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【明治恋物語】一松

明治33年8月。  待てど待てど、一向に先生はやって来ない。  外着の服を身に纏(まと)い、家で待ち続けて数時間が経っていた。  遡ること、11ヶ月前。明治32年10月。  蚊帳はひと家庭に1つはある必需品だった。  白熱球が定番化したものの、先生曰く異国の発明家が、新たな発明『蛍光灯』を作ったらしい。  今後は白熱球ではなく蛍光灯だ! と自慢げに語る。  なお先生の中で白熱球は、衰退の1歩を辿っているみたいだ。  研究家である先生は、新しい物が好きだった。  現在は日本を離れ、遠い異国へ渡り住んでいる。日々研究に没頭しているらしい。  かつて、国が西洋を取り入れようと動いた。  当時の人々は、衣食住の違う異国に戸惑いを隠せなかった。そう聞かされた。  まあ、“ ある男性 ”だけが他の人々と違っていた。  その男性は元々異国で、短期滞在の経験があった。  だからか、既に西洋文化には馴染んでいたみたいだ。  逸早く散切り髪をした、と男性が言っていた。  他にも国の働きかけで、洋装を正装とし、異国を遠ざけてきた日本人が、次々へと理解し受け入れる。そういう時代。  今じゃ当たり前な西洋文化との生活。  でも、ひと昔の時期に好奇心一つでやってしまう男性。  その人物こそ、有作(ゆうさく)が慕う、先生こと舟國総一郎(ふねくに そういちろう)。  勉学や様々な研究、主な専門は機械や工業による商業との関係性だ。趣味の新たな発見、新しい物好きが幸をそうしたのか、脳内には膨大な情報が取り入れている。  そんな先生に勉学面などで、最もお世話になっている有作。教え子と先生の立ち位置。熱心で教え方が上手く、とても尊敬する男性だ。  毎年8月になると、先生は母国である日本へ帰ってくる。  嬉しい反面、先生に振り回される月でもある。  元を辿れば、有作が原因だったりもした。  長い間、国同士が離れた場所で文通を交わしていた。そのやり取りの中で、最近の出来事として、話題になっている物を書いた事があった。  何故か先生は、その文通の内容を覚えていたらしく、帰宅日に有作を連れ出して話題になった物を観に行った。  予想だにしない出来事が、有作は嫌いじゃなかった。  去年の12月に『西郷隆盛銅像』が上野に建てられた。  その時は銅像の前で、西郷隆盛についての話を先生が熱論していた。先生と有作を見つめる周りの視線が恥ずかしかった。  そうして、また今年の10月には浅草で水族館という物が開館する。  もし8月に開館されていたら、先生と水族館に行けたのに。来年まで追わずけなのは、つまらない。  きっと水族館の件と有作の想いも一緒に先生へと伝えたら、と考えてしまう。  つい考え事で気を取られてしまい、勝手に自分の握った筆が、紙に書き出しそうとしていた。  慌てて、意識を戻すけれど先生の想いが文章に溢れている。  顔を赤らめて紙を丸め、ポイッとカゴに入れた。  気を取り直し、新しい紙に書く。  水族館の件で先生がどんな表情をするか想像をしながら、文通の中に書き留めた。次いでに、今の近況報告も書いて便箋を送る。  用事を終え、便箋を出しに行った。  よし、と満足げに家へ帰る。  案の定、先生なら『有難う御座います、来年の8月に見に行きましょう!』と言う筈。  もっと言うならば、手を両手にあげたまま走り、転ぶ姿が目に浮かぶ。  再び、明治33年8月。  そんな昔の記憶を辿りながら、有作は外着から寝間着に着替えた。  着慣れない西洋服だった為、着慣れた半袖の着物に変えたのだ。  もし先生が来たら、また着替えればいい。にしてもやはり和服は落ち着く。  寝る時に使う着物だけれど、通気性の良さと動きやすさで、日中も着ている。  彩度を落として緑色を整える半袖の着物。上下に合わせた色合いで、着物の腕の部分は太い糸で止めている。  左右を見渡しても、畳で敷き詰めた空間。寝る時に使う蚊帳を取り付けている。  蚊帳のお陰で蚊などの虫除けになり、とても寝やすい。  他の部屋から紙巻き煙草と灰皿、マッチ箱を持ってきた。  それらを手で持ったまま、蚊帳の中へと入る。  誰も居ない家で、有作が1人。  布団の上に座ると両足を曲げた。  マッチ箱からマッチ棒を1本だけ取り出し、側面のやすりに擦り付ける。  ボッとマッチ棒に火が付くと紙巻き煙草に当てた。火が移るとマッチ棒の方は上下に揺らして火を消す。  