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【あの飛行機雲に乗れたなら】itti
炎天下の校庭に大きな歓声が響き渡ると、僕はゆっくり身体を窓際に移動させた。
校舎の2階窓から見下ろせば、陽炎の様に揺らめく光の中央でサッカーボールを追いかける生徒たち。その中にひとりだけシャツの前ボタンを開け放し走る男子生徒が居た。
降り注ぐ太陽の光を浴びて、まるで羽を広げて羽ばたく蝶の様に右に左に駆け回る。
羨ましかった。ほんの三年前までは、僕もああやってボールを追いかけては膝をすりむいていたっけ。
フフッと笑ってまた自分の席に戻ると、壁に掛けられた時計を見る。
もうすぐ戻ってくるな。タオルとか持っているのか、アイツ。
「太陽っ!」
僕の名前を呼ぶから振り向くと、同級生の佐野がドアの入口に手を掛けて笑っていた。少し伸びた髪の先からは汗が光を受けて煌めいている。
佐野は、僕の幼馴染で、僕がこの学校に通えるようになった恩人でもある。
僕の脚は動かない。膝から下の神経は三年前の事故で傷ついてしまった。車椅子で高校に通うのは無理だと云われたが、この佐野が一緒に通うと云ってくれて、晴れて高校生になる事が出来た。
「見てくれた?」
目を輝かせて訊いて来る。さっきまで蝶の様に舞っていたのに、息も切らさずこうして僕の隣に来ると同じ目線になるようにしゃがみ込んだ。
「すごい歓声だったね。佐野がゴールを決めたら女子たちも悲鳴を上げて喜んでいたよ。」と、佐野を見て云えば、へへへっ、と目を細めて笑う。
「太陽の方が上手いのにな、サッカー。あんな事故さえなけりゃ、今頃太陽はサッカー選手になってたよ、きっと。」
そう云って僕の膝に手をやると優しく擦ってくれた。
「そうかな…….、サッカーは佐野の方が上手かったじゃん。ゴールを決めるのはいつも佐野だった。」僕が昔を思い出して云えば、「それは太陽がいい所にパスを出してくれるからだ。オレの行く先に必ずパスが来るって思えば、全速力で駆けて行けた。ドンピシャの位置でボールを蹴る事が出来たから…..。」
そこまで云って佐野は口をつぐんだ。過去の楽しかった思い出は、時に人を傷つける。僕の様に動かない脚を持った人間には、特にそうなのかもしれないと、きっと佐野は感じてしまったのだろう。
「ねえ、佐野はもうクラブチームでサッカーやらないの?」僕が訊くと、「ああ、」と云って頷いた。
僕は「そうか、」と、それ以上は訊かない。 どうして?と訊いたところで、その答えが分かっていたからだ。
佐野に甘えすぎているかもしれない。幼馴染という関係で、至極当然の様にカレの優しさを受け入れていた。僕には何のお返しも出来ないって云うのに….。
「佐野、ありがとう」そうお礼を云うと、キョトンと首をかしげて「何がだよー。オレ、何にもお礼を云われる事していないぞ。」と僕の膝をポンポンと叩いて笑う。
***
午後の授業とホームルームが終わり、カバンを取り出すと机の中の教科書を仕舞った。もうこの作業には慣れてしまい、特に車椅子だからという不便さは感じない。クラスの生徒たちは僕が通りやすいように通路を開けてくれるし、少し高い所のものは自然に手に取って渡してくれる。気を使われている感じではなくて、ごく自然にそういう流れになっていた。
だから僕は居心地が悪いと感じた事も無くて、こんな風に高校生活を過ごせるものだと思っていたんだ。
夏休みのある日、いつも行く親戚のおばさんの家に、今年は行かずに留守番をすると云った僕。 車で3時間もかかる田舎迄、僕を連れての旅行は大変だった。介助されればトイレにも行けるが、休暇中の混み合う高速道路の休憩所ではゆっくり車椅子を押しても行けない。自動車や人の間を縫って行くのは大変で、特に男性トイレでは個室が少ないから尚更。父さんには運転だけでも神経を使うのに、僕の世話までさせたら申し訳ないと、これまで3度の旅行で僕は学んだ。
今年は来年の受験を口実に、佐野と勉強を頑張るからと云って留守番を願い出たんだ。
「ホントに大丈夫かしら?…..お母さん心配だわ~。」と、見送る玄関先で僕の手を取るとギュウギュウ握りしめてくる。
