶれて』
「おいっどこ見てんだよ、和」
「いや……誰かに呼ばれたような気がして」
「次の客か?こっちに来いよ!早く抱かせろ」
「……そんな言い方」
「何言ってるんだよ。お前は金さえ出せば抱けるって聞いているぞ」
「……酷いな」
「ほら早く脱げよ」
「あっ……」
あれから大学を卒業し社会人になった僕は……男に身体を開くことを繰り返していた。
自らの意志で──
金をもらって。
「あうっ……痛っ、待て!まだ慣らしてないっ」
「いいからつべこべ言うなよ。聞いたぜ!お前は痛い位が丁度いいって!感じるってさ」
「そんなっ……あっ……いたっ……痛い」
「ほらほら啼けよ!もっと脚も開けよ!」
慣らしてもない蕾に、バーで知り合ったばかりの男の屹立を受け入れる。最初はギチギチなそこは次第に男の形状に慣れ、僕の方もじわじわと感じ出してしまう。
浅ましい躰になったものだ。
「あっ……んっ」
「くくっ、いい声になって来たな。お前の躰最高だな。なぁ俺専属にならねぇか」
「……僕は特定の人は作らない」
「フンっ!噂通りでつまらない奴。でもまた抱くぞ」
「……」
一晩中、よく知りもしない男に身体を蹂躙される。
最初はひどい嫌悪化に苛まれたが、もう僕のまともな感覚は壊れてしまった。
だから……こんな風に週末になると行きずりの男と寝る始末だ。
その場限りの男に抱かれ……寂しさと虚しさを補う日々を繰り返していた。
何でこんなことになったのか。
あの夏を境に狂ってしまったのか。
****
『淡い初恋』
大学三年の春、僕には好きな人がいた。
高校生の時……気付いてしまった自分の性癖。
ずっと女の子に興味を持てないのが変だとは思っていた。ある日偶然友人の家で観たAVで、僕は男優のことばかり気になってしまった。でもそんなこと親にも友達にも打ち明けられるはずなくて、ずっとひた隠して生きていた。
そんな中……大学のゼミの飲み会で隣り合わせになったのが『 海保 双葉 』というヨット部の選手だった。
「俺は海保 双葉。君は確か……」
「 樋口 和 だよ」
「あっ写真部の樋口か。学祭の展示すごく良かったぞ」
「そう?ありがとう。そういう海保はヨット部なんてすごいな」
「どうかな。もう練習にひたすら明け暮れる日々だぜ。もうすぐ週末は全部合宿になるしなーデートの暇もないよ」
「ふぅん……大変だな。あの……僕も海は好きだよ」
「あぁそう言えば樋口が撮った海の写真を見た。あんな風にお前の眼には海が見えているんだな。すごく綺麗だったぞ」
「あっ……ありがとう」
隣に座る海保の逞しい腕、逞しい胸、快活な性格。
何もかも理想的で気になってしまった。
妙に話も弾んで浮かれた気分で夢中になっていると、向いに座っていた同級生から揶揄われた。
「おいっ随分話が弾んでるな。もしかしてお前たちデキてんのか~樋口って綺麗な顔しているから、それもアリだよな!」
「……煩い」
こんな揶揄は今に始まったことではない。女顔のせいでこんな風に馬鹿にされることが高校時代から続いていた。
でも……言われる度に胸が痛んだ。
口では否定しながらも……僕の恋の相手はその通り男性に向っていたから。
「海保ごめん。僕のせいで」
「気にするなって。俺さぁそういう偏見ないから。相手が男でも好きになったら突き進むつもりだ。自然なことだと思う。間違ってない!」
びっくりした。
まさか海保の口から、そんな風に肯定してもらえるなんて。
その日からますます海保のことが気になり出して、つい目で追ってしまう日々が続いた。
そんなある日、大学の廊下で海保に呼び止められた。
「なぁ樋口、週末って暇?」
「えっ……なんで」
「合宿先に来て、ヨット部の活動写真を撮ってくれないか」
「何で僕が」
「実は俺さ、ヨット部のホームページ担当になって困ってるんだ。先輩から新入部員勧誘のためにも魅力的な写真を沢山載せろって言われてもセンスなくてさっ」
「成程、そういう事なら協力するよ」
「おお!本当か。助かるよ。サンキュ!土日はこの海岸で合宿してるんだ。海スゲー綺麗だから遊びがてら来てくれ!」
渡されたメモ用紙……神奈川の海岸の名を見て驚いた。
あっここって、いつも夏休みに従弟の紺と行く海岸だ!
