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【僕と幽霊の話】ゆまはなお
祖母の家には幽霊がいる。
二階の奥の和室に彼は棲んでいて、たいてい窓枠に座ってぼんやり窓から外を眺めている。二十歳くらいの男の幽霊で甚平を着ていた。整った顔立ちのせいか怖いと思ったことがない。
というよりも、いるのが当たり前になっていて恐怖心がわかなかった。
そもそも彼が幽霊だと気がついたのはかなり後のことで、最初に彼を見たのがいつだったかもう覚えていない。
でも彼が幽霊だと認識したときのことは覚えている。
僕が小学一年生の夏休みのことだった。
車で五分の祖父母の家にはよく遊びに来ていたけれど、初めて一人でお泊りすると決めて、祖父母と僕で夕食を食べていた時だった。
いつもなら忘れている彼のことを思い出したのは、その日、祖父が甚平を着ていたからと騒がしい弟や妹がいなくて静かな食卓だったせいだ。
「お兄ちゃんはご飯に呼ばないの?」
「誰のこと?」
僕の質問に祖母が首をかしげた。
「二階にいるお兄ちゃん」
そう言えば、彼は一度も食事に来たことがないし、テレビも見に来ない。
その時まで僕はそれをふしぎに思ったことがなかった。物置として使っている二階の奥の和室には滅多に行かないから、たまにしか見かけない彼のことは忘れていたんだ。
「お兄ちゃん? 二階には誰もいないよ」
祖母はそう言って笑った。
「そうなの?」
今日はいないのかなと僕は思い、その話はそれで終わった。
その夜、食後に祖父とお風呂に入った時、祖父が訊ねた。
「お兄ちゃんていうのはどんな感じなんだ?」
「え?」
「二階にいるんだろう?」
祖父は何か考えこんでいるようだった。
「えーとね、甚平着てる」
「他には?」
「うーん……」
小一の僕にはどんな感じという漠然とした質問は返事に困る問いかけだった。
「辛そうな感じか?」
辛そうというのがあまりよくわからないけれど、考えて答えた。
「……たぶんそうじゃないと思う」
窓の外を見ている彼の横顔は静かで、僕は話しかけたことはない。幽霊だという認識はなくても何となく近寄りがたい雰囲気があったのかもしれない。
「そうか」
祖父は僕の困った顔を見て、ちょっと笑った。
「泣いたりしてないか?」
「そんなことないよ。窓の外を見てるよ」
「窓の外?」
「うん」
「そうか……。そのお兄ちゃんは静かにしているのが好きだから、構わないでおきなさい」
「うん、わかった」
その時、ふと幽霊という言葉が頭に浮かんだ。
そうか、お兄ちゃんは幽霊なのか。
だからお祖母ちゃんは知らないし、ご飯も食べないのか。
でもお祖父ちゃんは知っているみたいだ。誰なのか訊いてみようかと思ったけれど、髪を洗われてシャンプーが目にしみそうになってぎゃあぎゃあ言っているうちに忘れてしまった。
次の日、僕は二階に上がってみた。朝の光が差し込む和室には誰もいない。いつもいるわけではないと知っていたけれど、がっかりした。
別に彼に会って何かしようと思ったわけではなく、ただ本当に幽霊なのか確かめたかっただけだった。といっても確かめ方もわからないのだけど。
彼がよく座っている低い窓枠に腰かけて外を見たら、ちょうど正面玄関に続く通りから宅配便の車がやってくるのが見えた。
「お荷物でーす」
と配達員の声が聞こえた。おばあちゃんが「いつもご苦労様」と返事をしている。
お兄ちゃんもこうして外を眺めて楽しんでいるのかもしれない。
しばらくそうしていたが、彼は現れなかったし特に楽しいこともなかったので一階に降りた。
翌年、祖父は亡くなって彼が誰だったのか訊けないままになった。
僕はその後も、二階の奥の和室を覗きに行った。
彼はいたりいなかったりだった。たいていいつも窓の外を見ていたが、たまには床に座っていることもあった。ぼんやりと宙を見ていて僕のことは見えていないようだった。
ある時、一枚の写真を見つけた。
本棚に並ぶ古い本をパラパラとめくっていたら、はらりと落ちて来たのだ。