「大丈夫だって。佐野のお母さんがご飯を用意してくれるし、ほんの3日間の事だろ?楽しんできてよ。」
「そうですよ、太陽の事はオレに任せて行って来て下さい。」
「そう?ならお願いしますね。お母さんにもよろしく言ってね?帰ってきたらお礼にあがるけど….。」という母を苦笑いで見送る僕と佐野。
全く、僕の事をいつまでも小さな子供の様に思っているんだから。
いつまでも母は車の窓から顔を出していたが、さすがに父に止められたんだろう。運転席に何かを云って直ぐに顔を戻した。
僕は、フフフッと声に出して笑ってしまう。それから隣にいる佐野の顔を下から見上げると、佐野もこちらに目をやって同じように笑った。
「さて、心配症のお母さんは無事におばさんの家まで行けるかな?車の中で父さんと喧嘩なんてしなきゃいいけど。」と、一抹の不安を残しながら云うと、佐野が押してくれる車椅子で家の中に戻っていく。
「昼はサンドイッチを作ってくれたから、冷蔵庫から出して食べよう。」
僕がそう云ってキッチンへと行った。
「まだ昼までには時間があるぞ。どうする?本当に勉強する?」なんて佐野が云って、僕はおもわず「えー、」と眉を下げた。
もちろん本気で勉強をしなければいけないが、今はなんとなく開放感を味わいたくてついそんな顔を向けてしまった。
「仕方ないな。まあ、時間はあるんだ。勉強するのも遊ぶのも、太陽が決めればいいさ。」
「本当に佐野は僕の気持ちを分かってくれるよねぇ。やっぱり幼馴染だな。」
それは本当にそう思ったから口をついて出たんだ。他意はない。
けれど、一瞬だけ佐野の顔が曇った気がした。幼馴染という関係に甘えている僕を不愉快に思ったんだろうか…..。
「あのさ、DVDでも観る?この間お母さんが借りてきたのがあって、ヒーローものなんだけどさ。」と、その場の空気を変えたくてそう云うと、「イイネ、観ようか。」と佐野も微笑んだ。
ホッとした。僕は3日間、佐野に色々助けてもらわないといけない。気まずい雰囲気は避けたくて。
リビングのソファーに移る為、佐野が僕のパンツのベルトに手を掛けて抱きかかえるように自分の肩に僕の上半身を乗せる。学校のトイレに行くときにもこうしてやってくれて、最初は友人に冷やかされたりもした。
男同士で密着~、とか云って喜んでいる女子も居たけれど、佐野は見向きもせずに黙ってしてくれる。
並んでソファーに背中を預けると、リモコンを手に取った。
「あ、ポテチ。あれないと観てる気しなくない?」
「え?太陽って…….、」と、こちらを向くと何か言いたげだったが、僕が佐野の顔を見て笑ったから黙ってしまった。
「ま、そうだな。映画館ではポップコーンだもんな。此処じゃぁポテチか。…..あるの?」
佐野が仕方ないな、という顔で僕を見て訊く。
「ん~、実は無い。カロリーがなんちゃらって、お母さんが煩くてさ。」
僕が云えば「なら仕方ないな。買いに行く?」と佐野。
折角のDVD鑑賞にポテチが無いなんて…..。そう思った僕は、「イイネ、行こうか。すぐそこにコンビニあるし、道も平坦だから車椅子で行ける。佐野、一緒に行ってくれる?」と訊いた。
「もちろん、オレが押してく。」
「いや、押さなくても大丈夫」そう云って取り敢えず身体だけは車椅子に乗せてもらおうと腕を上げるが、佐野は僕の前に立ったまま屈んでくれない。
「ぇっと、…….」
暫く睨み合いみたいになるが、「はい、どうぞ。」というと屈んで移動させてくれた。
なんだろう、今日の佐野は機嫌がいいのか悪いのか分からないや。
車椅子で行く僕の後ろに佐野が付いて来ると、なんか背中に視線を感じてくすぐったかった。こんなに見られている事を意識したことがない。きっと僕を心配している。小さな石ころに躓かないか、陥没している道にはまらないかと、注意しながら見てくれているんだろうな。
そうこうしているうちにコンビニに着いた。
お目当てのポテチは手が届く位置にあったから、僕はそれを膝に乗せると佐野を見る。
佐野は、…….佐野は雑誌の置いてあるところを目で追うと、俯いて自分の額を擦り出した。
なんだろう、欲しい雑誌でもあるんだろうか。
