ジリジリと太陽が肌を焦がす炎天下。ビルの谷間のアスファルトには、ゆらゆらと陽炎(かげろう)が揺れている。俺は犬みたいに舌を覗かせて、ハッハッとパウンティングしながら、顎に滴る汗を手の甲で拭った。不快指数は異常に高く、自然、目付きは悪くなる。 　半袖シャツの背中にドラゴンを背負って、茶髪ロン毛の長身な俺と目が合ってしまった奴は、漏れなく全員がサッと目を逸らし道をあけてすれ違った。まあ、中身も外見(そとみ)もれっきとしたヤンキーだから、無理もない。 　ヤベェ……何か、クラクラする。頭も痛い。ひょっとしてコレって……熱中症とかいうヤツじゃねぇ？ 　でも熱中症なんかにかかるヤツは気合いが足りないんだと豪語していた手前、しばらく日陰を歩いて様子を見る。だけど一向に具合は良くならず、ついに俺は水を探して辺りに視線をさまよわせた。 　あ……確か、あの角を曲がった路地に、自販があった筈。重い身体を引きずるようにして、そこに辿り着いてポケットの中の小銭を漁った。 「何だよ、三千円かよ。しけてんな」 「じゃあ、ボクはこれで……」 「待てよ。お前、ハーフだろ。綺麗な顔してんな」 　路地の奥から、複数の下卑た笑い声がする。 「古いね。今はハーフじゃなくて、ダブルって言うんだよ」 　涼しい声音に、複数の男たちの怒声(どせい)が巻き起こった。 「何だと」 「自分の立場、分かってんのかよ。ケツ掘ってやるって言ってんだよ」 「分かってるけど」 「テメェ、舐めやがって！」 　――ドカッ。 　殴ったのか蹴ったのか、体重の乗った重い音がした。俺もヤンキーだったから、よく喧嘩してたけど、カツアゲやレイプはやらない。殆どタイマンや一対二だ。弱い奴を食い物にする連中は、我慢ならなかった。足元がフラつきながらも、路地の奥へ入る。こちらに背を向けた屈強な男たちが三人と、小柄で綺麗な顔立ちをした青年が見えた。 「何してやがる！」 　自分の大声が頭に響いてガンガンするけど、見過ごすことは出来なかった。 「何だ、テメェ。デカブツに用はねぇんだよ」 「お前ら……男なんて犯して楽しいのかよ。ヘッ。そのニキビ面じゃ、女に相手して貰えねぇか」 　目眩がする。それでもパンチを一発くり出したが、アッサリとかわされて強烈な右ストレートを食らう。 「ゴフッ」 　俺は熱中症とパンチで、呆気なく意識を失った……ブラックアウト。 　　　　*　　　　*　　　　* 　――ちゃぷ……。 　水の滴る音がする。雨？　朦朧とした意識の中、冷たい感触が額に触れて目が覚めた。 　何だっけ。喧嘩したよな。あ～、ボコボコかな……。 　覚悟して腕を上げたけど、痛みは全くなくて、逆に驚いた。 「あ、目が覚めた？」 「ん～……ん？」 　ぼうっと天井を見上げる視界に、さっきの綺麗な顔がカットインしてくる。 「大丈夫？　熱中症は引いたと思うんだけど」 　喋ろうとしたら、血の味がした。殴られて、口の中を切ったらしい。顎に近い頬の痛みに少し顔を歪めると、青年は額にあった涼(りょう)を頬に移動させた。どうやら、水で絞ったタオルらしい。 「お前は……大丈夫なのかよ」 　首を動かして青年を見ると、このクソ暑いのに長袖の青いパーカーを着て、衣服の乱れはなかった。ヤられてはいないらしい。 「大丈夫。ありがとう。龍樹(たつき)が大きな声出してくれたから、人が集まってきてアイツら、逃げてった」 「そうか……水、あるか？」 「あ、ごめん。喉乾いてるよね」 　そう言って青年は、小さな冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを出して蓋をひねった。 　何処だここ。生活感がないから、家じゃねぇな。どっかの……ラブホか、ビジホか。 　そんなことを思って見回してたら、不意に唇に水を感じた。喉がカラカラだったから、ゴクゴクと飲み干す。だが顔が離れていって、初めてその行為に気が付いた。 「おまっ……！」 「もっと要る？」 　青年は手の甲で唇を拭ってる。