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飛んで火に入る 2

「……岩井」 「はい?」 やっと口を開いた敬吾の声は掠れていた。 逸は未だ上機嫌で、歌うように応じる。 「やらして」 「はい?」 逸の浮かれた表情がぴしりと固まった。 敬吾の腕が、ゆっくりと腰に回る。 「…………えっと?」 「やーらーせーろ。っつってんの」 「…………。えーっと…………!?」 逸はゆっくりと身を引いた。 鏡のように互いに腰に回された腕が、何がしかの主張を感じるようで逸はその懸念を振り払うべく笑顔を作る。 引きつっていた。 「……抱け、ってことですよね?」 「んんー……?」 ゆっくりと言葉尻を上げながら、同じくゆっくりと微笑んで敬吾は首を傾げた。 その一連の仕草があまりに妖艶で美しくて、本来ならば、本来ならば掻き抱いて今この場にでも押し倒してしまいたい、と思うのだがーー。 固まってしまって逸は動けない。 その逸の手を引いて、敬吾は部屋の中へ踏み入った。 逸は、木偶のようになされるがままであった。 酔っ払って加減を忘れてでもいるのか、敬吾の力は強かった。 思い切り背中をベッドに押し付けられ、逸は未だ呆然としている。 が、ほぼ無意識のうちに敬吾の腕を強く掴み、辛くも動きを制限した。 「ま、待って待って敬吾さん、」 「うるせえなぁ」 「えぇ……」 苛立ったように逸の額を手の平で押し上げると、敬吾はまたぽかりと開いた逸の口をふさいだ。 それはもう、かぶりつくように。 先とは違って初っ端から深く舌を絡められ、逸は一時懸念を忘れることにした。 これはもう、逃してはならない僥倖である。 ゆったりと唇が離れて、少々呆けながら敬吾の頬を撫でる。 食い入るように眺めた敬吾の顔が、冷たいほど鋭くなった。 「掘らせろ、っつってんだ」 「…………………!!!」 逸の顔がまたかちりと固まる。 敬吾はそれを特に感想もなくただ見ていた。 数秒間沈黙が続いた後、逸がはっと意識を取り戻す。 「いいいいいいやいやいやいや無理です無理です俺ガッチガチのタチなもんで!!!!」 「そんなもん俺だってそうだよ」 「えっあっそうなんですけどっ、いやいやいやいやいや」 すっかり泡を食った逸を、敬吾はやはり無感動に見やっていた。 逸は、つい先ほどまでの浮かれていた気分を今や遥か彼方の記憶のように思い返していた。 厳密には今でも浮かれてはいる。 敬吾からの夜のお誘いなどは初めてで、心底嬉しい。嬉しいのだが、なぜ寄りにも寄ってその稀有な慶事がまるで背討ちのような絶望を孕んでいるのかーー。 しばしそうしてぐるぐると考えていると、無表情のまま痺れを切らしていたのか敬吾がふっと目線を逃がした。 「あーそう、嫌なんだな」 「えっ………」 今度は顔ごとそらした敬吾に、逸の混乱は若干毛色が変わる。 「風俗でも行ってくりゃいいんだろーーーーー」 また更に変わった。 「ええぇ!!?ちょっと待って、敬吾さんそれは違……えっ?するんですか?俺以外と!!?」 「しょーがねーじゃん、お前は下やんのやなんだろーーーー。」 「そうですけどっ、また違う話でしょ!」 「ちがくない」 敬吾は憮然として言い切った。 ーー少しからかってやろうと思っただけのはずだったのに、逸があまりにも頑なに嫌そうにするからーー。 別のところに火が点いてしまったのだ。 ひねくれていて、天邪鬼で、短気で浅はかな醜いよく燃える部分に。 そのまま本当にベッドから降りようとする敬吾に、逸は緊迫した表情のまままた呆然とする。 そもそもが理屈で敬吾に勝てるなどとは思っていないが、これに関しては問題が違う。手札の数がまず違った。 逸としては当然自分と敬吾、ふたりで完結する話と思っていたが、敬吾が第三者の手札を切ったことで場自体がもう全く違うものに変わる。 (ーー酔ってるからだよな?) 平素の敬吾は浮気だの不貞だのに決して寛容ではない。 しかし時に感情よりも理論や成果を優先するような少々冷静に過ぎるところもある。 今その部分だけが酒を含んで膨張してしまっているだけ、とは思うのだがーー 理詰めで敬吾を言いくるめられるわけがないとは思いつつも、今敬吾が展開しているのは酔っぱらいの理屈、まさに与太話だった。 ーーそんなもの。 こちらも酒に次ぐ反則技でねじ伏せてしまえばいいのだ。 「敬吾さん」 知らないうちに敬吾の腕を掴んでいた手に、更に力が入る。 敬吾が僅かに顔をしかめた。 「嫌です」 「あ?」 「絶っ対嫌です。敬吾さんが他の誰かとするのなんか」 本格的に腕が痛くなってきて、敬吾は自分を掴む逸の手を掴み返した。 