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第11話 告白

 翡翠はコンビニまで行って、スポーツドリンクを買い、それから俯いて自宅に帰って来た。  急に買い物に飛び出して誤魔化したものの、どうにも気恥ずかしくて仕方ない。人生で褒められることなどほとんどなかった翡翠には、大好きな白斗から向けられる言葉は刺激が強すぎた。真っ赤になった熱い頰に手を当てて、心を落ち着かせながら、とぼとぼとアパートに戻る。 「おかえりなさい、翡翠ちゃん」  アパートの入り口で、大家が朝の掃き掃除をしていた。ゆるくカールした長い髪を赤く染めた、色っぽくて優しい顔をしたオネェさんがここの大家だ。白くて細い華奢な体も、優しい声音も、仕草も何もかも女性のようなのに、大家は男だと知ってからも、毎回ドギマギする。翡翠が密かに憧れている相手の一人だ。彼はメイクもろくにしていないのに、女性に見える。肌が綺麗で、仕草が色っぽくて。そんな風になりたいと、ヘドロちゃんをしていて思ったりもする。もっとも、翡翠は女性になりたいわけではないから、なかなか話は複雑なのだが。  ただいま帰りました、と頭を下げて、自室まで戻る。一度深呼吸してから、玄関を開けて。 「白斗さん、飲み物買って来ました」  ワンルームに入り、ベッドを見たが、誰もいない。あれっ、と、トイレを開けても、バスルームを開けてもいない。慌てて玄関を見ると、靴がない。帰ったのだ、と考えて、それからはたと気づいてベッドに戻った。 「く、くまさん!」  クマのぬいぐるみがベッドで寝ていた。くまさんを見られた。それはもう、決定的だ。いつも抱いて寝ていると言ってSNSにも何度かアップしてしまっていたから、かなり決定的な証拠だ。翡翠は慌てて靴を履いて、部屋を飛び出した。  玄関まで行くと、大家が驚いた顔で翡翠を見た。 「あら、翡翠ちゃんどうしたの? そんなに慌てて」 「あ、あのあの、あの、えっと、すごい格好した人、見ませんでした? えっと、牛柄のパーカーにヒョウ柄のズボンを履いた人……」  白斗の服装を思い出しながら伝えると、「あぁ、あのすごい格好の人」と大家は頷いた。 「こんな子うちに住んでたかしら、と思って見ていたのよ。お友達? 随分青白い顔をして、あっちの方に行ったみたいよ」 「あ、ありがとうございます!」  大家が指差した方に、翡翠は駆け出した。運動は苦手で、大した速度は出なかったが、それでも走らないよりはマシだ。駅に向かう住宅街の道を駆け抜けて、何度か角を曲がった時に、その遠目でもわかる奇抜な服装をした姿が見えた。ハァハァと息を切らせながら、「白斗さん!」と名を呼び駆け寄ると、彼は死んだような顔をして翡翠を見ていた。 「し、白斗さん、あの、はぁ、はぁ、あの、」  何か喋ろうと思うのに、走ったせいで酸素が足りず、何も思いつかないし、息が切れて言葉にならない。ぜぇはぁと呼吸を整えている間に、白斗は翡翠と目合わせないまま「ヘドロちゃん」と呟いた。 「あなた、だったんですね……」  ああ、やっぱり気付かれてた。翡翠は慌てて、「あの」と口を開いた。 「黙っていて、ごめんなさい、ボク、騙そうと、思ってたわけではなくて、まさか、白斗さんが、ボクのことを好きだなんて思ってなくて、言い出すタイミングが、」 「違います……」 「えっ、」 「僕が好きなのは、ヘドロちゃんであって、翡翠君ではありません……」 「あっ……、……あの……」  バッサリと言い切られて、翡翠は背筋が冷たくなった。胸がドキドキいってうるさいのは、何も走ったからだけではないだろう。全身が冷えていくようで、倒れそうだ。白斗は目を合わせてくれない。死んだような目をして、どこかを見ている。  このままではダメだ。なんとかして気持ちを伝えないと。 「ぼ、ボクは、……ボクは、子供の頃から……じ、自信が無くて……変わりたくて……ヘドロちゃんになりきることで、変われて……だから、だから、……ヘドロちゃんはボクの、大切な、一部で、……ご、ごめんなさい、本当に、本当に騙すつもりなんて、」 「騙すつもりが無かったら、女装なんてしないんじゃないですか……? 