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【蒼から鴇へ】紅と碧湖

炎天下の昼下がり、半日ほどの余裕を見てやって来た、いつもの町。  村というと住人が怒るので町と言ってはいるが、見た感じひなびた農村といった印象だ。  馴染みの家に車を置かせてもらい農道へ出て風景を撮っていた。しかし肌を焼く灼熱に耐えきれなくなり、車まで戻って山裾まで行き、木陰を求めて人里離れた山中へ足を踏み入れた。  森は鬱蒼として陽光は遠のいたが、さほど涼しいわけでも無く、すぐにむせるような緑の香りに包まれつつ、何度も通った獣道を進む。  喧しいほどの虫の声。踏み出す足が枝を踏む音に驚いて飛び出した小動物が一瞬で通り過ぎる。そこまではよく見る風景だ。  しかしその日、森は違う顔を見せていた。  蒸れた空中に細かい塵や小さな虫の群れ、水蒸気などが漂って薄い靄のようなものが産まれている。強烈な太陽が伸びた枝葉の狭間から光の筋となって靄を突き刺し、その眩しさに反比例するように樹幹には闇が落ちていた。  見慣れているはずの森。なのになぜか今日は、全く別の神秘的な世界のよう。  気づくとレンズを覗きシャッターを切っていた。  汗が襟元や背中を濡らしていることにも気づかずに、いつしか暑さすら忘れて、神が今だけ見せてくれる奇跡を写し撮る。  夢中になってシャッターを押し続けていた俺は、いきなり太陽光の元に放り出された。  眼が焼かれるような感覚に小さい呻きが漏れる。  進めばいずれ開けた高台に出ることは知っていた、はずなのだが失念していた自分に舌打ちしたい思いで眉を寄せつつ、それでも構え続けていたカメラの露出を調整すると、ファインダーに鮮やかな、しかし深い蒼が現れた。  蒼天。  世界は一瞬で青いフィルターを纏う。さっきまで神秘的な深い緑だった森は蒼を帯びた黒の額縁となる。  これだ、これだから面白い。  興奮と共に足を踏み出す。たった一歩進んだだけで額縁が消え去り空と大地が開ける。  ギラギラと太陽が照りつける空。青みの灰と蒼白の色付きを乗せた雲。大地を覆うのはエネルギッシュに恵を謳歌する深緑。強靭で無慈悲で、絶対的。まるで神の視点かのように。  シャッターを押し続けながらパンしていく。一様ではなく微妙に変化を見せる空の蒼。ミリ単位で表情を変える太陽。  夢中で露出を変えピントを弄り、刻々違う表情を見せる空を写し取って行く。  これはフィルムでも撮ってみた方が。それなら森の中も面白いかもしれない。そんなことが頭の隅に過ぎるが、カメラを下ろす気にはなれなかった。  切り取る画面に、スゥッと一筋の白が現れる。  飛行機雲か。こんなところに飛行機なんて飛んでないよな。いや、むしろこれは一瞬で消える奇跡かもしれない。  蒼を斜めに切り裂くような白が、徐々に薄まって行く。待ってくれ、まだそこにいてくれ。焦燥に焼かれそうになりながら雲を追った視界に、唐突に割り込んできた。  ────陽に透けたような、現実感のない────若い男。  太陽に向けて上げている手の指先が陽を受けて白く光り、肌はほの青く染まっていて、なぜか涼しげにすら見える。目を少し細めた横顔の瞳。妙な存在感。  風に遊ぶ明るい色の毛先。空を見上げる眼差しは届かぬ憧れを見つめる少年のよう。  本能でズームしていた。  レンズをのぞく習性を持つ者なら、誰もがそうするだろう。それほど際立つなにかが立ち上っていた。  するりとした肌に艶を帯びるほくろが目を惹く。  目尻近くとくちもと。口元のほくろは艶黒子といったか。泣き黒子は、たしか多情。良くも悪くも女を泣かす顔貌。  何者だろう。そう考えながら、ほう、と息を吐きだしてシャッターを押した、そのときまで呼吸は止まっていた。息を呑んでいた、というのが正しいか。生理的な欲求などどこかに飛んでいたのだろう。  一度動いた指はシャッターを押し続ける。音に気づいた少年の眼差しが動いた。顔がこちらに向く。  挑戦的な色を帯びて射貫く瞳。血の気の多そうな形に歪む唇。  生命感の無い儚げな少年が、一転して生気を纏った男になった。  それも全て写し撮ろうとシャッターを押し続ける。  いい目だ。  若さ故の傲慢に無垢な少年が見え隠れする。 「なに」  少し掠れた高い、ああ声もイイな。  彼が一歩踏み出した。 