近づいて、「何か雑誌も買う?欲しいのあったら…..。」と僕が声を掛けるが、「いや、無いない!欲しいのなんか無いよ!」そう云って僕の車椅子の向きを変えた。
なんか変。そう思いながらもレジを済ませて家までの道を急ぐ。
***
お母さんが借りて来たDVDは確かに面白そうで、ポテチを膝に乗せて背中をソファーに預けて観始めるが、初めのうちは別の映画の予告が流れてくる。
直ぐに早送りするのもなんだしと、袋を開けてポテチを口に放り込んだ僕。
まだ本編に入らなくて、リモコンに手を伸ばした時だった。画面の中で急に男女の絡みシーンが…..。僕の手は止まった。なんか、ここで変えてしまうのは恥ずかしいっていうか。
こんなのどうって事ないさ。といった顔ですまして観ないと、自分の子供加減がバレてしまう。
画面の中でキスを重ねる恋人たち。すごく綺麗で、いやらしさはなかったのに、目を伏せてしまった。今まで一度も彼女なんていなかったし、こんな脚になって更にそういう考えは無くなった。漠然とした独身生活をイメージ出来ても、こんな風に女性と付き合えるなんて思えなくて。
「キス、……長いな。….これなんて題名だっけ?」と云って佐野は少し早送りをする。
僕は無言でそれを聞き流すと、やっと次のところで本編が始まり出してホッとした。
高校2年生と云えば、周りは何組かのカップルが出来ていて、男女共学の僕らのクラスにも付き合っている人たちはいた。でも、僕はそんな会話に参加した事もなく、そういえば佐野は、僕に付き合って一緒に行動しているから、多分彼女はいないと思う。
DVDを観ながらも、時折そんな事が頭をよぎり集中できなくて、あっという間に2時間が経ってしまった。
昼ごはんも晩御飯も難なく過ぎると、いよいよ風呂の準備。僕は膝から下が動かなくて踏ん張れないが、浴室用の介護椅子に座ってしまえば自分で身体を洗える。頭だって。
「あのさ、一応パンツだけになった僕を中の椅子に座らせてくれる?そしたら後はひとりでなんとか。」
「うん、いいよ。」
佐野は云った通りに僕を風呂場の椅子に座らせた。それから出て行くと「終わったら声かけて。」と聞こえる様に云う。
いつもの様にシャワーを済ませると、僕は自分で下着を脱いだ。腿を持ち上げて下着を抜き取ると少しぎこちないが身体を洗う事が出来る。 終わった僕は「佐野、終わったよ。」と云って声をかけると一応前だけは隠した。
佐野は普通に入って来ると、バスタオルで僕の背中や頭をゴシゴシと拭く。それから僕の腰にタオルを巻き付けたまま上体を肩に担いで洗面所の車椅子に移すと、リビングに連れて行ってくれた。
幼馴染みで兄弟の様に傍にいた佐野は、僕のこんな姿を見てもきっと驚きはしない。そう思うから僕も自然でいられる。
「佐野も入っておいでよ。」と云うと、「うん、」と頷きリビングを後にした。
やっぱり男の力は凄いな。お母さんはふうふう言って一苦労しながら僕を椅子に座らせる。
そう思ったら申し訳なくて。せめて片方の脚だけなら良かったのに….。ちょっとだけ悔やんでしまった僕だった。
佐野が風呂から出てくると、暑いからか上半身裸のまま下だけはハーフパンツを穿いていた。
「じゃあ、寝ますか?!」
「え、もう?!早過ぎじゃない?せっかく親が居ないのに。」そう云ったのは僕で。
佐野は「じゃあ、太陽の部屋でしゃべろうか。」と云って微笑んだ。
「うん、そうだな。TVは別にいいし、佐野が泊りに来るなんて何年ぶり?毎日喋ってるけど、なんか今日は変な感じ。ちょっと修学旅行っぽいよな。」
ウキウキした気分で云う僕に、ニコッと口角を上げる佐野だった。
僕の身体をベッドに移し、脚を持って横たわらせると、「オレも横になっていい?」と訊かれる。別に気にせず、僕は「うん、じゃあもう少し身体をずらす。」と云うと、もぞもぞと腰を動かした。が、布団に身体が沈んで動かない。
すると、佐野が僕の膝を抱えて背中に手を差し込み身体ごと持ち上げると奥へ移した。
ふと、顔が近づいて…..。どういう訳だか、昼間観た映画の予告が目の前にチラついた。
お姫様の様に横抱きされていた女の子。それから、男女のキス。
今までこんなに誰かの顔と近づくなんて経験はなかった。僕の胸が急にドキドキと鼓動を早める。何なんだ?!