蚊帳の中で、幽霊の彼が座っている写真だった。いつもの甚平を着て布団の上に座って煙草を持っている。煙草を吸うのが意外でまじまじと見てしまった。
裏返したら日付と名前が書いてあって、彼は修一郎というのだと知った。日付からやっぱり幽霊なんだと納得した。
挟んであった本を見たら、そこには康平(こうへい)と名前が書いてあった。本の持ち主は康平で、写真の幽霊は修一郎らしい。
でもどこの誰とはわからなかった。
修一郎が誰だか知っていたはずの祖父はもう数年前に亡くなっていて、写真を見て初めて、祖父に訊いておけばよかったと思った。
祖母は誰だか知っているだろうか。
幽霊になってここにいることは知らないけれど、写真を見せるのはべつにかまわないだろうか。迷ったけれど、写真を元通りの本に挟んで本棚にしまった。
祖父の構わないでおきなさいという言葉を思い出したからだ。事情を知っていそうな祖父が言うのだからそうしたほうがいいのだろう。
高校生になった夏休み、僕は祖母に頼まれてその部屋の荷物を片づけていた。
修一郎は相変わらず窓枠に腰かけて外を見ていた。彼はそこから玄関を出入りする人を見ている。誰かを待っているのかもしれないと何度も彼を見ているうちに気がついた。
僕は修一郎のことは気にしないで作業を進めた。祖母には見えないし、彼はこちらが何をしていても構わない。
「その箱の中は何だったかしら」
押入れから出した箱にはネットみたいなものが入っていた。
「ゴミ用ネット?」
「違うわ、蚊帳だわ。懐かしい」
カラス除けネットに見えたそれは大きな蚊帳だった。
「覚えてない? 何年か前まで使ってたと思うけど」
「うん、思い出した。これ、好きだったな」
一階の八畳間の四隅の柱には蚊帳用の丸い金具が取りつけてあって、そこに蚊帳に着いている金具を引っかけて四角型のテントのような大きな蚊帳が張れるようになっていた。
布団二枚分の広さがあり、大人だと背がつかえてしまうが子供なら立っても平気な高さがある大型の蚊帳だ。
「今どき、こんな大きな蚊帳はもう売ってないわね」
「この中でよくキャンプごっこしたな」
夏休みに泊りに来ると、この蚊帳に入って弟や妹とキャンプごっこや宇宙船ごっこをして遊んだ。薄い紗のかかった内側は、外とは違う世界に思えて楽しかった。
「なんでしまってあるの?」
「穴があいたし、電気式の蚊取り線香を使うようになったから。引っ張って張るのも大変だったし」
高い位置に引っかけるから、小柄な祖母にはけっこう重かったらしい。
「そうなんだ。もったいないね」
「そうね。使えないから捨ててもいいんだけど何となく取ってあるの。ダメね、年よりは物を増やすばっかりで」
その時、チャイムが鳴って、祖母は窓から玄関を覗いた。
「はーい?」
「ナス持って来たんだけどー」
隣りのおばさんの声がした。
「ああ、ありがとう。いま降りるから待っててー」
祖母が階段を下りて行き、後には中途半端に広げた蚊帳が残された。
ふと気配を感じて顔をあげると、彼がこちらを見ていた。びっくりしていると、彼がすっと寄って来た。
そんなことは初めてで内心びびったが、驚き過ぎて声は出なかった。
彼はすぐ側で膝をついて蚊帳に手を伸ばした。
間近で見た彼は、まつげが長くて作り物のようだった。
「それ、あなたも使ってた?」
写真の修一郎が蚊帳に入っていたことを思い出した。あの蚊帳はこれだったんだろうか。
訊ねてみたけれど、もちろん返事はない。
「張ってあげようか」
初めて意思をもって彼が動くところを見たから、ついそんなことを口走ってしまった。彼がそう望んでいるのかわからなかったけれど。
顔を上げた彼と初めて目が合った。
修一郎は驚いた顔で手を伸ばしてきて、僕の腕を掴んだ。
え? 掴んだ?
その時、ぐらりと目眩がして僕は目を閉じた。
貧血を起こしたように急激にどこかに落ちるような感じがした。地面に手をついてこらえ、治まったので目を開いたら目の前に満月が見えた。
「え?」
驚いて周囲を見回したら、そこは縁側だった。
いつの間に一階に?