そういえば大学生がヨットの練習をしていたっけ……それまで気にも留めていなかったのに、海保がヨット部だと聞いて見る目が変わってしまった。
飲み会で言われたことは僕に対してでないのは理解しているが、それでも僕の……誰にも言えない性癖を肯定してもらえたのが嬉しかった。
これは僕にとっての初恋。
でも見ているだけの片思い。
****
『失恋と後悔』
梅雨が明けるか明けないかの七月上旬。
僕はカメラを持って、ヨット部の練習を見に行くことにした。
海保自身からセーリングの写真を撮ることを依頼されたのだから、何も後ろめたいことはない。
そう決心して家を出た。
降り慣れた駅から、叔母の家には寄らずに真っすぐ海に向かった。
海が見えてくると……二人乗りのヨットが海に沢山出ていて、風を帆に受け気持ち良さそうだった。真っ白な大きな帆を動かし煌めく青い海をひた走る様子は、見ているだけでも爽快な光景だ。
そうか……ヨットの動力って、風と波の力だけなのか。
すごいな。
セールを操って風を帆で捕まえて、海面を静かに滑るように走り抜けるヨットたち躍動感に興奮し、夢中になって写真を撮りまくった。
気が付けばそのうちの一艘のヨットから大きな声がした。
「おーい!樋口来てくれたのか~ありがとう」
海保だった。
「なぁ俺もせっかくだから撮ってくれよ。ヨットを背景にさ」
「もちろん、いいよ!」
ヨットから降りた海保自身も、僕のカメラに収めた。
彼は真っ黒に日焼けし白い歯を見せて笑っていた。
見ているだけでいいと思った片思いにも、どんどん欲が出てしまう。
だがその恋はすぐに玉砕してしまうことを、僕はまだ知らなかった。
****
『失恋と涙』
海保とは……実にあっけない失恋と別れだった。
大学の校舎の物陰で海保の後ろ姿を見つけたので何も考えずに歩み寄ってみると……驚いたことに海保は男同士で熱いキスを交わしていた。
相手の男の顔を確かめると……確かこの前ヨット部の写真を撮った時
「こいつは晶。俺のパートーナさ、ヨットは二人乗りだからな」と紹介された男性だった。
そっか……そういうことだったのか。
その場で持っていたカメラを落としそうになる程ショックで、同時にあの日飲み会で話したことは、海保自身のことだったのかと理解した。
海保の恋の相手は、男だった。
でもそれは僕ではなかった。
ただそれだけのこと。
僕も……いつか巡り会えるのだろうか。
僕も海保と彼のような熱い恋をすることが、出来るのだろうか。
失恋はショックだったが、まだ芽生えはじめた恋だったと無理矢理に諦めをつけた。
だからこそ二人の幸せを見守ろうと結論づけていたのに、運命って残酷だ。
夏休みに入って暫くしてから、信じられない知らせを受けた。
海保がヨット部の合宿中、事故で亡くなったと。
ショックだった。
お通夜に参列すると……晶という名の彼は棺の前で泣き崩れていた。
そんな光景を見て……同性で付き合う決意をした者同士が、幸せの絶頂でパートナーを失うことの怖さに震えあがってしまった。
数週間後……海保が沈んだ海に従弟の紺と行くことになった。
いつもなら紺と一日中海で泳いで遊ぶのに、どうしても海に入れなかった。
情けないことに夜になると海保が死んだことにうなされ、泣きながら起きてしまった。
まだ中学生の紺に見つかって恥ずかしかったが、必死に励ましてもらえた。
