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【彼待夜】文月はつか
康臣と会うのは久しぶりだ。東京の大学に行った康臣は、ゼミだのサークルだのアルバイトだのといつも忙しくしていて、連絡すら途切れがちだ。高校卒業後、地元に残り就職した明生には、康臣の生活を想像することすら難しい。
康臣は、年末年始はアルバイトのひとつである、家庭教師で受け持った生徒が受験を前にナーバスになっていて心配だからと帰ってこなかった。ゴールデンウィークはサークルの活動と、新たに始めたアルバイトが休めないと東京に留まった。結局、帰ってくるのは一年ぶりだ。去年のお盆休みは帰ってきたものの、康臣が家族や友達に連れ出されてしまった。やっと時間を確保してくれた康臣と二人で車で越県までしたが、ホテルはどこも満室で、朝まで車の中で話をしただけで終わった。二人の仲は一向に進展しないままだ。
今年のお盆休みは、明生の両親が旅行に行って不在だ。一緒にどうかと誘われたが、二人でゆっくりしてくれと断った。今朝は両親を送り出すなり家中を掃除し、シーツを洗い、布団を干し、夕食の買い出しも済ませた。康臣からの連絡では、夕方には来るはずだった。少しでも早く会いたくて、新幹線の駅まで迎えに行こうかと言ったが「両親が来てくれるから、家で待っていて」と言われてしまっては、来るのを待つしかない。
昼過ぎに新幹線に乗ったという連絡を最後に、康臣からの連絡は途切れた。日が落ち、空に薄墨色が広がり夜が始まった。明生は、一緒に食べようと思っていた夕食を一人で食べた。両親が畑で育てた夏野菜のパスタは、美味しいはずなのに、味がしない。トウモロコシの冷製スープもただ冷たいだけだった。テーブルの上のスマホは静かなままだ。
来ない連絡を待つのに疲れ、明生はスマホの電源を落とした。来るときは来る。来ないときは、どれだけ待っても来ない。そう自分に言い聞かせた。本当は、行けなくなったという連絡が来るのが怖い。何でもない振りをして、じゃあ時間が取れたら会おう、なんて返してしまうだろう。そして、頭の中でずっと、会いたいのは僕だけなんじゃないかと考え、最後には新しく刺激のある生活に馴染んだ康臣は、もう僕のことを好きじゃないんだ、と決めつけてしまうに違いない。
離れたままで、康臣に好かれ続ける自信がない。そんな自分が嫌だ。
スマホを鞄の奥に突っ込んで、風呂に入った。全身を洗ったあと、汗を吹き出しながら湯船に浸かる。どうしても頭に康臣のことが浮かぶ。ずりずりと浴槽にもたれた背中を滑らせ、頭のてっぺんまで湯の中に入れた。
湯が動く音が耳に響く。髪が揺蕩うように揺れる。鼻から漏れた空気が昇っていく。息が苦しい。口の端からも空気が漏れていく。
胸が苦しい。こんなときでも、頭の中に康臣がいる。ここから引き揚げてくれ。康臣の腕を思い両手を伸ばすが、つかめるものはなにもない。
ざばっと一気に湯から顔を出した。のぼせたのか、頭がふらつく。明生は湯から上がり、シャワーで冷水を頭からぶっかけた。
蚊帳の中に入ると、虫の音が遠くなった。網戸ごしに、部屋の明かりが庭に広がっている。布団に敷いた新しいシーツは夜風に含まれる湿気に曝され、乾いた硬さを失いつつあった。
一時間前から焚いていた蚊取り線香の先を折り、布団の上に座った。まだ濡れた髪から、水滴が首筋を伝って甚平に染みこんだ。
明生の家は平屋建てで、明生の部屋は玄関から一番遠くにある。玄関は鍵をしめてしまった。庭を通れば、ここまで来られる。康臣はいつも庭から来ていた。
自室以外の電気は全部消していた。家の中はひっそりと静かだ。この部屋だけが白々と明かりと灯し、たったひとりを待っている。
昼間より幾分涼しくなった風が優しく蚊帳を揺らす。康臣からの連絡を確認したい気持ちと、したくない気持ちで胸がむかむかしていた。連絡がなかったときの落胆を想像して、頭を振った。明生は布団の脇に置いていた煙草と灰皿を掴んだ。わずかに逡巡したあと、煙草に火をつける。
浅く煙を吸う。口の中に広がる苦味に眉が寄る。たまにしか吸わないせいか、まだ慣れない。煙草を吸い始めたのは、半年前からだ。康臣と思うように会えず、さみしさを紛らわせるためだった。咥えていると、さみしさや康臣に触れたい気持ちを誤魔化してくれる。
ここからでは月が見えない。明生は灰皿に煙草を押しつけ、布団に寝転んだ。一人きりの家は、静かだ。白い蚊帳の中は、世界から隔離されたように感じる。
康臣とは幼なじみだ。小さい頃から誰とでも友達になってしまう康臣は、いまでも人気者だ。明生の両親だって、しょっちゅう康臣の話題を出す。康臣の両親から聞いたのだろう、大学でどうだの、バイト先でどうだのと詳しい。康臣の近況は、本人からより、親から聞く方が多いぐらいだ。
大半が親の農業を継ぐか、地元の企業に就職するような小さな田舎町で、誰でも知っている有名大学に進学した康臣は、みんなの期待の星だ。明生にとっても、康臣はきらきら輝いている。小さい頃から、一緒にいた。大人しく、引っ込み思案だった明生を、康臣はいつも遊びに誘ってくれた。放っておけないと構ってくれるのが嬉しかった。康臣のようになりたかったし、一緒にいたいと思っていた。それがいつ恋へ変わっていったのか、明生自身にもわからない。友達としてか恋愛か、とにかく康臣がずっと好きだった。