「動かないで」  シャッターを押し続けながら、夢中で声をかける。 「は?」 「その位置、」  光線の入りが良いんだ。奇跡的なほど。 「動かないで。あと少し……いや」  表情を強請る声をかけようとした瞬間、瞳が強い色を放つ。同時に口角が上がって薄い唇が笑みを形づくった。 「……やめてくんない?」  放心したようだった顔が一気に不敵になる。この表情。これだ。 「良いな……」 「やめろって言ってんだけど、イイ男過ぎて止まんねえか?」 「ああ、最高だ」  声を返しながらシャッターを切る。 「しゃれになんねーからマジでやめろって」  僅かにしかめた眉、目元とくちもとから笑みの気配が消えた。  決めた露出でズームバック。  首が長い。広すぎない肩幅。スラリとした手足。  飛行機雲の走る蒼天をバックに、さらに何枚か撮る。軽いジャケットにシャツ。山の中を歩くにはずいぶん洒落ている。暑くないのか、などと思いつつ俺はようやくカメラを下ろした。 「ありがとう。いい画が撮れた」 「なんなの? 俺やめろ、つったよな」 「いきなり悪かった。あまりにも奇跡的な……」 「ていうかデータカード寄越せ」  無表情に手を出され、ハッとした。 「タダで撮らせてやるかつーの、ふざけんな。つうか気合い入ってねー顔はNGなんだよ」  まずい。  人物を撮る時、一般人でも肖像権に気をつけるのは鉄則。まして…… 「君は……モデル、か?」 「だったらなんだっての」  ましてプロなら……。  暑さによらない汗がじわりと滲む。  この商売、肖像権侵害はマズイ。訴えられたら一発で干上がる。どうして思い及ばなかった? これだけのルックスだ。素人じゃないと、なぜ思わなかった?  ゴクリと空唾を飲み込み、冷えた光を放つ茶の瞳を見返す。 「……済まない」  喉に粘液が絡んだような声が出た。 「公表はしないから……」 「当たり前でしょ」  俺は写真しか無い人間だ。他にできることなんて無い。写真で食えなくなるような真似をすべきでは無い。 「かっ、……勝手に撮って済まなかった」 「今さら? ていうか改めて言うことかな」 「ギャラ払う、だから良ければ……」  これからも、そうだこれからも彼を撮りたい。  そんな希望を乗せた声に彼は眉を顰め、手を伸ばしたまま一歩踏み出した。 「は? なに言ってんの?」  少し掠れた高めの声が剣呑な響きを帯びた。 「カード。寄越して」  だがあの奇跡を収めた画は────────あの森、蒼天、そして彼……今日撮った……あれはどうしても持って帰る。そうしなければダメだ、あれを手放すなんて、諦めるなんて────無理だ、そんなことは 「いや、いや、だから個人的に持っていたいだけなんだ、絶対に公表しない。約束する。だからカードは……」 「はあ? 信用出来るわけないだろ」 「い、いや」  冷えた真っ直ぐな眼差しに気後れする。だが諦めるわけにいかない……!! 「……せめてプリント」  全てじっくり見直して、自分の手で仕上げたい! 「そ、そうだデータは渡す! それならいいだろ?」  だがそれが叶わないならせめて……! 「だからプリントしたい! あれを無かったことになどできないんだ!」  できればデータで持ち帰りたい。が……背に腹はかえられない……!!  縋るような気持ちで言った。 「プリントね」  だが彼の瞳は細まり、さらに冷え込んだ色をのぞかせる。 「それさあ、悪用しないって保証ないよな?」  確かに、そう思うのも当然だ。俺だってそう思う。 「俺の見て無いとこでこっそりプリントするとかさ? だって俺素人だし、そっちがなんかうまいことやっても分かんないかもしんないじゃん?」  無断で撮影、制止の声も無視してへらへら撮りまくる、そんな初対面の人間を信用するわけが無い。俺なら信用しない。  だが…… 「俺は何ヶ月もここに通ったんだ。この山にも何度も来て、何百枚撮ったか分からない。けど今日は……! 今日は最高の画が撮れたんだ! こんなのはもう二度と撮れない、そんな最高の……、だからどうしても……!」  諦めるなんて……絶対に無理だ! 「あれを全部手放すなんて! できない……絶対に!!」  彼の画も諦めたくない、だが 「君の写真は渡す! データ消去だってなんだって」  しかしそれが無理ならせめて! あの森の画を! あの蒼天を! 「だからそれ以外は……、頼む! プリントさせてくれ!!」 「んなこと言って、こっそり俺のデータとっとくとかすんだろ? 