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【決定打】ぼーま
携帯電話のマナーモードを解除する為に、赤石真実は映画館のロビーのソファに腰を掛けた。
真夏の昼間の小さな映画館には、平日の為か冷房の涼を求める人もまばらだ。
隣のソファに座る壮年の女性が缶コーヒーのタブを上げる音を聞きながら、真実はスマートフォンをタップした。
メッセージは師匠からの一件。
店頭に置くピアスの一つに真実が選んだ物を採用するという内容だった。
嬉しい。
真実は素直にそう思う。
真実はタトゥーショップで働いている。
大学を卒業して直ぐ勤め始めて二年目、雑用の一通りをようやく任されるようになった。
今回のピアス選びは、師匠からの指示だ。
師匠に呼ばれて行けば三人の先輩の前で、「赤石君も三つぐらい選んで」と責任を与えられた。
真面目に勤めてきた事へのボーナスなのだろうと真実は思っている。
次が近いうちにあるとは、流石に思っていない。
それでも嬉しかった。
少しずつ少しずつ、ピアスに係わる仕事が増えていく。
職場に恵まれたなと真実は思っている。
大学で新素材開発の学部に在籍中、徹夜明けのハイの勢いで飛び込んだタトゥーショップ。
右の耳朶にある黒子の上にピアスを開けてもらおうとしたところ、それを止めたのが師匠だった。
産まれ持ったチャームポイントを否定するな、と。
代わりに、黒子の上部にピアスを開けてくれた。
ピアスの穴を増やそうと決めて二度目にショップに行った時、働くならここにしたいと心を決めた。
そして師匠はそれを許してくれた。
耳朶を中指の第一関節と親指で挟み人差し指で二つのリングピアスに触れる癖が、真実にはある。
それは真実にとって、他人による、そして自分による自己肯定の確認なのだ。
真実の顔には黒子が多い。
右の耳朶の他にも、右の目尻の下と唇の右下にも、目立つ黒子がある。
中学の頃に、この黒子は散々揶揄われた。
付けられた渾名は「ヨダレナミダ」。
クラスメイトの尾崎青士が言い出して、瞬く間にクラスの男子に広まった。
その頃真実は本の虫で、廊下側の壁際の席で時間がある限り本を広げて過ごしていた。
当然真実の机の周りには人がおらず、それを利用していたのが尾崎だった。
真実の席の隣の机に真実に背を向ける様に腰を下ろして、集まった男子達と話に花を咲かせる尾崎。
真実に直接干渉してくることは無かった。
他の男子が真実にちょっかいを掛けようとすると、むしろ止めに入って。
つまり、存在を否定されていたのだと思う。
更に、呼ぶ時には「ヨダレナミダ」‥‥‥‥
何となく思い出した不快な同級生の名前を振り切る様に、真実はソファから立ち上がった。
今日の映画は当たりだったのだ。嫌なことは考えたくない。
真実は、休日には映画を見に出かける。
マニアという程ではないが、小さめの映画館で色々な国の文化に触れる事が楽しい。
映画で得た知識は、師匠のタトゥーへの見方も新しくしてくれる。
仕事も。
趣味も。
充実している。
‥‥している筈だ。
忙しくも穏やかな毎日に、充分満足はしている。
でも、時々、ふと不安になるのだ、このまま幸せでいいのだろうかと。
自分の生き方には、何かが足りない‥‥
「上手くいってるから不安だなんて、贅沢だな。」
呟いて真実は、冷房避けのパーカーの袖を捲り上げて映画館の扉を外へと開けた。
・
陽射しが眩しい。
昼からの映画を終えて今、一番暑い時間帯ではないだろうか。
パーカーを脱ぎそびれた背中に汗が伝う。
駅前通りは広い歩道の街路樹が作る木陰もまだ小さくて、真実は炎天下を避ける為の喫茶店を幾つか考える。
それを一つに絞って歩き出そうとした、その時。
「あれ、まさみ‥‥じゃねぇや、‥‥ヨダレナミダ?」
背後から声が掛かった。