ここには自然と畑と顔なじみ以外なにもない。出ていった人たちのほとんどは戻らない。だから、康臣が東京へ行くと決まった日、どうせ最後ならと告白したのだ。
「好きだ」
呟くと、蚊帳が揺れた。少し風が出てきて、明生の濡れた髪をゆっくりと乾かしていく。時々、まだ片思いしている気になる。気持ちを受け入れてもらえているなんて、夢じゃないかと思う。
煌々と眩しい照明に目を閉じる。瞼の裏に赤い色が見えた。早く朝が来て欲しい。康臣を待って夜を明かしたい。待ち遠しさをずっと胸に抱いていたい。ひとりで康臣を想うことは、懐かしさを呼び起こす。友達の顔をして、康臣のわずかな表情の変化すら見逃さないように見ていたこと。学校から二人で帰った道に差す夕日の色。卒業式の胸の花と全てのボタンを奪われた康臣の学ランの黒さ。
瞼の裏に次々と浮かび上がる。康臣が「俺も好きだ」と言ったときの声が震えていたことを覚えている。明生は耳がこそばゆく、熱くなった。東京へ行く前の晩、二人で自転車を漕いで小さな神社に行った。そこで初めて触れた康臣の唇は柔らかった。一瞬の重なりなのに、明生の体は腹の底から指先まで細かな震えとじんとする熱に襲われた。
「康臣」
ここにいなくても、明生の中には康臣の欠片たちがいくつも残っている。唇を指で撫でる。康臣の指なら、と想像するだけで唇は薄く開き、指を中へ誘う。口内は熱く、飢えている。指に舌が絡む。勝手に動く舌をはしたなく思いながらも、明生はやめない。
はぁ、と熱い息が漏れ始める。指を吸う。指先が上顎に触れると、体もじっとしていられない。腰の辺りに小さな火が灯った。ゆっくりと確実に、明生を中から炙っていく。
「……ぁ、康臣」
虫の音が大きく響く。風が体を撫で、去って行く。
「明生」
「……ん」
康臣の声が聞こえる。高校のころより少し低く、電話越しより明瞭に耳に届く康臣の声に明生は吐息で応える。
「明生。ただいま」
頬にあたたかいものが触れ、明生は驚いて目を開けた。視界いっぱいに康臣の顔がある。明生を照らしていた照明を遮るように、康臣が覗き込んでいた。
明生は慌てて指を口から引き抜き、康臣から逃げるように後ろへずり下がった。
「おっと、なんで逃げるんだよ」
「だって」
腕を取られた。さっきまで明生が口に含んでいた指に康臣の視線を痛いほど感じる。唾液で濡れた指が恥ずかしい。みっともなくて隠したいのに、康臣は顔に近づけ、じれったいほどゆっくりと唇の間に差し込んでいった。
指先から関節、そして付け根にまで康臣の柔らかく熱い粘膜に包まれた。熱い舌が這う。
「やめ、やめろって」
「んーん」
いたずらっ子のように笑って首を振り、さらに隣の指まで咥え出す。二本の指を咥えた康臣の唇は嫌らしく歪み、唾液で光る。指に康臣の舌のざらつきを感じるたび、明生の背中にびくびくと欲情が走る。
「ばか」
明生は強引に指を引き抜いた。てらてらと光る指を舐めたいのを堪え、シーツで拭う。
「遅いんだよ」
「メッセージ送ったのに、見てないだろ。何通も送ったのに。でも、いいもの見られた」
康臣の視線が明生の唇から指へと舐めるように動いた。かっと頬が熱くなる。くそ、と小さく呟き、康臣を睨んだ。恥ずかしい姿を見られたのだ。もう、なにも隠すことはない。開き直った明生は、康臣へと腕を伸ばした。
「文字だけの康臣なんて見たくない。俺が待ってたのは、これだけ」
指先が康臣の首に触れた。汗ばんだ首筋を撫であげ、頬に手を添える。
「おかえり」
「ただいま」
唇が重なる。舌がゆっくりと絡まり、唾液を啜り合う音が頭の中にまで広がる。そのままゆっくりと体を倒していった。
「いいの?」
「そのつもりで準備してあるんだ……ずっと、康臣としたかったから」
声は震えていた。康臣が欲しいと、はっきりと言ったのは初めてだ。付き合っていても、会う時間さえろくになく、体をつなげることが出来なかった。けれど、ずっと焦れていた。康臣が好きだというだけでは、はっきりともの足りなくなっていた。夜ごと高まる欲望を一人で慰めても、満たされない。康臣の体温が、感触が、康臣自身が足りなかった。
「俺も。ずっと、明生としたかった」
康臣が蚊帳から出た。それだけでもう、不安になる。置いていかないでくれ。早く戻ってくれ。僕に触れて、その存在を確かめさせてくれ。
電気が消え、暗闇に包まれた。康臣が動く気配を全身で感じ取る。枕元のスタンドライトが小さく灯った。白熱球の柔らかな明かりに浮かび上がる康臣の顔は真剣だった。
康臣の手が明生の甚平を器用に脱がしていく。ここから先は初めてのことばかりだ。二人の息は湿り、甘さが滲み出した。明生は体の中を燃え広がる炎に翻弄されていく。遠くで鳴く虫の音に、明生の掠れた吐息が重なる。夜はまだ、終わりそうになかった。
【完】
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