分かってンだよ」 「そんなことはしない! 疑うなら一緒に行こう。すぐそばで監視していてくれ、プリントしたらすぐカードを渡す。それならいいだろ?」 「……なんて顔してんだよ」  自分がどんな顔をしてたかなど分からない。  だが彼の目の圧が弱まった。眉を寄せたまま逸らせた横顔が、困ったようなふて腐れたような表情を浮かべていて、なぜか衝撃を受けた。放心していたあの顔とも、挑戦的な顔とも違う……ふっと息を吐きつつ、こめかみから流れる汗を手の腹で拭うと、彼も大袈裟なため息を吐き、 「……俺の写真以外ならいいか……」  気の抜けた声を出して、チラッとこちらを見た。 「あんた車で来た?」 「あ、ああ」 「んじゃ、さくっとプリントしちまうか」  脇をスッと抜けるように森へ足を踏み入れる彼は、だがすぐに足を止め眉寄せた顔だけこちらに向ける。 「ちょっと、何回も来てんだろ? 先に行けよ」 「……?」 「道分かんないんだって! 迷ってココに出ちゃったんだから!」  木漏れ日を受け睨んでくる彼は、酷く子供じみた表情をしていて、可愛らしく見えたのだった。  とはいえ現地は片田舎。そんなことが出来る店は無く、そんな設備のある家もない。車に乗り込んだ俺たちは、まず都心へと向けて走らせながら相談した。  途上に町はあるものの、いつも素通りしているだけなのでデジタルプリントができる店など心当たりは無い。探して見つかるか分からない。  なぜかその時スマホで検索など思い浮かばず、彼の手に大切なカメラを握られて焦っていた。正直、この期に及んでデータカードを渡したくないという思いは強まっている。だが迂闊にそれをくちにしたなら、彼は即座にデータカードを抜いて壊してしまうだろう。いや、カメラを壊してしまうかも知れない。俺に拒否権など無い。  しばらく進んで店を見つけることがこんなんだと思った俺は言っていた。 「いっそコンビニでやるか? 枚数あるから時間かかるけど」 「冗談じゃないよ。誰が来るか分からないトコで長時間なんて」  彼の拒否を受け、胸を撫で下ろした。正直、そこら辺でプリントするのは気が進まない。  できれば少しでも良い設備のあるところで、という欲があるのだ。  とはいえ彼に余計な疑いを抱かせたくはない。本来なら自宅が一番良いのだが、さすがにそれは無理だろう。馴染みの所へ持ち込んでも、見えないところで画を持ち帰ろうとしているのだと疑われたら……それこそ本末転倒だ。  ゆえに商店街らしきものを見つけては車を置き、店を探してウロウロした。が、そう簡単に見つかるものでもない。  あの画を諦めるわけには行かない、が、助手席で妙に弛緩している彼が不気味でもあった。なにをやり出すか分からない、ここで解放されたとして、名前や住所を抑えられたら……そうなったら彼は、いつでも俺を干上がらせることができるのだ。  だから彼を苛立たせるようなことは避けたい。だが早くこの状態から解放されたいとも思う。  正直焦っていた。 「もうさあ、諦めなよ。カード渡せばそれで終わるんだから」  そんな声が助手席から聞こえるからだ。 「イヤだ。絶対に諦めない」 「なんだってそんな頑張るんだよ」 「今諦めたら、絶対ダメな気がするんだ」 「なにそれ」  彼は呆れたように声を上げる。 「諦めちゃえって~、楽になるよ~?」 「いや。……もう二度と諦めない……二度と」 「あ~もうめんどくさいなアンタ」  チラッと目をやると、下唇を突き出した子供のような横顔が見え、思わずくちもとが緩んだ。 「……おまえいくつだ?」 「は? 関係ある?」  目をやると、子供じみた表情はそのまま、生気に満ちた目線をこちらに向けていた。 「あるさ」  敵わないな、と、自然に思えた。あの時光を浴びた彼女も、こんな目をしていた。 「お前くらいの頃、俺は諦めたんだよ」 「だからなに? 俺はアンタじゃない。分かってる?」  分かってる。彼のような輝くものを持った若者には分からないに違いない挫折。  あの時諦めずに、生活のために写真を撮るなんて選択をしなければ、今ごろ俺はどうなっていたんだろうと思うようになって、酷く後悔した。  が、そんな感傷などクソ食らえだ。 「俺は、生活のためにならない、金にならない写真を撮るんだ」 「は? 意味分かんない」  だろうな、と苦笑が滲む。 「もー意味分かんないから説明してよ。