マウストゥマウスで、水を飲ませやがった！　俺は赤くなったり蒼くなったりしながら、喚いた。 「断りもなくキスするんじゃねぇよ！　しっ、しかも男……」 「キスじゃなくて、水飲ませただけだよ。断ったら、どうせ拒否るだろ」 「な……な……」 「言っとくけど、キスなんて挨拶だから。そんなに、キスが嫌？」 　俺はムスッとして黙り込んだ。ややあって、ポツリと呟く。 「……ガキの頃、変態親父に襲われかけたことがあんだよ……」 　その時の捻(ねじ)りこまれたヤニ臭い舌の感触は、いつまで経っても消えなくて。セックスは出来たけど、キスが心地いいと思ったことは一度もなかった。 「そっか……それ、幾つの時？」 「関係ねぇだろ」 　肘を突っ張って上半身を起こそうとしたが……情けないことに、起き上がれない。青年は顔の造作(ぞうさ)に似合わず生意気そうだった表情を、優しそうに微笑ませた。髪は黒だったけど、やや垂れ目がちな瞳は鮮烈な琥珀色(アンバー)が印象的だった。右の目の下と唇の下に、ほくろがある。 　目の下は涙ぼくろだけど、唇の下は何て言うんだっけか？　小さい頃は、スケベぼくろなんて呼んでたな。 「ね。起きるの、無理でしょ？　でも水飲まないと、楽にならないよ」 「う」 「キスが嫌なら、治療だと思って。それから、目を閉じて」 　小型犬の方が大型犬より気が強いなんてテレビで観たことがあったけど、二回り以上は華奢な青年にキッパリと言い置かれて、思わず俺は目を閉じた。コポコポ……という水音のあと、再び唇に柔らかい感触で水が触れる。 　何か……何だか、懐かしい味がした。瞳を閉じて繰り返し水を与えられる内に、何となくそれに酔ってしまいそうな自分に気付いて、慌てて青年の唇を掌で押さえて待ったをかける。 「ん？」 「もう、いい」 「そう」 　青年はケロリとして、ペットボトルの蓋を閉めた。 　お……俺としたことが。キスなんて好きな女でもしたくなかった筈なのに、会ったばかりの男に腰砕けにされちまうなんて。いや、腰砕けなのは熱中症のせいだけど、嫌だと思わなかったことに動揺してた。 「なあ、龍樹。ここ『ご休憩』で取っちゃったから、もうすぐ延長料が発生するんだけど、泊まりにしとく？」 　ふと違和感がわき上がった。 「何でお前、俺の名前知ってんだ？」 「パンツのゴムに書いてあったから。男兄弟多いのな」 「は？　パンツ？　何で……ふぎゃっ」 　驚きに、変な悲鳴が漏れる。布団をめくってみたら、俺はトランクス一枚だった。両脇と、まるでムスコを囲むかのように、足の付け根にビニール袋に入った氷が当てられてる。 「何だよコレ！」 　親は、変態親父に襲われてから男を恐がるようになった俺に、簡単な『変態の見分け方』を教えてくれた。ピアス……右ピアスだ！　よりにもよって、三つもしてる！ 「おい、俺はそういう趣味はねぇぞ」 　青年は、また好戦的な表情に戻って、右サイドの髪を細い指で耳にかけた。 「ああ……確かにボクはゲイだけど、誰でも良いって訳じゃない。それは、熱中症に効果的な位置に、氷嚢(ひょうのう)を当ててるだけ。君、酔っ払って倒れてた所を看病してくれた女の子に、「そういう趣味はない」っていきなり言う訳？」 　グッと言葉に詰まってしまった。確かに……それじゃまるで、ナルシストだ。気まずい沈黙が何秒かあって、謝ろうと口を開きかけた時、青年は不意に笑った。 「はは、ちょっと意地悪だったかな。謝らなくて良いよ。そういう扱いは慣れてるし、ただでさえ君は、トラウマがあるんだもんね。ごめんね」 　ペロッと小さく、ピンク色の舌を出す。俺は首を上げているのが辛くなって、枕を立てるように首の下に入れ込んだ。これで、無理なく顔を合わせて会話が出来る。 「……お前、名前は？」 「ビリーって呼んで」 　俺は、ぶっきらぼうに右手を差し出した。 「助けてくれてさんきゅ、ビリー」 　思いがけなく、ぱあっと笑顔が咲いて、力強く右手が握られた。 「どういたしまして。