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飛んで火に入る 3

「なんで……………」 「ぅえっ!!!!?」 地鳴りかと思うような重たい声で呟かれ、敬吾はこれ以上ないほど素直に怯えた。 木の虚にでも追い詰められた小動物が狼を前に硬直しているような有様だ。 本能的な恐怖に固まりながらも一応は人間である、「なんで」とは何かと敬吾は考えていた。滑稽に怯えながら。 ぎらついているが虚ろな目で恐らく敬吾を見ている逸から目が離せないままに数十秒が過ぎたが、逸は二の句を継がない。 恐らく、というのは逸の目がどうも焦点を結んでいないように見えるからだ。 明らかに敬吾を捉えてはいるのに、どこかその更に奥を睨みつけてでもいるようで。 その視線が怖いのは確かなのだがーー、 進展がないのも恐ろしく、敬吾はこわごわ口を開いた。 いくら狂犬に舵を切っていても一応は人間である、いきなりがぶりと食ったりはすまい。 「…………い……いわい、なんでってなに……………」 逸はたっぷり十秒は黙っていた。 敬吾を睨んだまま。 「………………え?」 敬吾ががっくりと頭を落とす。 「なんか言いましたか」 その声はまだ低くあまりに平淡に問いかけられて、呆れながらもまだ怖がりながら敬吾は自らを奮い立たせた。 「なんでって言っただろ、なんで、なに?」 「ーーーーーああ、」 やはり乾いて重たい声でぼそりと言うと逸は首を擦る。 何が悪かったのか、いたく不機嫌そうである。 その理由が明かされるのかと、そしてそれは自分なのかと、敬吾はまた肝を冷やしていた。 「……………なんでそんな可愛いのかって」 「はあ?」 「なんっでそんな可愛いんだよもう俺をどうしたいんですか怒りますよ」 「なんっだそのキレ方は」 さっきまでの恐怖がまるで大波にでも浚われたように消え失せる。 そしてその後には大呆れとでも名付けたいような魚が打ち上げられてびちびちと跳ねていた。 酔いも一時どこかへ消える。 その酔いが白波を立ててさわさわと戻ってきたのを感じると、頭が回っているうちにと敬吾が口を開いた。 「びびらせんなよもー……目つきやばいぞ」 「敬吾さんが可愛すぎるのが悪いんです、なんですかあれはイヤイヤみたいに首ぶんぶん振っちゃって目ぇキュッてしちゃって涙ぐんでるじゃないですかなんなんですか本当、なににそんなへそ曲げてるんですか?可愛いからいいですけどねもうなんでも」 あわあわと敬吾が横槍を入れても逸は止まらなかった。立て板に水とはこのことである。 その内容のこっ恥ずかしさも相まって敬吾の頭の中はまたぐらりと揺れた。 酒気が一層強く寄せてきたようだ。 「ほんっと外であんな顔しないでくださいよ」 「わかんねえよ何ゆってんだよっ……」 「本気じゃないですよね?あんなそそる顔しといて?もう食って下さいって言ってんのかと思いましたよ。天然であんな顔するんですか怖すぎですもう外出せない」 「お前何言ってんどこ触ってんだっ!」 服の上から乱雑に胸をまさぐられて敬吾は反射的にその手を掴んだ。両手がかりである。 本格的に酔いが戻ってきてしまって、それでも手は足りなかった。 「ん、……っん岩井っ、なんなんだよもぉっ……………」 「それも分かんないで言ってるわけじゃないですよね」 冷たくあしらわれ、拘束していた手もやすやすと取り払われてしまって敬吾は更に取り乱す。 その手を敬吾の顔の横で磔るように握って体重をかけ、逸はぐっと顔を寄せた。 「敬吾さんを抱こうとしてるんです」 「っ…………………」 「いいですね」 涙と息とをどうにか飲み下した敬吾に、逸は更に顔を寄せる。 両手を封じられてそれを止められない敬吾は、真横を向いた。 逸の口元がぴくりと引き攣れる。 