どうせ暇なんだし、聞いてあげるよ」  さして興味もなさそうな声に、ハンドルを握る手から力が抜け、そうか俺は緊張していたのか、と自覚したらなんだか気が楽になって、苦笑を漏らしつつ記憶を探る。 「俺はまあ、挫折したカメラマンだ。今はチラシとかの物撮りがメインだな」  初心(うぶ)な学生だったころ、いっぱしのカメラマンとして名を馳せるのだと大望を抱いていた俺は技術を磨き、感性を尖らせて、良いものを撮るのだと必死になっていた。  だが目標にしていた賞を取り、名を売ったのは、お気楽にしか見えなかった同級の女。そして彼女の作品に、打ちのめされた。  ああ、これは自分には撮れない。  この世界に俺の手は届かない。  そんな風に思い知らされて絶望に落ち、それでも俺はカメラを持ち続けることを選んだ。  磨いた技術を認めてくれる人がいたのだ。それ自体は俺にとって皮肉でしかなかったのだが、他にやりたいことなど無かったし、他にできることも無かった。  自ら選んだ道。  しかし誤りだったのでは無いかと、ふと思ってしまったのはいつだったか。  あの時、なぜ諦めたのだろう。結論を急ぎ過ぎたのでは? まだチャンスがあったのでは? どうして今度は頑張ろうと思えなかった?  一度浮かんだその意識が時を選ばず浮かぶ。糧を得るためファインダーをのぞきシャッターを切る度に、感性が磨り減っていくような怖れが目を曇らせるような気がした。  なんでコンナコトをしている? と警鐘じみた声が響いて、胸の内にヘドロのようなドロドロしたものが溜まっていくような感覚。  俺はこんなものなのだ、諦めたのは間違いではない。  そう自分に言い聞かせるように生活しつつ、仕事とはいえ少しでも良き画をとひたすらシャッターを切る日々。そんな頃、あの町へはじめて行ったのだ。  紅葉も盛りの時期、仕事が一本無くなって3日ほどぽっかり時間が空いた。  1日目は寝て過ごし、2日目はたまった洗濯を片付け部屋を掃除して、3日目。ふらりと車を走らせたのは、家にいるとろくなことにならないような気がした、それだけのことだった。  当てもなく走らせた車。そしてあそこを通りがかった。  前時代的な町並みと鮮やかな彩りを帯びる山野、エネルギッシュに人の営みを呑み込まんとする自然に逆らわず、共存を選んだ人々。ふっと浮かんだ、そんなイメージに車を降りたのは無意識に近い行動だった。ただ単に車を降りるタイミングだったのかもしれない。  道ばたの雑草の合間に見える花一輪に心惹かれ、シャッターを切った。  常にカメラを手放せない自分を嗤うような気持ちもあっただろうが、なんてことないノリでしかなかった。なのになんだか止まらなくなった。町並みや道行く人、畑の佇まいなど、次々撮りまくった。  フッと我に返り、空を見上げて時間を浪費していたと気づいて車に戻り、帰宅した。ずいぶんたくさん撮ってしまっていたことに驚きつつデータを整理しようと改めて見ると、悪くないように思えた。  あの頃の俺には、なにかが必要だった。  だからあそこで撮った画が呼び起こしたものが、いかに些細であったとしても無視することなどできなかった。……縋るような心持ちも、確かにあっただろう。ここでなら、またなにかを掴めるのではないか。  近場と言うには離れ過ぎ、だが遠過ぎるわけでもない距離感も良かったのかもしれない。何度か通う内、町人(まちびと)から声をかけられるようになり、お茶や軽食などふるまわれたりもして居心地が良くなり、ますます足繁く通うようになったある日、ひとりのじいさんに声をかけられた。  自分はあそこの山のオーナーだ。町の中ならどこでも自由に行って良いが、山菜や木の実を絶対に採るな、キノコにも手を出すなと、ひどく険しい顔で厳命されて失笑しそうになるのを押し殺し、愛想良く頷いて促されるまま念書まで書き、厳めしい顔写真も撮らせてもらった。「カメラマンてえのはよく分からんな」  機嫌の良くなったじいさんと話しながら、俺も丸くなったもんだ、年を取ったなと自嘲していた。  山菜やキノコに興味ない者がこんなところに通うなどありえないと信じこんでいる頑迷さ、よそ者に対する警戒を面倒だとは思ったが、老人の思い込みを笑い飛ばすことなど出来なかった。ほほえましいと思ってしまったのもある。が、それだけではない。  同時に、思い込みに頭の先まで浸っていた自分自身に気づいたからだ。 