振り返ると、派手な半袖シャツを着た長髪の男が立っている。
「俺だよ、中学の時一緒のクラスだった‥‥、思い出せる?」
尾崎青士だ。
真実は、このタイミングで出会うのかとうんざりする。
「ごめん。誰だっけ?」
「あ‥‥見た目変わったかな。尾崎青士! 休み時間に隣の机でよく喋ってたろ?」
「尾崎‥‥くん‥‥、喋った記憶、無いけど。」
「真実と直接喋ってたわけじゃないけど、隣の机でさ、ほら、大宮達と。」
「‥‥あんまり憶えてないな。」
「そっか。‥‥しょうがないよな、真実、沢山本読んでたから。丘高受験するって知った時、だろうなって思ったし。」
尾崎を振り切ろうと、真実は歩き出す。
そんな真実を左に置いて、尾崎は歩いて着いてきた。
「俺は川校行ったんだ。実はあの頃から車が好きでさ。工業高校出て、今は整備工場で働いてる。」
「尾崎君、出掛ける途中じゃないの? こんなとこで油売ってないで、」
「俺? 暇ヒマ。健康診断で休みなんだよ。もう行ってきたから後は自由時間。真実も休み?」
「‥‥まあ。」
「そっか。‥‥真実、雰囲気変わったよな。なんか凄くカッコよくなった。」
「それはどうも。」
「ピアス、してるんだな。似合うよ。‥‥ほら、俺も!」
左手で髪を掻き上げ曝された尾崎の左耳には、確かにピアスがある。
手が陰を作っているためか、シルバーの台に嵌る石は黒い様に見えた。
真実は条件反射の様に考える。これをショップに並べるとしたら。
「その石、何?」
「え、真実、宝石詳しいの? やっぱ沢山本読んだりしてるから?」
「いや、今タトゥーショップで働いてて、ピアスも扱うから‥‥」
「え! え、へぇー! 吃驚した! いや、ごめん、真実とタトゥー、結びつかなかったからさ、」
「いいよ、自分でもこの道に進むなんて思ってなかったから。」
「中学ん時から顔がキレイな奴だっては思ってたけどさ、ほんとに、なんつーか、うん、カッコいいよ、今の真実。」
「今も何も、昔の俺なんて大して見てなかったでしょ。」
「そんなこと、」
「いつも俺に背中向けてたくせに。」
「! 憶えてるんじゃん、俺の事!」
「‥‥少しだけ。」
「嬉しいな。たとえ少しでも、憶えててくれたんだ‥‥。」
寧ろ驚いているのは真実の方だった。
いつも背中を向けていた尾崎が、自分について知っていた事に。
本を「沢山」読んでいた事。
進学先を知っていた事。
自分の顔を評価していた事。
こいつは俺の存在を否定していたのではなかったのか?
「真実はこれからどこ行くの?」
「どこか座れる店に入ろうと思ってるだけ。」
「へえ。‥‥普段どんな店に行くの?」
「普通だよ、その辺の喫茶店とか。」
自分に興味を向けている尾崎が、真実には不思議だった。
あの頃は背中しか向けていなかったくせに。
予定していた喫茶店はとっくに通り過ぎている。
このまま歩けば、行き着く先は駅だ。
汗で貼り付くシャツの背中が落ち着かない。
通り沿いにある別の喫茶店に飛び込めば別れる口実になるだろう。
しかし真実は、中学の頃と印象の違う尾崎を振り切る気にはなれなかった。
「そういえば真実ん家ってさ、」
「ねえ、尾崎、」
真実からの呼び掛けに、尾崎は言葉を切って顔を向けた。
少し驚いたような、喜んでいるような。
真実は違和感を口にする。
「何で俺の事『まさみ』って呼ぶの?」
「え‥‥」
「会った時も言い直したよね、一回まさみって呼んでからヨダレナミダって。」
「そう‥‥だっけ?」
尾崎の顔が曇り始める。
「そうだよ。中学の時はずっとヨダレナミダって呼んでたよね。」
「あ‥‥ああ。‥‥ごめん。嫌だった、よな‥‥」
「嫌も何も。俺の事、居ないみたいに扱ってなかったっけ?」
「そんなことな」
「尾崎さ、俺の事、嫌ってたんじゃないの?」
俯き始めていた尾崎の顔が、真実の言葉を聞いた途端に跳ね上がった。