だから……つい甘えてしまった。
七歳も年上の僕なのに、その日の紺は逞しかった。
紺……可愛い僕の弟のような従弟。
そんな彼が二十歳になったら僕を守ると健気に約束してくれたことにも、泣けてくる。
****
『再会』
あの夏の日。
まだ眠っている紺を蚊帳の中に置いたまま、僕は叔母の家を出た。
紺に励ましてもらい手を繋いでもらって、ようやく久しぶりにゆっくり眠れた。
明け方目覚めると頭の中がクリアになっていたので、僕はある決心をした。
人生はいつ終わるか分からない。
海保のようにいつ死んでしまうか分からないのだ。
だからいつまでも自分の性癖を隠していないで親にカミングアウトして、ありのままに自由に生きたいと願った。
だが結果は散々だった。
一度も手を挙げたことがなかった父が、僕を殴った。
「このバカ息子!気色悪い!この家から出ていけ!」
勢いで壁にぶつかった僕のことを、母はおろおろと見守るだけだった。
「和……どうして……」
母さんは、どっちにも付けないよね。
大丈夫、それでいい。
それよりも……一人息子なのに女性と結婚できない僕を許して。
「ごめんなさい」
僕は翌朝、家を飛び出した。
そんな意気地なしの僕のことを、厳格な父はすぐに勘当した。
亀裂が走っていく、どんどん深く……長く。
やがて父には大学の学費も打ち切られてしまった。
だから住む場所の確保と大学を続けるために、慣れないバイトを掛け持ちすることになった。やがてまっとうなバイトだけでは間に合わなくなり、気が付けば夜の街を歩いていた。
誘われるがままに酒を飲み、強姦のような形で僕は男にヤラレタ。
大事に抱えていた『初めて』を全て喪失した。力づくで奪われた。
いつか僕も……海保達のように爽やかな恋をしたい。
愛する誰かと……
そんな淡い夢は消え去った。
目覚めた時に、内股にこびりついた他人の臭い精液と自分の血液の匂いに気が狂いそうになった。
僕が自由に生きる道はこれなのか。
もう何がなんだか分からない。
そのままその男に飼われるような日々が続き、逃げようものなら何度も何度も殴られ犯された。
怖かった。
誰かに助けて欲しかった。
でも僕には誰もいなかった。
それでも何とか大学だけは卒業した。
僕を襲った男が別件で警察に捕まったので、やっと縁を切ることができた。
バイトに明け暮れ、ろくに講義を受けられなかった僕の成績は急降下し、教授たちに心配される中なんとか卒業し就職し、昼間は平凡なサラリーマンをすることになった。
だが乱暴な男に数年飼い慣らされた僕の躰は夜になるとじくじくと疼きだし、週末になれば新宿のバーで男を誘う有様だった。
あれから七年──
最近よく思い出すのは、幼い頃からずっと夏休みを過ごした海辺の家。
潮風が香り、波の音が子守唄だった離れの和室。
蚊帳によって守られるように、年下の従弟と眠った安らぎの日々。
「紺……どうしているかな。そういえばもうすぐ紺も二十歳になる。八月八日は紺の誕生日だ」
紺のことを思い出した晩のことだった。
渋谷のスクランブル交差点で、若い男性と激しく肩がぶつかった。
「すいません!俺の不注意です。あのっ大丈夫ですか」
誠実な声だとふと顔をあげれば、僕のことを茫然と見つめる従弟の紺の姿があった。
「えっ和兄ちゃん?」
「……紺なのか」
紺は少年の雰囲気を少し残したまま二十歳になろうとしていた。