『俺はこんなものなのだ、諦めたのは間違いではない』  写真を撮ることで糧を得ているゆえにそう自分に言い聞かせ、大人なんだから、社会人として、そんな呪縛に絡め取られることを自ら選んでいた。そうして安心したかったのか。けれど逆に、意味不明な焦燥に追い立てられていたのではないか。  ────あの町に通ったのはなぜだ? 衝動があったからだ。  ────衝動を大事にすること。それこそが今までの自分に足りなかっこと。  衝動を覚えても、今までそれを押し潰してきていた。プロとして金にならない写真を撮るべきではないと……自分に言い聞かせて。  職業として写真を撮ることと、衝動の赴くままに画を切り取ることは全く違う行為だ。分かりきっていた筈のそのことから、無意識に目を逸らしていたのだろう。おそらく自分を守るために。あのとき諦めた自分を肯定するために。  じいさんの許可を得て、あの町での行動がますます楽になった。  風景を写し撮る時間は、自覚を得たことでさらに重要になった。  そして今日撮った画は、俺にとって確かに光明だった。なにかを掴めたような気がするのだ。  結果として、なにが産まれ出るかなど分からない。だがこの光を手放してはいけない、そんな確信はある。 「売れなくてもいい。評価されなくて良い。俺は納得いくものを撮れるようになりたいんだ。今度こそ諦めない」 「……ふうん……」  気の抜けたような彼の声に、いつの間にか熱く語っていたことに気づき、くちを閉じる。 「……諦めない……かぁ……」  妙に乾いた声に目をやると、彼はなにかを考え込むように目を伏せていた。  いくつめかの繁華街で店を探して、またも空振りに終わった。  あえてホームグラウンドは避けているがゆえになかなか見つからないのだが、彼に疑いを抱かせまいと思えば馴染みの店には行けない。とはいえプロ仕様のプリントができる所はそう多くない。  肩にずっしりと疲れを感じ見上げると、いつの間にやら陽が落ち、空に夕闇色が広がろうとしていた。眉間を揉んで、無自覚にため息を漏らしていると、彼が言った。 「アンタんちってどこ?」  住所を言うと「そこでイイよ」と続いた意味が分からず、「なにが」問い返すと、気の抜けた声が返った。 「アンタんちなら、ちゃんとプリントもできるんだろ?」 「それは、できるが」 「プリントしちまおうぜ、アンタんちで。もう探すのメンドイし」  あとから思えば、それは彼なりの決意が籠もった言葉だったのだろう。  だが俺は単純に店を探す苦行から解放される、助かった、と思い、無言でハンドルを切ったのだった。  部屋に入り、物珍しげに見回す彼に構わず、俺はすぐに作業に入った。  そうとうな枚数があるから、急がないと深夜に及ぶことになる。焦りと共にやり始めたのだが、今日撮った画は思った以上に良いものが多かった。  次々とプリントアウトしていく中で、これはと思うものはついつい手を入れて完成度を上げてしまう。やはり、思った通り、これは……手応えを感じ、次を、また次をと見て行く。いつしか作業に集中してしまっていた。  喉の渇きを覚え、手を止めた俺は、彼がそこにいることを忘れて腰を上げ、冷蔵庫からビールを取り出して立ったままひとくち飲む。缶を持ったまま戻ろうとして、安いソファでプリントしたものを見つめる彼に気づいた。 「……すまない、喉渇いたか? ……といってもビールと水しか無いが……ああ、腹減ってないか? えーと……カップ麺がどこかに……」 「これ、今日撮ったの?」 「え? ……ああ、そうだ」 「これ、全部?」 「ああ」  じっと手元を見つめ、彼は呟いた。 「俺……も、プリントしてくれよ」 「え?」 「今日撮った俺も、やって」 「いいのか?」  こちらを見ずに頷く彼に、俺は内心ガッツポーズをとりつつ、作業に戻った。  彼の画を改めて見る。溜息が出た。 (……これを手放すのか)  惜しい。  だがそれが約束だ。  ここでヘンな色気を出して自らの首を絞めるような真似はするまい。  そう思いながら、くちびるが切れるほど噛みしめていた。 「……なあ」  呟くような声が聞こえ、目を向ける。 「……これ、俺にくれない?」 「え、いやもちろん。その為についてきたんだろ」 「……そうなんだけど」  驚くほど近くから聞こえた声。 「……なんか……」  背中に張り付く体温。背後から伸びた手が股間に伸び、そこをまさぐる。 「おいっ、なに……」 「これ、くれよ。