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第9話 翡翠君の自覚
ワンルームは清潔だが、収納があまりなく少々狭い。翡翠の住んでいる白夜荘というアパートは新築5階建てで、内装も外装もまだ新しい。トイレとバスルームが別なのに何故だか家賃の安いそこは、学生に人気のアパートで、翡翠はたまたま残り一室に入り込めた。
撮影用に買ったもこもこのミニカーペット、清潔そうな白いシーツの敷かれたベッド。コートハンガーの女性物の服。女性物の下着。テーブルの上の大量のコスメ。
そんな部屋で、翡翠はベッドにもたれて、クマのぬいぐるみを抱いていた。上の空で天井を見上げている彼の脳内には、白斗のことが浮かんでいる。
「なりたい自分になろうとした彼女を尊敬しています」
そんなことは言っていなかったが、要するにそういう意味のことを、ヘドロちゃんを見つめながら言っていた。その瞳は輝いていて、翡翠は目を離せなくなった。ボクが、ヘドロちゃんがこの人を夢中にさせているんだと認識して、なんとも言いがたい複雑な気持ちになった。
ボクはそんな大層なことはしてない。翡翠は思う。現実から逃げたかっただけだ。何の価値もない自分からの逃避。架空のアイドルのコスプレ。その為に人にバレてはいけない秘密をたくさん作った。
翡翠には友達と言える人間が一人もいないが、仮にいたとしても、誰もこのワンルームに招き入れることはできないだろう。数多の女性物の服や下着、部屋の小物まで撮影の為に女性物が多い。空き巣が入ったって、ここが男の部屋だとは思わないだろう。
なりたい自分になろうと努力することは素晴らしいと白斗は言っていた。本当にそうだろうか。どうしようもない自分ではない自分になろうとすることは、悪いことではないのだろうか。翡翠は鏡を見ながら考える。今、写っているのは、ありのままの翡翠だ。自信の無さげな、不安そうな顔をした、暗そうな青年だ。
それは決して、白斗が見つめていたアイドルではない。
「アイドルの事をあんなに深く考えて、愛してる素晴らしい人なのに……そんな白斗さんを騙してるボクは……本当にダメな奴だ……」
翡翠は深いため息を吐く。白斗がヘドロちゃんを好きだとわかってから、SNSの更新にも気を遣っている。バレないように日々のネタを綴るのはなかなか苦労したが、それでも白斗をガッカリさせたくない一心で続けていた。しかし、それ自体が白斗を裏切っているような気がして、翡翠はどうしていいかわからない日々を送っている。
ぎゅう、とぬいぐるみを抱く。くまさんは翡翠をいじめたり裏切ったりはしないが、してくれるのはトイレの紙を切らす呪いをかけることぐらいで、翡翠を助けてもくれない。
白斗さんともっと違う出会い方をしていたら、と思う。ただの友達として出会えていたらどれほど幸せだったろう。尤も、白斗が翡翠を友達として認識しているかは今でもよくわからないが。
「くまさん……白斗さん、ボクがヘドロちゃんだって知ったら、怒るかなあ……」
翡翠には相談する相手がいない。頼れる人もいない。くまさんは笑顔を浮かべて抱かれているだけだ。
期待に応えられないと両親に怒鳴られた記憶や、兄の琥珀に裏切られた記憶が蘇ってきて、翡翠はブンブン頭を振った。
「ううん、白斗さんは素晴らしい人だから、きっと怒ったりはしない……、ガッカリは、させちゃうかもしれないけど……でも……」
もしかしかたら、もしかしたら。
ヘドロちゃんだと知らなくても、自分を助けてくれたのだから、翡翠自身を見てくれるかもしれない。
むしろ、見てほしい。
翡翠は白斗の笑顔を思い出して、胸が高鳴るのを感じた。あの切れ長の眼差しを向けられると、胸がドキドキする。この人に愛されたいと思ってしまう。同時に、この人に嫌われたら生きていけないと怖くなる。白斗さんに好きになってもらえたらどれだけ幸せだろうと夢想する。一緒にご飯を食べたり、出かけたりしたい。一緒にいたい。
胸がきゅっと締め付けられるように痛む。またぎゅうとくまさんを抱きしめて、それから、翡翠は呟いた。
「ボクは……白斗さんが好きだ……」
友情も知らない翡翠には、それがどういう気持ちなのかわかりかねた。けれど、恋にとても近いということは、なんとなくわかった。
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