いや、そもそも昼だったはずだ。
「康平、どうしたんだ?」
涼しげな声を掛けられて顔を向けたら、大きな蚊帳の中に修一郎がいた。何年も見ていたのに、声を聞いたのは初めてだ。
「どうって……」
何が起きたか戸惑う僕に、修一郎は蚊帳越しに微笑む。
「こっちに入れば? そこにいたら蚊にかまれてしまうよ」
「え、うん……」
立ち上がると甚平を着ていることに気づく。康平と呼びかけられたが誰だっけ? いろいろ混乱しているが、床にたぐまった蚊帳を持ち上げ、とりあえず中に入った。
修一郎が親しみをこめた表情で見ていた。
蚊帳の中はとても懐かしい感じがした。
こうしてこの部屋で子供のころ妹や弟と遊んだ。蚊帳に入ってキャンプごっこをするのがお気に入りで、その次が宇宙船ごっこだった。
…ん? キャンプ? 宇宙船?
なんだそれは。
僕は軽く頭を振った。
何か夢でも見たんだろうか。
今日は修一郎が泊りに来ているのだ。両親が親戚の結婚式で出かけると聞いて、夏休みだし心配だからと遊びに来てくれた。
修一郎と二人で並んで縁側を向いて布団の上に座り、月明かりの庭を眺める。
「月が明るいな」
「ああ、明日も晴れるな」
白熱球の温かな光に照らされた横顔に、鼓動が走り出す。
他愛ない会話を交わしながら、ドキドキしてうつむいた。やけに顔が熱くなる。気持ちを気づかれないように、なるべくそっと呼吸する。
「明日は魚釣りに行かないか? それとも家で本でも読むか?」
修一郎が訊ねた。
「魚釣りがいいな」
僕が答えると修一郎は優しく笑ってうなずいた。
「ああ、そうしよう」
そして近づいてきたと思ったら、唇が重なっていた。
「え?」
驚く僕に、修一郎は照れた顔でやさしく笑う。
「好きだよ」
「……うん」
心臓がばくばくして飛び出しそうだった。僕の気持ちが知られていた? でも修一郎は好きだよと言った。混乱しているとそっと頬に手を添えられて、もう一度口づけられた。
「康平が好きだ。本当に好きなんだ」
僕を抱き寄せた修一郎の心臓の鼓動が伝わってきた。
「うん、僕も好きだよ」
それだけ言うのがやっとだった。
「ああ。待っているから、早く病気を治して戻って来いよ」
そうだった。もうじき療養のために家を出るんだ。
「……うん」
僕がうなずくと修一郎は力強く僕を抱きしめた。
「ちょっと、昼寝なら布団の上でしなさいよ」
肩を揺すられて目が覚めた。
「……ばあちゃん?」
「びっくりするじゃないの。こんなところで寝てたら」
「ごめん、急に眠くなって」
片付けの途中で寝てしまったのか。
夢を見た気がするが、なんだったっけ?
ふっと夢の断片が浮かんだ。
「康平……」
「え、なあに?」
「祖母ちゃん、康平って人、知ってる?」
「康平? 聞いたことがあるわね……」
祖母は首をかしげてしばらく考え、もしかしたらと声を上げた。
「確かお祖父ちゃんのお兄さんがそんな名前だった気がするわ」
「お祖父ちゃんのお兄さん?」
「ええ。その人がどうかしたの?」
「ううん。本に名前が書いてあったから、誰かなと思っただけ」
祖母はああと納得した。
本棚からは康平の本の他に、修一郎の名が入った本も何冊か出てきていた。僕は時々、それを読んでいたのだ。
「康平さんは結婚前にもう亡くなってたから、会ったことはないのよ」
その言葉で夢を思い出した。
修一郎が「早く病気を治して戻って来い」と言っていた。でも早くに亡くなったということは、治らなかったんだろうか。
「どうして亡くなったの?」
「何か病気だったみたいよ。体が弱かったらしくて」
それ以上のことは祖母も知らないようだ。
修一郎が何者かはわからない。あの夢からすると康平の恋人だったんだろうか。この家に康平の幽霊ではなく、修一郎の幽霊がいるのはどうしてだろう?