気持ち良くしてやるから」  首元にかかる熱い息。 「なあ、アンタ。男抱いたことある?」  顎に添えた手に促されるまま顔を捻ると、くちびるに柔らかいものが触れ────  男に欲情したことなど、それまで無かった。  ……その時……ただ、……くちびるがやけに煽情的で、蠢く手がいやに卑猥で……  なのに間近で俺を見る目がひどく切なげで、潤んだ明るい色の瞳に魅入られ。  気づいたら抱きしめていた。 「ベッド、連れてけよ」  そんな囁きが耳元に聞こえ、色々、本当に色々飛んだ。 ────────なんでこうなった?  なんて考えたのは、全て終わってから。  巧みにリードされ、上に乗られて、迫り上がる衝動のまま体勢を入れ替え、……自ら彼の身体を求めた。  なんで勃ったんだ俺は。むしろギンギンだった。こんなのは久しぶりじゃないか。  いやしょうがない。セックスは久しぶりだったし、こいつがあんなことするからつい……それにここ一年ほどは、暇さえあればあそこへ行って写真を撮っていたし、あそこにはジジババしかいねえし……ていうかなんなんだ、この妙な充足感は。ただセックスしたってだけじゃないか。  くそっ  ああそうだよ、こいつが妙に可哀想に思えて、なんだか可愛くてたまらなくなった。  なにをそんなに必死な目をして、なにをそんなに思い詰めてるのか、……だからって、なんで……今思い出しても意味不明な情動に支配され、身体中を撫で回しあちこちなめ回した。  今さら照れるわけでは無いが、勝手に腕枕で眠っている彼がココにいることが妙にしっくりくる感じもあり、なんとなく髪を撫でた。  あのとき光を受けて輝いていた髪は、少しごわごわして、水分が足りない感じがした。  少しは髪の手入れをしたら……などと考える自分がおかしくてクッと笑う。  そっと腕を抜き、身を起こした。  よっぽど疲れていたのだろう。ぐっすり眠っている。今日見せた輝きも挑戦的な眼差しも無い。ただ疲れた子供のような……いったいいくつの顔を持っているのだろう。  ……手を伸ばし、ベッドサイドにいつも置いている、昔使っていたフィルムの一眼レフを取る。なんとなくここに置いていて、ときどき手入れをしていたから、今でもじゅうぶん使える。あまり使うことはないんだが……フィルムは……ああ、入れてある。そうだ、今日使おうと思ってフィルムを入れ、持って行くのを忘れたんだった。  薄暗い部屋の中、ファインダーをのぞき、絞りを弄り、露出を開いてシャッターを押す。  まるで無垢な子供のような、安心した寝顔。 「可愛い顔しやがって」  色んな顔を持つ、彼がこれからも傍にいてくれたなら。  ────俺は、人物を撮れる、ようになるかもしれない。  挫折して以降、仕事が物撮りだったこともあって、人物は殆ど撮っていなかった。かつて磨いた技術も忘れたと思っていた。 「……技術、じゃないんだな……」  それだけでは、今日の画は撮れなかったのだろう。  これだけの素材、他にも撮りたがるカメラマンは多いだろう。きっと彼は売れる。そうなったら俺ごとき、撮らせてくれなんて言ってもハナで笑われるんだろうな。 「でも特別待遇ってのもあるよな。寝たんだし」  思わず漏れた声に、またも笑ってしまう。 「……これからも、撮らせてくれないか。おい」  寝ている彼に問いかける。おそらく軽蔑されるのがオチだろうが、まあ聞こえてないだろうし。  そんなことを思いつつ、返るはずの無い答えを、しばらく待っていた。  目覚めた彼は作夜作業していたデスクへと足取り軽く移動して、プリントアウトしたものを無造作に手に取った。 「これとこれとこれ、それにこれと、これ……と、これ、だけ、くれ」  そう言って彼は彼自身の画三枚と、森の中の一枚、蒼天を横切る飛行機雲の一枚を選んで、ニッと笑った。 「だけって……え?」 「データカードは要らない」 「…………なんだって?」  耳を疑って問い返す。眉尻下げた、情けない表情。 「もう俺、やめるし、別に撮られたって構わないんだ、ホントは」  耳に入る言葉の意味は分かる。だが意味が分からない。 「分かんねーけど俺、なんか足りねーらしいんだわ」 「足りないって」 「何度も何度もオーディション落ちてさ、もう疲れたつうか。俺ゲイだしさ、それ隠してんのも、なんだかなーって感じもあってさ、やめようかなー、なんて思ってたんだ。