「敬吾さん」 「……やだ」 「やだ?」 「いやだ」 「……………」 すねた子供のような声音だが、顔はまさしくすねた子供そのものだった。 しかめられているのにあどけない眉根、泣きかけて赤い目元と鼻先、僅かに突き出されて震えている唇は固く閉じられている。 それなりの年齢になった人間ならば、こんな時にはきちんと話を聞いてやって優しく諭してやるものなのだろうが。 事実、いつもならばそうするのだが。 今の逸はもう、腹の中で熱い脈が重たく打って疼いて、どうにもそれを御することが出来なかった。 謝罪も後ろめたさも無しに、ぼんやりと敬吾を見つめたまま逸は敬吾の唇を奪った。 驚いた敬吾が肩で暴れるが、そんなところまで子供に戻ってしまったのか大した障害にならない。 子供相手にはふさわしくないキスを長々として顔を離すと、苦しかったのか敬吾は泣いてしまっていた。 「っ、ぅ……」 「敬吾さん……、ごめんなさい、」 その泣き顔も熱を冷ましてはくれなかった。 それどころか火をくべるようで、もっときちんと謝らなければ、慰めなければ、なぜ泣いているのか聞かなければと思う、思うのだが体が言うことを聞かない。 吸い寄せられるように敬吾の鎖骨に顔を寄せる。 酒と感情の乱れとで赤く上気している肌がどうしようもなくまた逸を狂わせた。 「やだって!言ってんっ、っもーなんなんだよっ!」 「ああもう……ごめんなさい、も、可愛すぎてダメですからそれ……」 ーー何が可愛いだ。 敬吾がまた綺麗なまんまるの涙をぼろぼろと零した。 それすらも。 「あー敬吾さん綺麗……もう、好きです、だいすき」 「なにがっ、すきだバカっ!やだって言ったくせにっ」 「んん……?」 もはや耳も利かなくなってきている。 自分の心臓の音がうるさすぎた。 「うわもう勃ちすぎて痛い……、敬吾さん逃げないでね」 敬吾の脚の上に座り込んで半ば体重をかけながら逸がスウェットを脱ぎ始めると、自由になった手で敬吾は逸の腿をばちばちとはたいた。 それがまた幼稚さに拍車をかける。 さすがに微笑ましくなってしまって逸は笑った。 「敬吾さん……もー、ほんっと可愛いなあ今日なんなんですかほんと」 「可愛いとか!言うなっつーの!明るいし!やだっつったくせにっ!重い!」 とにかく気に食わないことを羅列しながら敬吾はまだ逸の膝を叩く。 その手を捕まえて片手でまとめ上げ、逸は敬吾のシャツを一気にそこまでまくりあげた。 驚いたのか怯えたのか、むき出しになった敬吾の腹が大きく波打つ。 「…………やだってば!」 そう言われても逸は意に介さず敬吾の胸に顔を埋めた。 先端を愛撫されて敬吾が首を振る。 小さく漏れる喘ぎの合間に本格的な泣き声が混じってきて、さすがに逸が顔を上げた。 「敬吾さんーー」 「ぅーー……」 泣き濡れてしまっている顔に手を伸ばすと、思い切り顔を背けられた。 「……やっぱり何か怒ってます?そんなに?」 何か虫の居所でも悪かったのかと思っていたが、この泣きようはそう瑣末なことでもないらしい。 ぐるぐる渦巻く欲望と困惑がせめぎ合って、どうにか人間性の方に軍配が上がった。 逸はしばしそのまま敬吾を見つめている。 「……っだってやだってゆった、くせにかわいーとか好きとかっ、言うなばがー……」 吐き出すように言われて、逸は考え込んだ。 ーー「やだってゆった」。 そう言えば、なんだか何度かそんなようなことを言われた気がする。 「ーーーーああ!俺が、ネコはできないって言ったから………?」 それでこんなにもへそを曲げてしまっていたのか。 ーー分かるような、分からないような。 敬吾は顔を自分の腕に押し付けており、ぐすぐす言うばかりでイエスともノーとも言わなかった。 仕方がないので弁明をすることにする。 