使い終わったら、灰皿に入れた。  すぅーと煙草を吸い、ふぅーと息を吐く。  何度も煙草の味を楽しむけれど腹は素直だった。 「腹減った。カツレツ~!」  ああー! と目を閉じて声を上げる。  必死に煙草で空腹を満たすつもりで我慢をしてみた。  残念ながら腹の虫が鳴る。煙草の空気じゃ限界みたいだ。  口走った“ カツレツ ”という食べ物も先生から教わった、異国の言葉だ。 「有作、“ カツレツ ”って知っていますか?」  何時ぞや、家のちゃぶ台でお茶を飲んでいる時に先生からこう質問された。 「何ですか? それ」  聞いたこともない言葉に戸惑った。有作が分からないと、先生は大体の確率で異国の話をする。 「薄い肉を衣に付けて揚げる料理なんですよ。英国で食べたことがあります」 「肉料理ですか。牛鍋はありますが、あの高級な天ぷらみたいですね」  先生の話に耳を傾けて、見た事も嗅いだ事もない料理を想像した。  油を使う料理は高価で中々、お目にかかる物じゃなかった。  なのに肉を油で揚げるって、そのお店は高級店なんだろうか。 「はい。日本に上陸したら、一緒に食べに行きましょうね」  え? と言いかけそうになった。  異国から流れる料理なら、まだまだ日本に来るのは先の話だろう。天ぷらと同様に高級店ならば、値段を見て気が遠くなりそうだ。 「はい! 美味しそうなので喜んで」  でも、先生が言うのだから大丈夫。  そう信じて、先生の明るい表情を暗くさせないようにした。  のちに半信半疑で噂を聞いた。今年に銀座のお店で“ 豚肉のカツレツ ”があると。  だから先生と実際にお店があるのか、確かめようと決めた。  もし、お店があったら水族館の前にご飯を食べるという計画を練って、先生を喜ばす事だけを考えたのに。 「あ、雨だ」  思い出に浸りながら、煙草の灰を灰皿に軽く落とす。  段々と外が暗くなったのを知ったのは、雨音が聞こえてきたからだ。屋根に当たる雨の水滴。  布団に手を付いて反動で立ち上がり、白熱球で部屋に明かりを灯した。  外が気になり、側柱の外にある外縁へ歩き始める。外縁から外を見る限り、まだ小降りだった。  少ない雨が降り落ちながら、ある事を心配し出した。  雨が降ると道はぬかるみの泥だらけで歩きづらい。  先生なら、雨以外のも服に付けて帰って来そうだ。  全く僕が居ないと駄目なんだから・・・・・・。  有作は先生がほっとけない。ドジな部分があるのを知っているからだ。  すぐに白熱球を消す。  寝間着の状態などお構いなしに、玄関に置かれている傘を持ち、外へ出た。  傘を差し、玄関先の道に飛び出す。  少しずつ雨の降る量が多くなった気がする。小走りで駆け出し、先生が通り道にしている道を辿る。  先生、先生・・・・・・。  体力に自信がまるでない有作は、降る雨の冷たさに体温が奪われる。視界が遮られ、体力の無さで息を切らす。 「はぁ、はぁ。先生、どこ」  家から数十メートルほど離れた場所まで来た。  手で拭っても、汗が大量に出る。背中が汗と雨で濡れ、一周回って涼しさを知る。  左右、前後、すれ違う人々を見る。  けれど先生と思える人は現れない。  何時もなら、『ただいま』からの『お帰り』で会える。  いくら何でも遅いのは分かっていた。だからこそ、やはり先生は居ないって思いたくなかった。  ゆったりとした足取りで帰る。  通った道を戻ると存在しなかった、水たまりが何個も出来ていた。  裸足で出てきた訳じゃないのに足は泥だらけだ。  先生、雨の日は誰でも泥で汚れてしまうね。忘れていたよ、ごめんね。  想いながら傘を閉じて玄関に入る。泥だらけの足を拭いた。  そのまま部屋に戻ろうとした。  律儀に白熱球を消したから、家全体が暗い。  取り敢えず、彷徨い歩くと玄関の隣にある、台所まで到達したのを知った。  台所でまたしても、何も食べてない事を思い出す。  空腹で差し伸ばした先は、和菓子の箱だった。  洗い場の隣に置かれている和菓子。  それは先生に会って渡す筈だった物だ。  何時も先生が和菓子を美味しそうに頬張る姿が思い浮かぶ。  駄目だって分かっている。  心は素直で、欲求のままに箱を開けた。袋に包まれた和菓子を1個、手に取る。  つるつるの和菓子を口に入れてみる。  もちもちとした食感に、甘いこし餡が舌で感じた。 「あ、これ、結構美味い」  有作は和菓子を美味しく平らげた。 END

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