……昨日って、ロケハンだったんだけどさ、あの山の、隣町側の麓あたりとかウロウロして。色々ポーズとか求められたり、動いてみろとか言われて、一所懸命やったんだよ。でもなんか空しくなってさ。……本番は違う奴がやるんだ。そいつ忙しいから背格好似てる俺が呼ばれたの。だけどなんか……やんなってさ、フケて山ん中に逃げた。サイテーだろ? もう干されるよなーなんて思って歩いてたんだけど、知らないトコだし迷っちゃってさ、途方に暮れてたら、あんたが」  チラッとこっちを見て、ニッと笑う。 「勝手に撮っただろ。安く見られたってかそんな感じで……なんかイライラしてたし。……でもいいんだ、もう潮時かなって思ってたし。やめるから、別にいいんだよ、俺なんて」 「ダメだ!」  思わず強い声が出ていた。 「え……なにが」  目を丸くして見返す彼の肩を掴む。 「ダメだ、お前はカメラマンの目を惹く。必ず誰かの目に止まる。現に俺だって……今まであんな風に人物を撮れたことなんて無かったんだぞ? あのとき、お前を見てたらどんどんシャッターを押したくなった。内から輝くようななにかがあるんだ」 「…………」 「やめるんじゃない、もったいない」 「……まあ」  力ない笑みを浮かべ、彼は俺の撮った一枚を手に取った。挑戦的な笑みを浮かべた彼の目が、獲物を狙う肉食獣じみた強い光を放っている。 「思ったよ、これ見て。俺でもこんな顔できるんだなーって。あんたってすげえカメラマンなんじゃねーの?」 「バカを言うな。これはお前の力だ。お前に触発されて、俺程度でもこんなスゴイのが撮れたんだ。ファインダーを通した時のお前はすごい、カメラマンの目を惹くってのは凄いことなんだぞ」 「……は。なにそれ」 「俺は……お前が起きて、メシ食って、それから……これからも撮らせて貰えないかと頼むつもりだった。だがな、おまえは俺ごときの腕で撮りきれる素材じゃない。たくさんのカメラマンの中のひとりとして、これからも撮らせて貰えればと思っていたんだ。やめるなんて絶対にダメだ」 「ちょ、ちょっと」 「昨日本命じゃなかった? それがなんだ! 自信を持て! お前は絶対に主役になれる……」 「あー、ちょ、待って、待てって、はは……」  彼は笑い始め、「わかった、わかったよ」と手を振って、いきなり抱きついてきてくちびるにキスをした。 「アンタの言うこと、信じてみる。もう一回頑張ってみる。で、この写真。俺にちょうだい。アンタも持ってて」  作夜のような蠱惑的な響きではない囁きが耳を擽る。 「いつか、売れっ子になったらコレ、売ってよ。儲けさせてやるよ」 「……いいのか。データ……」 「じゃなきゃゆうべ、あんなことしねえっての。俺そこまで尻軽じゃねーよ? アンタの才能にポーッとしちゃってさ」 「マジか」 「マジマジ、そんでめっちゃエロい気分になっちやった」 「……そうか」  ジワジワと理解が落ち、胃の腑から歓喜じみた感情が湧き上がる。  こいつに認められた。  俺も自信を持っていいのだろうか。 「アンタも、自信持てよ」 「…………」  そうか。  ではこれからも……「俺に撮らせてくれるか」くちから零れたのは願望。彼の寝顔を眺めながら、胸の内に湧き上がっていた、切なる願望。 「いいよ。なんか注文あったら言ってよセンセイ」 「じゃあひとつだけ」 「なに?」 「髪は手入れした方がイイ」 「は?」 「手触りがギスギスしてた。見た感じはサラサラなのに」 「なにそれ」  プッと吹き出して、彼は腕の中で笑っている。 「髪のキレイな女が好みなのかよ」 「……女じゃ無くても……抱けただろ。おまえは特別なんだろ」  呟くと、彼が顔を覗き込んでくる。満面の笑み。なんだ、なんでこんな、いきなりガキみたいな…… 「だってな、今まであんなのは無かったんだ。なんで勃ったんだか……」 「不思議?」 「……ああ」 「じゃあ教えてやるよ。これって、きっとさ」  目前の顔が艶然と微笑む。 「運命、なんじゃね?」  そのまま、くちびるを塞がれた。  離れがたいものがありつつもなんとか抑えたのは、その日も仕事があったからだ。フリーでやっている以上、時間厳守は必須。  彼の住まうマンションまで送っていき、笑顔でドアをくぐる後ろ姿を目に収めて仕事へ向かう。  そして今さらながら気づいた。  互いの部屋は知っているが、連絡先を知らない。事務所も……そうだ、名前も知らないじゃないか。これからどうやって連絡を取ろう。 