僕が自分の気持ちに戸惑っていると、佐野はその手を身体から抜く事もせずじっと固まっていた。 急に部屋の空気が変わった様な気がする。
さっきまでの、修学旅行のようなウキウキ感は無くなって、今はドキドキ感がハンパない。
「あ、……っと、…」声を出そうとする僕に、「聞いて欲しい事があるんだ。」そう云って佐野が僕の腹に顔を伏せた。
「え?…..」
訊き返そうとする僕の言葉を遮るように、佐野はそのままの格好で話し始める。
「太陽の脚がこうなったのは、オレのせいだ。」
「……………..え?………..僕の脚?いやいや、コレはトラックが、」
「オレがボールを蹴ったから。…..太陽にゴールを決めさせたくて、あの場所にボールを蹴った。それで、追いかけて走って行った太陽は横転したトラックに…..」
佐野の声は震えていた。広場でサッカーをして遊んでいた僕にパスをくれた。それは僕にゴールを決めさせる為。いつもは僕が佐野にパスを出していたから、ゴールを決める事が出来ない僕への優しさ。
「佐野、……そんな事、アレは事故だったんだ。トラックが突っ込んでくるなんて思いもしないよ。佐野がくれたパスで、僕はゴール出来たかもしれないけど、だからと言って佐野が謝る事ないよ。気にしないで。」
本当にそう思った。あの場所にパスを出されて、僕は思い切り駆けだした。佐野のパスでゴールを決める!って、本気で思って走ったんだ。
「佐野、……佐野。顔を上げてよ。そんなところに顔くっつけられてたらくすぐったいし、なんか…..。」
こんなに近寄られて密着されたら変な気分になる。
でも、それは云えない。佐野に悪いから。僕なんかがこんな近くに居たら、佐野は彼女とああいう事出来ないかも。僕は邪魔だよな…..。
「なんか、変な気になる?」
「え?…..僕は別に、」「オレはなるよ。もうなってる。本当はずっと前から変なんだよ、オレは。」そう云って顔をあげるとこちらを見た。
目が合って、初めてこんな顔の佐野を見た気がして怖くなった。
「変って、………..」
「太陽っ、オレ…………」
云うが早いか、佐野の顔が間近に迫ってくると両肩を押さえつけられる。
視線が痛い程絡みつく。咄嗟に佐野にくちびるを覆われて目を閉じた。
熱い体温がくちびるを通して伝わってくる。でも、目を開けるのは怖くてじっとしていた。その内、僕のランニングシャツをめくり上げると、佐野はそのまま汗ばんだ掌を腹に押し付けてきた。
「さ、佐野…..僕、男だよ。」「分かってるよ、そんな事。だからオレ、変だって云ってるだろ?!」佐野が何をしたいのか、咄嗟に分かってしまった。
上に乗られて身動きがとれなくて、僕は両手が使えるのに佐野の身体を押しのけることが出来ない。それは力が無いからか。…..いや、違う。僕の中にもきっと佐野と同じ気持ちが宿っていたんだ。それが分かって怖くなった。
「太陽、ごめんな、ごめんな。こんな事してゴメン。でも、好きだから….太陽が欲しい。」
そう云われたら、僕は何も云えない。好きだと云われて嬉しいし、恋愛経験も無い僕が佐野にしてあげられる事は無い。この脚じゃ、…….。
佐野は半ば強引に僕の下着を剥ぎ取ると、同じ男のものを自分のものと一緒に扱きだす。僕はもうされるがまま。でも、拒んだりはしなかった。ただ、痛みと共に感じる佐野の体温が心地よくて、生きている事を実感できた。
***
目が覚めると、辺りがぼんやりと翳んで見える。
気付けばちゃんとTシャツも着ていたし下着も穿いていた。
でも、佐野の姿が見えなくて不安になった。
「佐野っ!!」と、大きな声で叫んでみる。と、カチャリとドアが開き佐野が顔を出した。
「ぁ、」目が合うと、恥ずかしくなって顔を背ける。
「飯、出来てるから。」そう云うと僕を抱き起した。そして車椅子に乗せるのかと思ったら、そのまま子供を抱っこするみたいに僕を抱えて部屋を出る。