龍樹」 　結局俺がフラフラだから、ラブホの時間設定を『ご宿泊』にして、溶けた氷嚢を新しいものに変えるとビリーはアッサリ帰ると言った。 「割り勘で良いよね」 「いや。お前、三千円しか持ってねぇんだろ。帰れるのか？」 「ああ……」 　ビリーはおもむろにダメージジーンズの裾をまくり上げて、靴下の中から生の札を取り出した。 「何だそりゃ」 　呆れる俺に、ビリーは得意げに笑った。 「スラムじゃ、お金を小分けに持つのは常識だよ。財布には少額しか入れない」 「スラムで育ったのか？」 「うん。五歳の時からね。一ヶ月くらい前、日本に帰ってきたとこ」 「へぇ……日本じゃ平和ボケしちまうな」 　ビリーは白い歯を見せた。何となく気になって、ふと尋ねる。 「お前、幾つだ？」 「ボク？　ボクは二十一だよ」 「マジかよ。俺と一緒だ」 　俺はガタイがデカいのもあって、二十代後半に見られることが多かった。だけどビリーは少しも驚かず当然のように、名刺サイズの何かの店の地図を差し出す。 「ボク、二丁目の『アネモネ』って店によく居るから、何かあったら来て。ビリーって言えば分かるから」 「二丁目かよ……」 「ああ、別に会いに来てって訳じゃないから。気が向いたらで良いよ。じゃあ、俺バイトあるから」 「あっ、おい……」 　不思議と、ビリーとまだ話したかった。だけど動けない俺を残して、ビリーは割り勘したラブホ代をテーブルに置いて部屋を出ていった。 　　　　*　　　　*　　　　* 　二週間後。まさか俺が、二丁目に来ることになるとは思わなかった。ビリーがくれた地図を頼りに、お上(のぼ)りさんよろしくキョロキョロと辺りを見回す。さすが二丁目と言うべきか、パッと見、女が歩いてない。出来ることなら二丁目以外でビリーと会うことは出来ないかと、店に電話してみたけれど、個人情報は教えられない、の一点張りだった。 　ここだ。『Shot Bar ANEMONE』の電飾が、イメージよりは小ぶりで上品に光ってた。 　――カララン……。 　扉を開けると、涼し気なベルが鳴る。 「いらっしゃいませ」 　俺はそっちの知識が全くなく――敢えて避けてたというのもある――ゲイバーといえば、女装した男が接客してくれるものだとばかり思ってたが、ジャズの流れる静かな店内は、普通のバーと何ら変わらなかった。ちょっと拍子抜けしながら、カウンターの一番手前に座る。いつでも逃げ出せるように。 「ご注文は？」 　カウンター越しに、バーテンが声をかけてくる。 「ビリーって奴、来てるか？」 「お知り合いで？」 「ああ……まあ、そうだ」 「お客様のお名前を頂いても？」 　もっと砕けた感じかと思っていたが、三十前後の顎髭が渋いバーテンは、丁寧に訊いてきた。二丁目のイメージが、どんどん書きかえられてく。 「龍樹、って言えば分かると思う」 「少々お待ちください」 　そう言ってバーテンは、店の奥に消えた。手持ち無沙汰になった俺は、流れるジャズに耳を澄ませる。聴き覚えのある曲だ。 　何だったかな。俺が聴いたことのあるジャズなんて、限られてる。ああ……『Fly Me To The Moon』だ。『私を月まで連れてって』から始まって、『違う言葉で言えば、貴方を愛してる』で終わるラヴソング。 「隣、いい？」 　普通のバーみたいな気分になって、完全に気を抜いてた。肩に手が置かれ、撫でるように二の腕まで辿られる。ゾワッ。寒気がした。隣を見ると、返事を待たずに座ったのは、肩につくくらい長い黒髪の……男？　だよな？　だった。 「ねえ、今夜どう？」 　ゲッ。俺は言葉を失った。相手は小柄な少年なのに、変態親父のヤニ臭い舌が蘇って、フリーズしてしまう。 「ああ、ごめんね、ナッちゃん。そのひとは駄目なんだ」 　助けの神は、ビリーの声だった。再会して早々、また助けられることになるなんて。見上げるとカウンターの中に、バーテンのキッチリしたシャツを着て、ビリーは立ってた。登場が、意外過ぎる。 「何で駄目なの？　ハッテン場に来てるのに、何で？」 　