「まあ……なんとかなるか……」  苦笑しつつ、現場に到着した俺は、仕事モードに切り替える。  プロとして求められる写真を撮る。現場に入ったら余計なことを考える余裕など無くなる。物撮りならではのノウハウを身につけ腕を磨いてきた。そこで認められているという自負はある。そうでなければ写真だけで食っていけるわけがない。  フリーでやっていると言うことは、営業も経理も自分でやると言うことだ。  仕事に追われながらも、俺の中にはそれまでとは違うモチベーションが産まれていた。食うためだと割り切っていたはずの仕事が、なぜか楽しい。  ありがたいことにスケジュールが埋まっていき、自由時間はゼロに近くなっていった。  そんな中、彼に逢いたいという思いは日増しに強くなっていた。だがなかなかハードルが高いのだと今さら気づいて愕然としていた。  マンションは分かっているが部屋番号を知らないのだ。名前も知らない。事務所も分からない。とはいえ部屋の前で張り込むほどの時間は無いし、どうしたらよいかと途方に暮れて半年ほど経過した頃。  彼を見つけた。  テレビで、映画の宣伝をしていたのだ。 「……役者だったのか────」  モデルだと決めつけていたが……そうか、役者か。  妙な照れと、抑えがたい胸騒ぎを伴いつつ映画を見に行った。  スクリーンに、あの日のような圧を放つ彼がいた。  やがてテレビや雑誌でも、彼を見るようになった。 「すげえな。やっぱり俺の目に狂いは無かった……なんてな」  あの腕を撫でた、指を絡めた、キスした首筋。胸、腹、尻────狂おしいほどの熱。産まれて初めて情欲に流されたあの夜。  何度も思い出して切なさに胸を締め付けられた。  やはり彼は注目を浴びる存在になった。当然のことだ。  そう納得すると同時、二度と触れられない、逢うこともできないのだと、そんな寂寥を伴う思いも産まれていた。  ……また撮らせてくれると言ったけれど、忙しいだろうし。……こうなってしまっては名も無い物撮り専門の俺など、相手にされないだろう。  諦めよう。  そう考えてハッとした。 『アンタも、自信持てよ』  彼の声が、あの時の笑顔が、蘇る。 「そうだな。もう二度と、諦めないんだった」  諦めない。  彼がそれを実践したなら、俺だって。  そうして独り身をかこったまま年月が過ぎ────気づいたらいっぱしの風景写真家として食っていた。  それなりに名前が売れて、マネージメントを知り合いの事務所に頼むようになって、ある程度余裕を持って仕事を組めるようになった。  あのあと俺は、あの町に住み着いた。  そこを拠点として、世界中に飛んでさまざまな画を切り取っている。  季節の折々、些細な変化を写し撮る生活。やはり人物は得意では無いが、地元の老人などは思わず撮ってしまうことがある。それも少しずつ認められてきた。  満たされている。恵まれている。  そう感じながらも、飢えた部分が奥底に残っていた。  彼を欲する、その部分だけが満たされないままだ。  今や一流の役者として地位を築いた彼に、声をかけるなど今さらできるわけもない。むしろ向こうは覚えてもいないだろう。  たった一夜過ごしただけの、無礼な名も無い写真家のことなど。  そんなある日。  秋の色に染まった庭先。  橙色を帯びた光を浴び、バランスの良い立ち姿で、勝手に立ち入った男がニヤリと不敵に笑った。 「シケたトコに住んでるんだな」  彼のことはずっと見ていた。だからすぐに分かった。  若かったあの日、青い光を帯びていた彼は 「探したんだぞオッサン」  円熟した鴇色を纏っていた。 「あんた名前も言わなかったし、やっと時間出来て部屋に行っても留守で。何回も行ったのに、いつの間にか引っ越してやがるし。ずいぶん冷たいんじゃねーの」 「諦めなかったんだな」 「あんたもな」  その夜。  夢を見た。  一度道を諦めた頃の青臭い俺の前に、あの時の彼がいる。  ロケーションは間違いなくあのときのあの山。  奇跡的な蒼い光の下、まだ若い二人が、互いを警戒しながらも、互いに惹かれるように目を離せない。  俺は────  重みと逞しさを増した彼を腕に抱いたまま目覚め  気づいた。  いつのまにか涙で頬が濡れていることに。 <END>

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