「それは無い。絶対に!」
「じゃあなんでヨダレナミダなんて呼んだのさ。」
「それは‥‥」
再び尾崎の顔が俯き出す。
「俺はあの呼び方凄く嫌だった。あの呼び方の所為で黒子の事をずっと気にしてた。」
「‥‥」
「タトゥーの師匠が初めて黒子をチャームポイントだって言ってくれたんだ。それが無かったら‥‥」
「‥‥無かったら?」
「たぶん、手術で除去してた。」
「!」
急に尾崎に右腕を掴まれ、真実はビクッとする。
立ち止まる尾崎につられ、真実も止まる。
尾崎は覗き込むように真実の顔を見ていた。
「なに勿体ないことしようとしてんだよ!!」
予想外の剣幕だった。
歩道の端を通り過ぎる人がこちらを見ている。
一瞬言葉を失った真実の心に湧いたのは、苛立ち。
「タトゥーショップで働く人間が、肌を傷つける事を怖がると思う?」
「そうじゃなくて!」
食い下がる尾崎を、真実は真っ直ぐに見る。
「じゃあ、何。」
「俺は!」
尾崎が真実の腕から手を離した。
体ごと真実に向き合う。
「俺は。お前の黒子に憧れてピアス開けたんだよ。お前の、右耳の。」
「‥‥黒子に?」
「黒子に。‥‥真実さ、クラスん中で地味だった‥‥それなのに、変に色っぽかった。」
「‥‥」
「何でか色っぽいってずっと思ってて‥‥気が付いたんだ。黒子があるからだ、って。」
尾崎の目は真剣だった。
「そしたら‥‥そしたらさ、まともに顔を見られなくなったんだよ。」
「なにそれ、」
「顔見られなかったし‥‥名前呼ぶなんて、もっと出来なかった。」
「‥‥俺の隣の机に仲間集めてたのは何なの。」
尾崎が真実から視線を外す。
「お前に‥‥」
「俺に?」
「‥‥誰も手出しさせたくなかった。」
「?」
「俺が壁になって、誰も真実に手が出せない様にしておきたかったんだ。」
「‥‥」
「真実の色っぽさ、知ってるのは俺だけ、が、よかった‥‥」
なにそれ。
真実は言葉が出なかった。
右手が自然と上がって、二つのリングピアスに触れる。
嫌われていたのではなく。
否定されていたのではなく。
それは、むしろ‥‥
気まずそうに尾崎が空を見る。
尾崎のピアスが陽に当たって、鮮やかな赤い色を見せた。
それは‥‥
「ねえ、尾崎。そのピアスの石‥‥」
尾崎が真実に視線を落とす。
「ああ。ガーネット。『赤石真実』の。」
真実に向かう尾崎の視線は真っ直ぐだった。
「先刻見かけた時、一目で真実だって分かったよ。雰囲気違ってても一目で分かった。」
「‥‥」
「気が付いたら声を掛けてた。‥‥真実、綺麗になったな。前からもだけど‥‥うん、綺麗になった。」
「尾崎‥‥」
「俺、‥‥俺さ、この場限りで真実と縁が切れるのは、嫌だ。」
尾崎は真実を見ている。
真っ直ぐに。
どこかきまり悪くなって、今度は真実が空を見上げる番だった。
飛行機が飛んでいた。
尾崎の側から、真実の側に向かって。
尾崎の「青士」の名前みたいな真っ青な空に、尾崎から真実に向かって真っ白な飛行機雲が力強く打ち出されている。
真実は。
真実は、これだ、と思った。
自分が足りないと感じていたもの。
自分が伸べる手ではなくて、自分に伸べられる手‥‥‥‥
「真実、」
尾崎が真実を呼ぶ。
真実は尾崎に応えて視線を合わせる。
「なに。」
「連絡先、交換してくれないか。」
「いいよ。」
「いいのか!?」
「ああ。」
「じゃ、今度さ、食事に行こうぜ。」
「‥‥こういう時は呑みに誘うもんじゃない?」
「‥‥酔って無い状態で、真実の事、もっと知りたいんだ。」
「‥‥いいよ。」
答えて真実は、自分が微笑んでいるのを知る。
何かが始まる予感に瞳の奥が熱くなるのを、感じていた。
fin.
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