少年は唇を尖らせる。 「俺はゲイじゃ……」 　言いかけた言葉を、ビリーが遮った。 「ボクの彼氏なんだ。迎えに来て貰ったの。外で待っててって言ったのに、ボクの顔が見たくて入って来ちゃったんだよね？」 　涙ぼくろのある右目だけが、瞬く。ああ、話を合わせろってか？ 「あ、ああ」 　固い声で、芝居は大根もいいとこだったが、ビリーがニコニコと笑顔で無言の圧力をかけると、少年は小さく舌打ちして離れていった。俺は息さえ殺してたから、思いっきり息を吐く。 「ゴメン、龍樹。ナッちゃん最近来るようになったお客で、見境がないんだよね。恐い思いさせて、ゴメンね」 「べ、別に恐くは……」 「嘘。顔が蒼いよ。そんなにトラウマだと思わなくて、二丁目に来させちゃってゴメン。用件は何？」 　俺もこんなに、男に性的対象に見られるのが恐いんだとは、気付いてなかった。ビリーは、観察力があって頭の回転が速い。見直しながら、シャツの胸ポケットから、二つ折りにした長封筒を取り出した。 「ああ……エアコン壊れちまって、買い換えたんだ。そしたら、阿呆みたいに商店街の福引き券貰ってよ。二十回以上ガラガラ回した結果、デイドリームランドの入場券と宿泊券が当たったから、お前にやろうと思って」 「へ？　ボク？　何で？」 　琥珀色(アンバー)の瞳をキョトンと見開きながらも、ビリーは手を動かす。グラスに氷と酒と赤い液体を注ぎ入れ、細々(こまごま)と手を加えてステアする。器用な奴だな、と思って見てた。 「助けてくれた、礼だよ。恋人とでも行ってこい」 「良いよ、お礼なんて。龍樹こそ、彼女と行けば良いじゃない」 「俺今、彼女居ねぇし。ダチはヤンキーばっかだから、デイドリームランドなんて興味ねぇし」 　スッと、俺の前に赤い液体が差し出された。氷とレモンが浮かんでる。 「ん？　何も頼んでねぇぞ？」 「ボクのおごり。好きでしょ、ブラッディマリー」 「え？　俺がブラッディマリー好きだって、何で分かった？」 　ビリーは、薄い胸を張る。 「これでも、プロのバーテンだからね」 「いや、プロでも分かんねぇだろ、フツー！」 「ふふ。内緒。呑んでみて」 　俺は視線をビリーと合わせたまま、無言でグラスに口をつける。 「ん」 「どう？」 「美味ぇ。コショウとタバスコが利いてんな」 「へえ。レシピまで知ってるんだね。やっぱり、好きなんだ」 　もうひと口含んでから、グラスをカウンターに置いて、封筒を奥に滑らせた。 「とにかく、用件はコレだ」 「お礼だなんて、マフィアが情に厚いのは、何処の国でも変わらないんだね」 「マフィアじゃねぇよ。ただのヤンキーだよ」 「う～ん……」 　ビリーはグラスを磨きながら、視線をやや上に泳がせた。そして、妙案を思い付いた顔をする。 「じゃあ、一個お願い聞いてくれる？」 「何だ？」 「ボクも今、彼氏居ないんだよね。日本に来たばっかりだから、親しい友だちも居ないし。一緒に行かない？」 「は？」 　そうくるとは、思わなかった。 「安心して。モーションかけてる訳じゃないから。今、日本で一番親しいのが、君なだけ」 　　　　*　　　　*　　　　* 　そうして、今に至る。初デートでデイドリームランドに行ったら別れる、という都市伝説がある。その真相は、アトラクションの待ち時間が長すぎて、話の種がなくなるからだ。でもビリーはくるくると表情を変えて、景色や小さな発見を喜んで、会話が途切れることはなかった。 　乗りたいと言ってたアトラクションを制覇して、今は機嫌良く鼻歌を歌ってる。ネイティブな英語だったが、メロディで俺にも分かった。 「『Fly Me To The Moon』？」 「うん。龍樹はボクを、月に連れてきてくれた」 「月？」 「デイドリームランド、また来たかったんだよね」 　また、ということは、ガキの頃に来たことがあるのか。だがビリーの明るい声に、そんな小さな疑問は吹き飛んでしまう。 「あ、飛行機雲！」 　彩雲のたなびく夕焼け空を、ビリーは見上げて指差してた。 