違う自分になりたいなら、何も女になりきらなくたって……」 「そ、それは、その……」 「あんなセクシーな写真撮るのなら、それはもう、そのつもりだったからなんじゃないですか……?」  自分の撮ってきた下着の際どい写真を思い出して、翡翠は恥ずかしい気持ちになって、肩身が狭くなった。そうだ、アイドルになりたかっただけなら、女装する必要なんて無かった。それに、あんなことをすることもない。SNSでハートをもらえることが気持ちよかったのだ。脱げば脱ぐほどハートが増えたのは、閲覧者が女だと思っていたからだ。それをわかっていて、脱いだのだから、騙すつもりが無かったなど、言い訳にしかならないかもしれない。  どうしよう、どうしよう。  鼓動の音がうるさくて、頭が真っ白になる。手足がかたかた震えて、背筋が冷たくて、顔だけが熱くて、どうにかなりそうだ。どうしたらいいんだろう、どうしたら。ぐるぐるそればかり巡って、翡翠は落ち着きなく視線を動かした。ぎゅっと自分の手を握って、それでもなんとかして気持ちを伝えなければと、震える声を捻り出す。 「ボクは……ボクは、……し、白斗さんを、尊敬しています……」  だからなんだ、と一蹴されそうだったが、それでも、口に出してしまったものはもう取り返しがつかない。続けるしかなかった。 「ボクを、こんなボクを助けてくれたヒーローで……すごく素敵で……ボクは、そんな、白斗さんに嫌われたくなくて……ガッカリさせたくなくて……どうしていいかわからなくて……ご、ごめんなさい……でも、でもボク、ボクは、……し、白斗さんのことが、す、き、です……」  言うつもりのなかった事まで言ってしまった。翡翠は言ってしまってから泣きそうになった。どうしてこのタイミングでこんな事を言ってしまうのか。どう考えても今じゃない。絶対に。  白斗はしばらく無反応だった。その間が怖い。ぶるぶる震える手を握って、アスファルトばかりを見ていると、ポツリと白斗が言った。 「僕は、君が思ってるような、ヒーローなんかじゃありません……ただの、ヘタレなゲス野郎です……」 「白斗さん、」 「だから僕は、ヘドロちゃんが大好きです。翡翠君のことも、嫌いではありませんでした。ですが、……僕が好きなのは、こよなく愛しているのは、ヘドロちゃんであって、君ではありません……」  決定的だった。  愛されない自分を守るためにつけた仮面としてのヘドロちゃん。それが、白斗に愛された。結局翡翠は愛されないままだ。愛されたのは仮面だけ。  ポロポロと、熱いものが、眼から零れた。 「……ぼ、ボクは……」  アスファルトにポタリと涙が落ちて、染みになる。そればかり見て、翡翠ももう、白斗を見れなかった。 「ボクは、……変わりたかった、……ヘドロちゃんになって、そしたら幸せになれるような気がしてました、でも、……でも、」  ボクは今、自分がヘドロちゃんであったことを、とても、後悔しています。  堰を切ったように溢れ出した涙を拭いもせずに、翡翠は「ごめんなさい」と何度か繰り返して、それからとぼとぼと自宅への道を戻った。白斗は、追って来なかった。  ごめんなさい、ごめんなさい。ボクがバカだから、ボクはバカだから、だから、また間違えたんだ、愛されるはずなんて無かったのに、愛してもらえる気でいたんだ、愛されてるのはボクじゃなかったのに。  頭の中で言葉がグルグルして、涙が止まらない。いつの間にかアパートの入り口まで戻っていたらしい。「あら!」と大家が声を上げて、翡翠に駆け寄ってくる。 「どうしたの、翡翠ちゃん! 大丈夫? 喧嘩しちゃったの?」  心配そうに背中を撫でられて、翡翠はいよいよ抑えが効かなくなって、大家のそばにへたり込んで、子供のようにわんわん泣き始めた。そんな翡翠の背中を、大家は心配そうにずっと撫でてくれた。  ボクはバカだから、誰にも愛してもらえないし、大好きな人にも嫌われるようなことしかできないんだ。  胸が、ひどく痛くて、死んでしまいそうだった。

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