「いてえよ……」 何も言わずに敬吾の腕を離すと、逸は続けざまに敬吾の両肩を掴んで体を捻った。 一瞬でマウントを取られた敬吾はさっきまでの目つきの険もどこへやら、ぱちくりと目を瞬く。 「そんっなかわいい顔して………」 言葉とは裏腹に険しい逸の目を、敬吾は相変わらずぽかんと見上げていた。 そして数秒。 気圧されていることに気付いて、小さく首を振る。 「放せ」 「放しません」 いつもの忠犬顔はどこへ放り出してきたのか、横暴に断じた逸の顔を見上げて、たった今奮い立てた敬吾の表情がまた萎む。 泣き出しそうなほど眉根が寄った。 「ーーだって、下はやりたくないってお前が言ったんじゃんか」 「はい」 「でも他ですんのもダメとか勝手だろ」 敬吾の言葉尻は震えていた。 「俺が下できないのは、全面的に俺のわがままです。すみません」 逸が素直に謝ると、安心したのかほんの少し愁眉を開いた。 「でもそれ承知で言うんですけど他のやつと敬吾さんがすんのとか絶っ、対だめですから」 「ーーーーーー!」 緩んだ敬吾の表情がまたきつくしかめられる。 やはり今にも泣き出しそうだ。 それでも絞り出すように、なにか言わなければとでも言うように僅かに反論する。 「だ、抱かれに行くっつってるわけじゃない……」 「どっちでもです」 「っ!?ちょっ、なに、」 左手で敬吾の肩を強く押し付けたまま、逸は右手を敬吾のシャツの中に潜らせた。 「つめてっ、」 「敬吾さんが熱いんですよ、酒入ってるから」 「ぁ…………、ちょ、やだ……」 「っもう、そんなんでよく言ったもんですよ」 「っなに、」 腹を、胸をゆるゆると撫でられて、敬吾がわずかに呼吸を詰める。 切なげに身を捩りながら敬吾は右肩を抑える逸の腕を外そうともがいていた。 「敬吾さん、気持ちいいことしたいから俺のとこ来てくれたんですよね?」 「!なんか違うっ!下になれって言ってん、」 「んーそれなんですけどね」 「っや!やめっ岩井っ」 無遠慮に胸の先を抓まれ、敬吾が仰け反る。 「……こんな感じやすくなっちゃって。敬吾さん最初はここそんなに気持ちよくなかったでしょう」 「っ知らね、っやめろ馬鹿もうほんとにっ!」 「今こっち期待しませんでした?」 今度は乱暴に尻を掴まれ、痛々しく眉根を寄せて敬吾はなんとか怒っているように見える表情を取り繕う。 が、逸はなぜか楽しげに笑った。 「その顔……、もー可愛い」 「あー!!?」 「こんっなかわいー体になっちゃって。これ抱かないで下になれとかもう意味不明ですよ」 「はっ?はぁっ!!?」 さっき取り繕ったばかりの表情も、こう赤くては逆効果だった。 呆れたように敬吾のシャツの裾を正してやり、改めて向き合いながら逸は小さくため息をつく。 「……て言うかですね、俺ほんとにネコは初心者なんで今日やるってなっても無理ですよ、敬吾さんも最初そうだったでしょ?」 それは敬吾も当然分かっているはず。 窘めるような表情で促すと、敬吾も神妙にそれを認めた。 「ーーん、うん……」 「ならなんでそんな」 駄々をこねるのか、とは続けられず、逸は泣き出しそうな敬吾の顔を見つめた。 その表情もまた拗ねている子供のようで、本意がどこにあるのかを測り兼ねる。 今となっては、本気であんなことを言っていたとは逸も思っていなかった。 一層殻に閉じこもるように目線を下げた敬吾の額を撫でながら、逸はいっそ心配にまでなってしまう。 「敬吾さん、何か怒ってます?」 少々弱気に、お伺いでも立てるように尋ねてみると敬吾が更に視線を下げる。 「……おこってるわけじゃないけど」 口調がやたらと幼い。 そう言えば酔っているのだったと思い出し、ならば子供のように甘やかしてみようかと逸は敬吾の頭を撫でる。 「……けど?」 意識して柔らかい声で促すと、敬吾の顔は一層泣きそうになった。 よく見ると睫毛の根本に涙が溜まって光っているように見えるほど。 逸の気管がぎゅっと圧迫され、事実喉は鳴った。 口の中は乾いているのに生唾が下っていく。 ーーそして、敬吾がきゅっと目を瞑り、かぶりを振った。 逸の腹の底がざわりと熱くなる。 横を向いて強く目を瞑ったまま、上に被さっている逸との間の空気がやたら重くなったように感じ、敬吾は薄く目を開いた。 横目に逸を覗き見るとーー 「…………え、」 ーー寒気がするほど、捕食者のような目をしていた。 ーーーー食われる。 それはもう言語ですらなく、閃光を放ってよぎる概念のように、敬吾は、本気でそう思った。

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