「本当に和兄ちゃんだ!」
紺に呼び止められたが、僕の方は気まずくてその場から逃げ出してしまった。
「待って!あの約束は今年だ!俺はずっと待ってるから、絶対に来てくれよ!」
紺は変わってなかった。
僕のことも……あの日の約束も……忘れていなかった。
七年も前の約束をちゃんと守ろうとしている。
では……僕はどうすべきか。
****
『八月八日は蚊帳の中』
俺は八月になるとすぐに帰省した。
「あら~お帰りなさい。まぁその荷物は何?」
「これ?あぁ……離れの和室の蛍光灯が壊れてさ」
「そうだった?それにしても紺はあの部屋が好きね。和くんが来なくなっても……ずっとあそこで眠って」
「好きだよ。俺はあそこが好きだ」
和兄ちゃんと手を繋いで眠り、兄ちゃんを守ると約束した部屋だから。
「そうなのね、やっぱり今でも待っているのね。あなたは和くんのことが好きだったものね」
「そうだよ。俺はずっと待っている。母さん……俺さ、和兄ちゃんのことを愛しているから」
「えっ愛しているって、一体どういう事なの?」
母さんは狼狽えていたが、そこまで驚きもしなかった。
まぁ俺の態度もバレバレだったしな。
だから母さんに俺がどんなに和兄ちゃんのことを想っているのかを、正直に丁寧に伝えた。
「そうなのね……分かったわ。とにかく今日はあなたの二十歳の誕生日会なんだから、まずはお祝いをしましょう」
母さんはそれ以上何も言わず、夕食の用意を黙々としだした。
「紺~誕生日おめでとう!お前もとうとう二十歳だな」
「兄さんありがとう!」
「今日からはビールも煙草もOKだな」
「ほらっお祝いだ」
一番上の兄は和兄ちゃんより更に年上でもう三十歳だ。
去年結婚して嫁さんと実家に同居し、秋には待望の赤ちゃんが生まれるそうで、順風満帆な平和な家庭の様子にホッとする。
「これ何?」
包みを開くと、缶ビールと煙草だった。
「えー煙草なんて吸ったことないよ」
「くくくっ紺は真面目だな。でも一度位、煙草の味も覚えておけ」
結婚して既に家を出た姉夫婦と甥っ子達も駆けつけてくれ、すごい人数で俺の二十歳の誕生日を祝ってもらった。
(でも一番祝って欲しい人が、まだ来ていない)
風呂上がりに濡れた髪を乾かさずパジャマ代わりの甚平を着て、離れの和室に戻った。
手には冷えたビールと煙草を持っている。
蚊帳は昼間のうちに設置済みで、中に入ると白熱灯の優しい明かりが降り注いできた。
「へぇやっぱり蛍光灯とは違うな。まるでやわらかい日差しを浴びているみたいだ。なんだか和兄ちゃんの優しい雰囲気と似ているな」
今日は八月八日……あの約束の日だ。
ずっと探していた兄ちゃんと先月偶然にも渋谷のスクランブル交差点ですれ違った。
兄ちゃんは驚いて逃げてしまったが、きっと来てくれる。
だって約束を覚えている感じだったし。
ところが……時計の針が回っても回っても現れない。
不安で寂しくて……思わず吸ったこともない煙草に手を伸ばした。
最初はゴホゴホっと咳込むだけだった。
涙で視界が滲む。
少し慣れると煙をふかすことができた。
和兄ちゃんの分の敷き布団をそっと手で撫でた。
「兄ちゃん……ここに戻ってこいよ。なんだかすごく疲れた顔してたぞ」
待ちぼうけだ。
煙をくゆらせながら考えた。
いや……そうじゃない。
律儀な兄ちゃんのことだ、きっと近くまで来ている!