「ボクのね。ジンクスなんだ」 「飛行機雲が？」 「うん。良いことがあるの」 　子どもみたいに無邪気に笑うビリーが、何だか弟のように可愛くて。俺はただ笑って、ツッコみたくなるのをこらえた。空港がすぐ近くだから、飛行機雲なんて腐るほど見られるってことを。 「あると良いな」 「え？」 「良いこと」 「うん！」 　最後の締めは、ナイトパレードだ。座って場所取りをしながら、ファストフードを頬張った。 「やっぱり、遊園地で食べるハンバーガーは、美味しいね」 　心底嬉しそうに言うビリーに、俺はちょっと噴き出す。 「ハンバーガーは、ハンバーガーだろ」 「そうだけど。デイドリームランドの中のものは、全部魔法がかかってるんだよ」 　『魔法』。その言葉が、何だか心に引っかかった。『魔法がかかってるんだよ』。そんな台詞を、いつか何処かで聞いた気がする。何だかモヤモヤする疑問をぶつけようと思ったら、ビリーが歓声を上げた。周りのカップルや家族連れも、あとに続く。ナイトパレードの先頭が、すぐそこに迫ってた。 　お伽噺(とぎばなし)のキャラクターたちが、カラフルな電飾に彩られて舞い踊る。ビリーは一人一人の名前を叫んで、手を振るのに忙しい。メインキャラクターではないダンサーたちにも手を振って、握手をして、ハイタッチをして、本当に忙しい。末の弟が十四だったが、それでもこんなにははしゃがない。弟というより、妹かな。俺は横目で眺めて密かに笑う。 　本当に、魔法がかかったような時間だった。ビリーのはしゃぎっぷりが可笑しくて、何度も笑った。つられて手も振った。喧嘩三昧だった毎日が、嘘みたいだ。一年分、笑ったような気がする。しましま猫のキャラクターが、紫の尻尾を振って去っていく。ナイトパレードは、そこで終わりだった。眩しかった視界が、急に寂しくなる。 　――ポンッ。 　と思ったら、夜空に華が咲いた。打ち上げ花火だ。乾いた音を立てて、次々に打ち上がる。綺麗だな、と言おうと見下ろして、ギョッとした。ビリーは、大粒の涙を、隠そうともせずにポロポロと流してた。 「ど、どうした？」 「……終わっちゃうんだな、って。魔法が、切れちゃうんだ。でも王子様が追いかけるのは、ガラスのハイヒールを履いた女の子だから、ボクにチャンスがくることはない……」 　ノイズが走ったみたいに、景色が、ビリーの泣き顔がブレる。そして、いつか見た景色とオーバーラップした。同じ場所、同じ表情で。ビリーではなく、幼い子どもが泣いてた。『魔法が、切れちゃう』。そう言って。 「……ニノくん？」 　我知らず言葉が口を割って、自分でもハッとした。遠い遠い、引き出しにしまわれて眠ってた記憶。だが、思い出したはずの記憶が邪魔をする。 　いや、そんな筈はねぇ。幼稚園で同じモモ組だったニノくんは、確かブロンドだった筈……。 　それでも隻を切ったように、記憶が流れ込んでくる。俺たちは、いつも一緒だった。親同士も仲が良くて、デイドリームランドにふた家族で来た時、ニノくんは泣いてたんだ。大丈夫？　と顔を覗き込んだら、チュッとキスされた。その時の、ふわりと漂った甘い香りさえ覚えてる。変態親父に襲われかける前の、淡い恋の記憶。 「……ビリー、フルネーム、教えてくれ」 　ビリーは一度俯いて、涙を零しきってしまうと、顔を上げて嘘みたいに晴れやかに微笑んだ。その表情に、鼓動が騒ぐ。でも困ったように眉尻が下がり、少しあってからビリーは言った。 「……ウィリアム。ウィリアム・マクミラン」 「二宮(にのみや)じゃねぇのか？」 　ガッカリしながら訊き返す。何故、ガッカリしているのか。自分でも分からないまま、懇願に近い声で再度訊く。 「幼稚園の頃、ニノって呼ばれてなかったか？」 　ビリーは再び俯いて、ゆっくりと首を左右に振った。分からない。それが否定してるのか、欧米人特有の感情表現なのか。 「それを知って、どうするの？」 　考える前に口に出た。先入観のない、正直な気持ちだった。 