本当はものすごく恥ずかしい。でも、こうやって甘えるみたいに佐野に身体を預けるのも心地よかった。
それから僕らは、一緒にいる間中互いの身体を触り合った。僕の目と口元にあるホクロを指でなぞり、そっとそこにキスをくれる。指で目や鼻や唇の形を確かめると、愛おしさが増した。
窓から見える青い空には、一筋の矢のような雲が浮かんでいた。「あれって飛行機雲?あの雲は何処まで続いているんだろう。あれに乗れたら遠くまで行けるのかなぁ。」なんてポツリと呟く僕に、「きっと行けるよ。外国にだって。」と云って微笑む佐野だった。
時間が止まればいいのに、なんて事を思ってしまう程、3日間はあっという間に終わりを告げる。
母親がお土産を持って佐野の家に行ったのは、戻って来て2日後の事。
僕は佐野に感謝の言葉を伝えてもらえたか気になって、母が家に着くなり「どうだった?ちゃんとお礼言ってくれた?」と、身を乗り出して訊いた。
「うん、ちゃんと云ったわよ。本当に貴重な休みを頂いて、日本に居る時間も残り少ないっていうのに…..。支度が大変な時に、太陽のお守りなんか頼んで悪かったわ。でも、あちらのお母さんも亮介くんが喜んでいて良かったって云ってくれて。」
そこまで話を聞いて、僕は眉をひそめた。
「日本にいる時間?….え、佐野、どこかに行くの?」
「あら、聞いてなかったの?佐野君のところ、お父さんの転勤で外国に行かれるって。えーっと、カナダって云ってたわね。9月からあちらの学校だって。」
僕は耳がおかしくなった。まるで聞いた事の無い話をお母さんがしている。佐野と過ごした3日間は何だった?
車椅子で自分の部屋に入ると、直ぐにスマフォで電話を掛けた。
佐野はワンコールで出ると、僕の言いたい事がすべて分かっているかの様に、最初に「ごめん」と謝る。「ごめんて、何?なんで黙ってた?僕に何も知らせず行くつもりだったのか?」と、声を荒げてしまい、ぐっとシャツの襟をつかむと落ち着くために息を吐いた。
「云えなかったんだ。あんまり楽しくて、幸せで….。せめて3日間が過ぎるまではって、そう思ってたんだけど。結局云えなくてゴメン。」
佐野は声を落として辛そうに話す。
僕もそれは分かる。あの時云われていたら、天国から地獄に突き落とされたみたいに落ち込んでしまっただろう。今の様に…..。
「で、転勤って事はまた日本に戻ってくるんだよね。」
そう訊く僕に、「ああ、今はまだいつか分からないけど、でも、オレひとりでも戻ってくる。日本の大学に行ける様に親に頼むつもりだ。だから後一年と半分。それ迄待っててくれるか?」
佐野は今度は勢いのある声で云った。
「もちろん、僕はここに居る。佐野が帰ってくるの、待ってるから。」
「うん、…….」
電話の向こうで鼻をすする音が聞こえる。
僕も同じようにズズっとすすれば、涙が頬を伝った。けれど、これは悲しい涙とも違う。
いつの日か、そう遠くない日に佐野と再び会う事が出来る。それ迄の我慢の涙だ。もう涙は見せない。笑って送り出してあげたいと思った。
「飛行機に乗るんだよね?」
「え、勿論だろ。」
「あの日見た飛行機雲、まっすぐ何処かに向かって伸びていた。僕、夢の中であれに乗って佐野のところに会いに行くね。」
「……なんか、メルヘンチックな太陽って、…..」
そう云うと、鼻をすする音と一緒にフフフッと息が抜ける音も聞こえた。
「ちょっとー、僕の事バカにしただろ?」と拗ねて云えば、「いや、可愛いなって、感激したんだ。」という。
そして、「太陽、大好きだよ。」と、最後に照れた様な小さな声になると、「僕も、大好きだよ。」とかえした。今度会えた時、もっと大きな声で云えるように、僕の気持ちをあの飛行機雲に乗せて送りたい。
必ず届くはずだから………。
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