俺はビーチサンダルを履いて、夜の海へとまっしぐらに走った。
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『海に浮かぶ恋』
防波堤に腰掛けるスーツ姿の兄ちゃんを、月明かりが照らし捕まえてくれていた。
「兄ちゃん!和兄ちゃん!」
「紺……」
「ハァハァ……やっぱりちゃんと来てくれたんだな!」
兄ちゃんは海をじっと見つめていた。
「どうして真っすぐ来てくれないんだよ。ずっと待っていたのに」
「紺……ごめんな。先にお別れをしていたんだ……あいつに」
「あいつって?」
「七年前、この海でヨットの事故で亡くなった大学の同級生さ」
「あっそれなら覚えている」
「……彼は海保 双葉という男だよ」
「うん?」
「僕の初恋と片思いの相手……」
「えっ」
兄ちゃんは儚げに微笑んだ。
「驚いた?紺……僕はゲイなんだよ。あの夏、両親にカミングアウトしたけど受け入れてもらえず家を飛び出してこの七年……紺には想像できないような荒んだ人生を送った人間さ」
「……そうなんだ」
「驚かないのか」
「そりゃ少しは驚いたけど、嬉しい方が大きくて興奮している!」
「紺?それ……どういう意味」
「だから俺は七年前気づいたんだ。兄ちゃんに恋してるってさ!それを伝えたくて探し回っていたから!」
「そんな……紺が僕のことを?」
「あの日の約束を忘れたのか。兄ちゃんを守るって」
「……忘れてはいないが」
「兄ちゃんのことが好きだから守りたい!俺はもう二十歳だ。背は……そんなに伸びなかったけど、もっと俺を頼りにしてくれよ。兄ちゃんの悲しみや悩みを半分こっちに渡せよ」
「紺……紺……嬉しい……でも、もう遅いよ。僕はもう昔の僕じゃない」
兄ちゃんは涙を溢れさせ、顔をまた海の方へ背けてしまった。
「そんなことない。目の前にいる兄ちゃんは昔のままだ!」
「知らないから。お前は僕がしてきたことを……複数の……おっ男と寝て……お……金をもらったり……」
「……兄ちゃん大丈夫だ。どんな過去があっても今俺の前にいる兄ちゃんがすべてだ!」
兄ちゃんの顎をつかみ、生まれて初めてのキスをした。
兄ちゃんの口からは切ない吐息が漏れる。
「うっ……紺、ダメだ!ダメだよ」
必死に抵抗する兄ちゃんの細い腕を掴み、後頭部を押さえつけて一気に口づけを深めていく。口づけの仕方なんて知らないから本能のままに──
「あっ……うっ……う」
海風が優しく俺たちを包み込んでくれる。
月光は優しく降り注いでくれる。
自然が俺たちを受け入れてくれている。
「怖がらないで……大丈夫だから」
兄ちゃんの背中を優しく撫でると、とうとう堪えきれないように兄ちゃんが泣いた。
あの日のようにポロポロと泣いた。
「泣いて……泣いて吐き出せよ。思い出は海に捨てちまえ!そしたら俺だけを見てくれ!」
兄ちゃんは静かに立ち上がった。
その手には写真を持っている。
ちらっと見ると、健康そうな若者がヨットを背に笑っていた。
兄ちゃんはその写真をビリビリに破いて海に撒いた。
「さよなら海保……告白すらできなかった……僕の初恋の人」
すると写真は波の上にぷかぷかと浮いて、月光を浴びてキラキラと輝きだした。
「兄ちゃん……写真……沈まないな。海でも力を抜けば浮いていられるってことを教えてくれているみたいだ」
「紺……」
「兄ちゃん。今日から俺と恋をしよう。海に浮かぶような恋をしようよ。力を抜いて、ありのままにさ!」
その晩は母屋には寄らず、兄ちゃんを離れの和室に連れ込んだ。
兄ちゃんは蚊帳の中に降り注ぐ白熱灯を浴びて、幸せそうに微笑んだ。
「ずっとここで眠りたかった。ここはすごく落ち着くから」
兄ちゃんの躰がやわらかい光に包まれ、浄化されていくようだった。
「兄ちゃん……手、繋ぐか」
「うん……」
七年ぶりに繋いだ兄ちゃんの指先は、とても冷たかった。
「手……随分とひんやりしているな。大丈夫か」
「……紺に温めてもらいたい。それに……手だけじゃ物足りない」
兄ちゃんが恥ずかしそうに眼を閉じると、瞼が小刻みに震えていた。
あぁ緊張がひしひしと伝わってくるな。
そんな兄ちゃんのことを優しく胸に抱き寄せてやった。