待っていると彼は康平に言っていた。いつも窓枠に座って玄関を見ているのは、亡くなったことを知らないまま康平の帰りを待ち続けているからなのか。
だとしたら、ずいぶんと切ない気がする。
「修一郎って人は知ってる? 写真があったんだけど」
本から出して見せてみたが、祖母は首を横に振った。
「……知らないわ。康平さんかのお友達かしら」
「そっか。なんか片付けすると色々出て来るね」
「そうね。あんたたちに迷惑かけないように早めに終活ってのをやらないとね」
「やだな、ばあちゃん。おかしな言葉、覚えないでよ」
「おかしくないよ。時代は“だんしゃり”なんだって」
祖母が言うのに笑いながら、修一郎は誰なんだろうと僕は考えていた。
答えは本棚の奥で見つけた康平の卒業アルバムから見つかった。
高校時代のクラス写真に二人は並んで写っていた。
驚いたのは、写真の康平が僕にとてもよく似ていたことだ。
最近「若い頃のお祖父ちゃんに似てきた」と祖母から言われていたが、祖父は兄の康平とよく似ていた。だから僕も康平に似ているのだ。
修一郎がどこの誰かはわかったけれど、どうして彼がここにいるのかその謎は解けなかった。
僕は思い切って、アルバムの住所に行ってみた。隣りの市だから電車で1時間もかからない。小奇麗な一戸建ての家は最近建てたものだろう。
修一郎の家族が今も住んでいるかどうかわからないが、卒業アルバムの名簿と同じ苗字の表札が掛かっていたので、家に戻って手紙を書いた。
祖父の家の整理をしていたら、修一郎と名前の入った本と写真が出てきて卒業アルバムからそちらの修一郎さんのものだと思うのですが、お返ししましょうかというような内容を書いて出してみた。
無視されても仕方ないと思いながら投函したが、何と返事が返ってきた。
お手数でなければぜひ送っていただきたいが、よかったらお会いできないかという内容だった。手紙を書いてくれたのは修一郎の妹にあたる人で、その人から僕は修一郎の消息を知ることができた。
修一郎の妹、佳代さんは待ち合わせに現れた僕を見てはっとした顔をした。それで彼女が康平のことを知っているのだとわかった。
祖母と同年代の佳代さんと、駅前のカフェで話をした。
修一郎の家は大きな造り酒屋だったそうだ。
彼は長男だったが家業を継がないで医者になると宣言して学業に励んでいたが、康平が療養に行って間もなく、跡取りとしていた修一郎の弟が事故で亡くなった。
そのため、急きょ、家を継ぐことになって、大学を辞めて実家に戻った。
修一郎が医者を目指したのは、康平のためだったかどうかはわからない。
ともかくそんな事情で修一郎は家業を継いで見合い結婚した。
不本意な結婚だったのか知る由もないが、すぐに子供に恵まれ家業も順調だった。
ところが結婚二年目に火事にあい、修一郎は亡くなった。その火事でアルバムなども焼けてしまい、兄の写真は一枚も残っていないので本当に嬉しいと佳代さんは喜んだ。最初に見つけた以外にも数枚の写真が見つかって、それを渡したらとても大事そうに見ていた。
父親の顔を覚えていない子供(と言ってももういい大人だが)や孫に見せてあげたいと写真を見ながら優しく微笑む。
「写真は祖父の兄が撮ったようです。康平さんと言って、体が弱くて療養先で亡くなったそうですが」
写真の裏書を見ている佳代さんに教えると、佳代さんはじっとその文字を眺めて、ぽつりと言った。
「康平さん、覚えてます。何度か会ったことがあるのよ」
「そうだったんですか。僕は康平さんに似ていますか?」
「ええ。最初に見たときは驚いたわ」
佳代さんはうなずいてコーヒーを飲んでから、ためらうようにそっと言った。
「兄はね、どうやら好きな人がいたみたいなの。兄の結婚前の話よ」
「……はい」
「その人のために医者になりたかったようでね。待っててくれって言ったのに、約束を破って悪かったって言ったことがあるの」
僕は黙って佳代さんの話を聞いた。
「医者になってその人の病気を治したかったんでしょうね」
蚊帳の中で座っている修一郎の気持ちはどんなものだったんだろう。そして今、二階から何を思って玄関を見ているんだろう。
佳代さんの話を聞きながら、僕はそんなことを考えた。
「あなたがこれを見つけたのは、縁なのかもね」
佳代さんは僕にはわからないと思って話したのだろうけど、僕には修一郎がなぜうちに来たのかわかったような気がした。
帰り道の電車に揺られながら、僕はどうしようかと考えこんだ。
