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バレンタインss2

「お、お疲れ様です」 緊張を悟られないよう、アオキも事務的な挨拶をした。 アオキを見た男の口元がフッと緩む。 その表情を見てアオキの心臓は再び跳ね上がった。 どんなに平静を装うとしても無理だ。 この紅鳶という男の前では。 紅鳶はこの喫茶淫花廓の中でも一番の人気を誇る売れっ子ウェイターだ。 彼が店内を歩けば黄色い悲鳴が上がり、ギャルソンエプロンのポケットやウェストの隙間にはおひねりがねじ込まれる。 完璧な容姿、完璧なプロポーション、完璧な接客… 彼の気を惹くため、この喫茶淫花廓へ足繁く通う客も後を絶たない。 当然バレンタインの今日も、紅鳶を目当てにやってくる客が多い。 しかも来店する客全員がおひねりとは別に彼へのプレゼントを置いていっている。 去年は段ボール二箱だったそのチョコレートや貢ぎ物のプレゼントが、今年は既に三箱目に突入したと従業員が言っていたのを小耳に挟んだ。 かくゆうアオキも紅鳶に対して密かに憧れを抱いているくちだ。 しかし、決して彼の特別になりたいだとかそんな大それた事は考えてはいない。 なぜならだからだ。 紅鳶に想いを寄せている男女はごまんといる。 容姿端麗、眉目秀麗なモデルやタレントなども多い。 その中でアオキのようないちウェイトレスが、彼の特別な存在になれる可能性なんてほぼゼロに等しい。 だからこうして彼と一緒の職場で働けているだけで充分だと思うようにしている。 挨拶を交わせるだけ…いや、毎日その姿を見るだけでも幸せだと。 紅鳶はアオキの使っているすぐ隣のロッカーまでやって来ると、タオルで身体を拭きはじめた。 アオキは内心ドキドキとしながらチラリと横へ視線を流す。 何度見ても、逞しい肉体だ。 肩から腕にかけて隆起した筋肉のこぶ、横から見た時のギュッと引き締まった腹斜筋。 もはや逞しさを通り越して芸術的な美しささえ感じる。 その割れた腹筋のあちこちにはチョコレートが垂れているのが見えた。 中には既に固まってこびりついているものもある。 売れっ子の彼の事だから、開店時から今まで身体を拭きにくる暇もなかったのだろう。 「全く、鼻に甘ったるい匂いが纏わり付いてかなわないな」 紅鳶のため息まじりの声に、アオキはハッとすると慌てて視線を外した。 「べ、紅鳶さんはチョコレートは苦手ですか」 「食べられない事はないが、好んで食べようとは思わないな」 やっぱりか… アオキは心の中で小さく嘆息を吐いた。 実は鞄の中に、彼のために用意したチョコレートが入っている。 初めは用意なんてするつもりなんて毛頭なかった。 紅鳶は想像を上回る数のチョコレートやプレゼントを貰うだろうと思っていたし、渡したところで彼がアオキのチョコレートを食べるとは到底思えなかったからだ。 けれど、街中のバレンタイン特設会場に群がる人やテレビのバレンタイン特集を見ていたら、なんだか居てもたってもいられず… 結局イベントの雰囲気に押し流されて用意してしまったのだ。 しかも手作りチョコレートを。 しかしいざここへ来て、紅鳶の人気や贈られるプレゼントを目の当たりにすると、自分の用意したものがいかに質素で粗末なものか思い知らされる。 それに今時手作りなんて、重いような気もしてきた。 やっぱり渡すのはやめておこう… レシピを検索しては何度も試作し、どれが一番美味しいか、どれが一番紅鳶に見あうものか、自分なりに考え精一杯努力はしたつもりだ。 だけどここでわざわざ苦手なものを渡して、紅鳶に気を遣わせる事もしたくない。 アオキはギュッと唇を噛み締めた。

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