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第2話
大学から徒歩15分ほど離れたこのアパートが、僕の新しい住まいになる。母さんと父さんが決めてくれた部屋で、僕が実際に訪れるのは初めてだ。
4階建ての四角い建物の3階で、中には、部屋が続けて2つあった。手前側には冷蔵庫が、奥の部屋には、机やベッドなんかが既に整えられている。
机の上に鞄を置き、ベッドに座る。窓から見える景色は、これまでとはまるで異なるものだった。
「静か」
声に出してみる。思いの外、大きく響いて驚いた。
「勉強、しよ」
それでも、沈黙が耳に痛くて、さっきよりはボリュームを落として、わざと声に出してから身体を動かす。
鞄の中から、苦手な数学の参考書を取り出し、椅子に腰かけ、机に向かった。
みんな、頭がよさそうだった。負けないように頑張らないと、頑張らないと、どうなるんだっけ。
後ろを振り返る。そこには、誰もいなかった。
「勉強、しなきゃ」
参考書とノートを開き、淡々と問題を解いていく。気がつくと、部屋は真っ暗になっていた。そうか、明かりをつけないといけないんだ。
部屋の中を見回して、スイッチを捜す。壁際に発見したけど、操作をしても明かりがつかない。どうしたらいいんだろう。
喉が渇いたなと水道の蛇口を捻っても、水が出ない。冷蔵庫の中を開けても、何も入っていないし、冷たくもなかった。
「勉強、できない」
困っていると、玄関のドアが開いた。
そこには、ひょろりとした背の高い男の人が立っていた。廊下に明かりが灯っているおかげで、部屋の中まで少し明るくなって、ほっとする。
僕より少し年齢が上に見えた。きれいな男の人だ。目が、少し怖いかもしれない。
「あの、すいません。電気がつかなくて」
「……、ブレーカー、オフになってるんじゃないかな。電気も水道も、使用開始の手続き、されてないかもしれないよ」
「ブレーカー? 手続き?」
「多分、玄関とか台所とか洗面所あたりの上の方にあると思う」
男の人は、部屋の中に入って、きょろきょろと頭を動かし、「あった」と呟いた。男の人の立っているすぐ傍の壁に、四角い箱みたいなものがくっついていた。男の人は、その箱の蓋を開けると、黒いスイッチを動かした。
部屋に明かりがつくのと同時に、冷蔵庫も唸り始める。
よかった。これで勉強ができる。
「すいません。ありがとうございました」
「弓弦。これから、どうするんだ」
「これから、勉強をします。大学の勉強に置いていかれないようにしないと」
「そうじゃなくて、ご飯とか風呂とか。ガスも多分、使えないよ」
「ガス、って? ご飯、そういえば、どうしましょう。困りました」
「それに、薬はどうした? 持ってきてるのか」
「薬?」
男の人の言うことが、よくわからない。やっぱり、僕にはまだ知らないことがたくさんあるんだ。もっと勉強しないと、馬鹿にされる。母さんと父さんが、馬鹿にされる。
「僕、勉強、しないと」
「弓弦」
「母さんと父さんが、困る、から」
「弓弦」
「大学、僕の、新しい生活。僕、だけの」
入学式、みんな、母さんや父さんと一緒に来ていた。僕は1人だけだった。仕方がない。弟の中学校の入学式があるそうだから、2人ともそっちに行った。仕方がない。
大学に合格したのに、2人ともあまり喜んでくれなかった。仕方がない。『補欠入学』でぎりぎりだったそうだから。仕方がない。
「勉強、しないと」
「聞いて」
「僕、頑張らないと」
「もう十分だよ」
男の人は、奥に行こうとする僕の手首を捕まえた。生ぬるい。そういえば、母さん以外の人に触られたの、初めてかもしれない。
「お兄さんは、どうして僕の名前を知ってるんですか」
「おいで、弓弦」
「僕、勉強しないと」
「いいから」
お兄さんに引き寄せられ、抱きしめられる。お兄さんは、僕よりも、父さんよりも背が高そうだった。強く抱きしめられて、はじめは勉強しなきゃって抵抗したけど、だんだん、落ち着いてきた。
「お兄さん、なんだかいい香りがします」
「そうかな」
甘い、とかそういう言葉では言い表せない。ただ、どうしようもなく惹きつけられる、不思議な香りだ。
「遅くなってごめん」
「何が、ですか」
「ずっと、会いたかった」
「お兄さん、僕のこと知ってるんですか」
「ああ、知ってるよ」
「僕、わからない」
「いいよ」
僕は、その日、見知らぬお兄さんに攫われた。
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