片づけをしていて康平になった夢を見た後、僕は押入れの奥から手紙が入った箱を見つけていた。康平が療養先で受け取った手紙の束で、親や兄弟からの手紙に混じって修一郎からの手紙が何通も入っていた。
修一郎は学業を断念して家業を継いだことを言えず、そのまま勉強を続けていると書いていた。療養中の康平に精神的ショックを与えたくなかったのかもしれないし、単に言いづらかったのかもしれない。
いずれにしても康平は修一郎が医者になると信じていたのだ。
今日聞いた話からすると、修一郎が火事で亡くなった二ヶ月後に康平は療養先で亡くなっている。だから修一郎は康平の死を知らないまま、ずっとここで待ち続けていたのだ。
康平が修一郎の死を知ったかどうかはっきりしないが、療養先にそんなことをわざわざ知らせると思えないから、知らないままだったんじゃないだろうか。
彼らは互いの死を知らずに、どこかで康平も修一郎を待ち続けているのかもしれない。
知らせてあげたほうがいいのか、知らせるにしてもその方法があるのか。
祖母の家に着いたのは夕方だった。
二階の部屋で修一郎は外を見ていたが、僕が入っていくと顔を向けた。
「あなたはここで康平さんを待ってたわけじゃなかったんだね」
彼は微笑んだ。
はっきり言葉が通じたのは初めてだ。
「康平さんに自分を待たないように伝えるために、約束を破ったことを謝るために待ってたんだね?」
いつか療養から帰ってくるはずの康平をずっと待っていたのだ。
約束を破って医者になれなかったこと、結婚したことを言えないままで亡くなり、それが心残りでここにいたのだろう。
「あのさ、康平さんはもう亡くなってるんだけど……」
彼に何をしてあげたらいいんだろう。
僕は迷いながら言ってみた。
「一緒にお墓参りに行く? あ、下の仏間に仏壇もあるけど」
そんなもので修一郎が納得するのかわからない。
彼は静かに首を横に振った。亡くなっていることはわかっていると言いたげに。
僕は困ってしまって、口を閉じた。
その時、ふっと意識がぶれた。
どこかに落ちるような目眩がして、ぐっと足を踏ん張った。
目眩は一瞬で消えて、目を開けると、修一郎が立っていた。
「もういいよ、修一郎」
僕の口は僕ではない人の言葉を話した。
「ごめん、ずっとここにいてくれてありがとう」
康平の意識が言ったことはわかった。修一郎はすっと立ち上がると側に来て僕を抱きしめた。
「いいよ。俺はただもう一度、康平に会いたかっただけなんだ」
「うん。僕も会いたかった」
「ああ。ごめんな、約束を守れなくて」
「もういいんだ。わかってるんだ。あの時の修一郎にはどうしようもなかったってこと」
康平がそう言って、ぽろぽろと涙をこぼした。
「長い間、こんなところに閉じこめてごめん」
「嘘をついた俺が悪い。それにここで待つのは悪くなかったし、この子が時々遊びにきてくれたから」
僕を見て修一郎は言う。
「康平によく似た子が大きくなるの、楽しみだったよ」
そう言いながら僕の髪をさらりと撫でる。
いや康平なのかな?
ん? 僕は誰だった?
何だか、考えていることがまとまらない。
「俺を気にしてくれて、ありがとう」
修一郎が僕を見てやさしく笑った。
ああ、この笑顔が本当に好きだったなあと胸の奥が痛むのを感じながら思った。
気がつくと二階の和室で本棚にもたれていた。
手にしているのは中原中也の詩集。
修一郎の写真が挟まっていた本だ。
本棚に戻して、うーんと伸びをした。
もうここに修一郎はいない。
康平とシンクロした僕は事情が理解できていた。
修一郎の結婚と事故死を療養先で知った康平は悲しんで、もし魂があるのなら僕を待っていろと強く願った。希望の願いではなく絶望の暗い呪いの願いだ。
それは康平に未練を残していた修一郎の魂を引き寄せ、この部屋に彼の魂を呼びこんだ。修一郎は康平の望み通り、この部屋でずっと待ち続けていたのだ。
康平が亡くなったあともずっと、長いあいだ。
ここで会えた二人がどうなったのか、それは僕にはわからない。どこかへ行ってしまったのだろう。行先はあの世か天国か……。
ともかく今、あの部屋に幽霊はいない。
片付けの終わった部屋はすっきりとして、もう修一郎の本も康平の持ち物もない。
祖母の“だんしゃり”は終わったのだ。
僕の話はこれでおしまい。
完
どうしてこんな話になったのかなあ?
夏っぽい怪談チックな話と思って、もっと切ない話を考えていたはずなのに、なんだかほのぼのwww
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