「分からない。だけど、二宮となら、もう一度キスしたい」 　ビリーは、黙って立ち上がった。オフィシャルホテルに向かって、歩き出す。花火はまだ上がっていて、俺たちに注目する奴は誰も居なかった。ポツリポツリと、ビリーが話し出す。 「スラムじゃ、人種差別は普通よりもっと酷いんだ。ボクはチビだし、喧嘩も卑怯な手を使わなけりゃ勝てないし、何より東洋人の血が入ってた。イエローモンキーのね」 　自虐的に笑うのが、さっきまでの笑顔とまるで違って痛々しい。だけど日本で生まれ育って、本当の人種差別がどんなものか知らない俺には、かける言葉が見付からない。 　ホテルのフロントについて、鍵を受け取る間、ビリーは無言だった。部屋は三階だった。お互い何か言おうかと何度か息を飲んだが、果たされないまま部屋に着く。ビリーがいつもの長袖のパーカーを脱ぎ落とすと、中のノースリーブは汗だくだった。 「何で、このクソ暑いのに長袖なんだ？」 　訊きたいことは山ほどある筈なのに、そんなクダラナイ質問をしてしまう。 「スラムまで、害虫の駆除は回らないからね。蚊に刺されて病気になって、病院代がないばっかりに死ぬ奴を何人か見てきた。お守りみたいなもんだよ。……先にシャワー浴びていい？」 　硬い表情でバスルームに向かおうとする手首を、俺は反射的に掴んで引き留めた。 「離して……」 「離さない。……俺はガキの頃から、トマトジュースが好物だった。ブラッディマリーを出したのは、そういうことなんだろ？」 「……日本に居た時は、母さんの姓を名乗ってた。ボクが五歳の時に、離婚したんだ……」 　ビリーは振り返らない。だから、どんな表情をしてるのかは分からない。でも、血を吐くような告白だった。 「……チビでイエローのボクがスラムでマシな生活を送るには、生まれ持ったこの女顔を使うしかなかった。小さい頃は金髪だったけど、大きくなって髪が黒くなったから、目立つようになってね。初めは無理やりだったけど、その内ボクは楽しむようになったんだ。愛情があるって、勘違いさえしてた。……スラムのボスの、オンナになったんだ……」 　ふと力が緩んだ瞬間、ビリーは俺の手を振り払った。ビリーが、行ってしまう。手の届かない所に。バスルームに入って扉を閉めようとするのに、隙間に手をかけて渾身の力でこじ開けた。本能の赴くまま、ビリーの華奢な身体を抱き締める。 「離して……！　ボクは、汚れてる……もう、龍樹に愛される資格なんてないんだ……」 　言葉とは裏腹に、俯いて俺の胸板に縋り付くようにして号泣する。俺は、ビリーをきつくきつく抱き締めた。 「お前は、汚れてなんかない。俺の初恋なんだ」 「その気がないなら、優しくしないで。辛くなるだけだから……んっ」 　やや乱暴にビリーの顎を掴んで、口付けてた。今まで感じてた嫌悪感は、これっぽっちも感じなかった。自分でも驚くほど情熱的に、吸って、食(は)んで、角度を変えて擦り合わせる。 　一分くらい応えてくれてたビリーだが、息継ぎの合間に拒絶が上がった。弱々しく、胸を押し返される。 「ん……や」 「嫌か？」 「シたく、なっちゃうから……」 　伏せられたビリーの瞼に、顔を傾けて口付けた。 「シようぜ。お前が俺に、キスは気持ちいいんだってことを教えてくれたように、セックスは愛情の塊だって教えてやる」 「やり方、知ってるの？」 「教えてくれよ。先生」 　冗談めかして言ったら、ようやくビリーが涙顔でクスリと笑った。 「ぁっ……んん」 　薄い胸筋をこねるように刺激すると、顎が上がる。それを捉えて、俺たちは再び、目くるめく口付けに溺れていった。カーテンを閉めてない大きな窓からは、眩しいくらいの月光が降り注ぐ。 　ああ……今夜は満月か。 『私を月まで連れてって』 『違う言葉で言えば、貴方を愛してる』 　頭の中ではジャジーな『Fly Me To The Moon』が流れてたが、やがて切なく押し殺したビリーの嬌声でかき消され、部屋いっぱいに満たされていった。 End.