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愚痴

 夕方にさしかかった時間帯に、俺は外回りを終えて事務作業もあらかた済ませてから、一息つこうと思ってオフィスから抜けだした。  休憩室の前の通路に、自販機とベンチが置かれたスペースがある。  目当てのそこには先客があった。  ふたつあるベンチのうちのひとつに、同期の営業の男と、課長が並んで座っている。  盗み聞きするつもりはないが、同期の声がよく通るせいで、近付くにつれて話し声が明瞭に聞こえてくる。 「──どうにも苦手なんすよね。他の営業には無関心って感じなんですけど、俺にだけ要求多いし、すぐ怒るし、しょっちゅう電話してくるし」 「それは期待されてるからだろ。あちらから何回も商談重ねてくれるほうが、こちらとしても有りがたいだろう」 「それは、本当そうなんすけど」 「興味がなかったり嫌われていたら、アポすらとれないぞ、あの人は。今が踏ん張り時だ、しっかりやれ」 「はい……。あ、すみません、つい愚痴を言ってしまって」  あー、そういえばこいつ、前にもそんなこと言ってたな、と思い出す。  仕事してると色々あるよな、本当。  わざわざ会話に入るのも、中断させるのも憚られて、俺は無言のまま一旦ふたりの横を通りすぎると、自販機で缶コーヒーを買って、少し離れたところにあるもうひとつのベンチに座る。  何でもない風を装うために業務用携帯のメールを確認した。 「……いや、大したことじゃない」 「本当にありがとうございます! では俺、まだ事務終わってないので、お先に失礼しますねっ」 「あぁ」  自然と、視線は携帯から課長に流れる。  彼にしては、珍しく柔らかい表情。  口許はそのままだけど、目が優しい。  この数日、俺にはあんな顔を見せてくれたことなかったのに。  同期の男は課長に深く頭をさげてから、忙しない様子で俺が来た方向へ足早に去っていった。  残された課長は、その背中を見送ったあとに小さくため息を漏らし、腕時計を一瞥する。  そして空になったのであろうコーヒーの缶をゴミ箱に捨ててから、こちらを一度も見ることなく立ち上がった。  そんなに距離は離れていないのに。  俺の存在に気付いてないわけがないのに、まるで最初から、見えてないみたいだ。  焦燥感、というのだろうか。  腹の奥のほうがむずむずと歯がゆい感覚になり、課長の後ろ姿へとっさに声をかけた。

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