「えーっとでも、だからって敬吾さんを好きとか可愛いとか思わないってことではないですよ?むしろ可愛すぎて俺が抱きたいと思うのが爆発してるって言うか、あれ?これ合ってる?」 なんだかややこしくなってしまい、逸はしばし言葉の迷路に迷い込んでいた。 敬吾は相変わらず何も言わない。 逸が迷路の中をぐるぐるしていると、ゴールへのヒントのようなものにたどり着いた。 「……もしかして、俺に断られたのが嫌だった、とか?」 恐る恐る言ってみると、敬吾のぐすぐすが一時止まる。 「上とか下とかじゃなくて……… …………拒絶されたから腹が立った?」 この閃きが、果たして有益なものかどうか。 不安ながらも確信するような気持ちで逸は重ねて呼びかけた。 「敬吾さんーー」 敬吾の呼吸は半ば落ち着いている。 ここで訂正をしないのは誰にとっても良い結果にならない。 恥を忍んですっかり滲んだ声で敬吾は言った。 「腹立ったわけじゃ、ない」 「うん……」 「けど、わかんない」 「敬吾さん、それたぶん」 敬吾の腕を離し、そこからシャツを抜いてやって逸はティッシュを渡した。 「寂しかったんですよ」 「ぅ…………?」 思い切り鼻をかみながらそれを聞き、目も鼻も拭ききると頭も晴れる。 おずおずと逸の顔を見ると逸は面映ゆそうに笑っていた。 「俺にふられたとか、思っちゃったんですかね。そんなわけないのにもう」 今度は困ったように笑いながら逸は愛しげに敬吾の頬を撫でる。 ーーふられたと思った?寂しかった? そんなわけが。 逸が自らを過大評価したような言い様だがそれは横柄とも尊大とも思われなかった。 馬鹿にされている気もしない。 腹も立たない、悔しくもない。 自分はこんなに沸点が高かったろうかと敬吾は思ったが、きっとそうではないとも思う。 それは恐らく、逸の言ったことが事実で、そして逸の言ったことだからだ。 感情論ではなく事実だけを述べて、その上で不安になどならなくていいと綺麗に否定したからだ。 重箱の隅をつつくようなことを言えばはっきりと悲しかったわけではない、嫌われたと思ったわけでもない、ただなんとなくぼんやりと、気持ちが萎むような感じがしたーー 「…………わかんない、けどそうかも、どうなんだろ」 「うん……」 「ごめん」 「あはは、謝ることないですけど」 泣ききったからか、酔いはいくらか引いたようだった。 ふわふわと気持ちが浮いている気はするが、さっきまでのように頭の働きまで阻害されることはもうなさそうだ。 それだけに敬吾は首を振る。 「やー……ごめん。ガキか俺は〜……」 今更ながらに恥ずかしくなってきて、もう一度目元を拭き直す。 今度こそ頭を冴えさせたかった。 それを見て逸は笑う。 「いーんですって、酒飲んでる時くらい。敬吾さん普段が普段なんですから」 「素面のやつに見られてるってのがなあ……」 「俺は眼福ですよ?」 こんなに隙だらけで甘えたがりの敬吾が見られるのだから。 「ただまあほんと外ではダメですよあれ」 「それが分かんねーよ……」 それには何も応えず逸は困ったように笑う。 前髪を梳いて額を撫でると、敬吾の顔がふと緩む。 そこにくちづけて逸は言った。 「……してもいいですか?」 「ん、」 敬吾の表情が渋くなる。 「うぅんー……」 「あはは!」 照れ隠しにすっかり歪められた返事で逸が笑い、その割に余裕なく敬吾の腰を抱いた。 絹鳴りのような音に敬吾が眉根を寄せる。 「……っあー、もーやばいなこれ」 「?」 「なんかもうパンパン」 さすがに敬吾も笑う。 「お前なんでふつーに喋ってても萎えねーの?」 「えーっと、それはもう、すみません」 久方ぶりに、逸は恐縮して頭を下げた。

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