兄ちゃんの辛い過去を思えば即物的に抱くようなことはしない方がいいと思った。そこはぐっと我慢した。まずは兄ちゃんにとって俺は居場所にいい人になりたい。
「紺……本当にこんな僕でいいのか」
「兄ちゃんだけをずっと見てきた。だから俺とゆっくり浮かんでいこう」
躰全体を優しく撫でてやると、兄ちゃんはようやく甘い笑顔を浮かべてくれた。
「んっ……紺の手は……温かい。心が落ち着くよ」
「その顔、いいな」
「あっ」
兄ちゃんの寛いだ顔が可愛過ぎるから、その代わりキスだけは何度も何度もしつこく貰ってしまった。
****
『翌日』
翌日は兄ちゃんの初恋の人の命日だと言うので、海に花束を投げにやってきた。
兄ちゃんは長いことお祈りしていたが、その後、穏やかに笑ってくれたのでほっとした。
そのまま砂浜を二人並んで歩いた。
振り返ると兄ちゃんの足跡が、ずっと俺に寄り添うように並んでいるのが嬉しくなった。
憧れの光景に興奮し嬉しすぎて、転んだのは俺。
そこに波がやって来てズボンがぐっしょり濡れたのも俺。
「あぁぁ!まずいスマホ、ポケットに入れたままだ!」
「ええ?まずいよ。水没は一刻も早く店に行った方がいいらしいよ」
「ちょうど防波堤に先に携帯ショップがあるから行こう!」
「そんな所にあったかな」
「七年前に出来たのさ!」
****
『エピローグ』
紺と入った携帯ショップで担当の男性の顔を見て、あっと息を呑んだ。
担当の彼は……あの日海保とキスしていた男だった。
海保が親しみを込めて『晶』と呼んでいたのが懐かしい。
向こうは僕のことに気が付かなかったが、それでいい。
だって僕はもう海に浮かぶ恋を始めたから。
夕暮れ時、海を見ながら紺と砂浜で黄昏ていると……早番だったのか彼が店から足早に出てきた。
するとすぐに彼に近づく背の高い男がいた。
その男に向かって彼は破顔した。
いい笑顔だった。
いろんなものが吹っ切れた人の顔だ。
彼も……ようやく海に浮かぶ恋を始めたのか。
海保の相手が、この世で幸せに生きている事を知る事が出来てよかった。
ずっと気になっていたから。
さぁ……僕も浮上しよう。
七つも年下の従弟だけど、僕を真剣に愛してくれる人の元へ──
****
『後日談』
翌日改めて紺の両親に挨拶した。
「おじさん、おばさん……樋口 和です。長い間ご心配おかけしました」
「本当に和くんなのね。生きていて良かったわ。ずっと東京の姉達も心配し後悔していたのよ。その……あなたの個人的な事情も聴いたわ。ねぇ……ここはのんびりした田舎町よ。あなたさえよかったらずっとここにいて。あの離れの家はおばあちゃんからの遺言で和くんの物になっているのよ」
「そんな……」
「その代わり一つお願いがあるの」
「何ですか」
「うちは長男が家を継いでもうすぐ子供も生まれるの。長女も結婚してもう二児のママよ」
「……あの?それが何か僕に関係があるのですか」
「その……孫の心配は大丈夫なの。つまり……紺のことを宜しくね。一途な息子なのよ。馬鹿が付くくらいのね。全部紺から打ち明けられて主人と決めたのがこの決断よ。周りが認めなくても私たちが認めるの」
「そんな……僕なんか……僕は生きていてもいいのですか」
「当たり前よ。あなたはこれからは紺とふたりで生きて行くのよ」
その晩……離れで紺と枕を並べ天井を見つめると、白熱灯の明かりが優しく輝いていた。
僕にはそれが『希望の光』のように見えた。
あの光を目指して……僕はどん底から浮上していけばいい。
躰の力を抜けば浮かぶことを、紺に教えてもらったから大丈夫だ。
これからは、ありのままに……
紺と共に……海に浮かぶ恋をしていこう!
「おやすみ、紺……また明日」
「和……お休み」
大人ぶった紺の声が、心地良かった。
『海に浮かぶ恋』 了
※志生帆 海です。最後まで読んで下さってありがとうございます。夏休みの海辺の町を舞台にした切ない物語でした。同じ海を舞台にしたお話に『海に沈む恋』があります。お話が少しリンクしていますので、よかったら探していただけたら嬉しいです。(もちろん単独で読めます)
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