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飛んで火に入る 8

「岩居くーん、……おーい、岩居くーん?」 「んん…………?」 「講義終わってるよ〜〜」 「んぁ……」 敬吾が机に伏せていた顔を上げると、傍らには眼鏡をかけた細面の男が立っていた。 「ぁー、九条…… ……あれ?」 「授業終わってますよーって。お疲れだねえ」 「うわあ……マジで……」 渋い顔をして敬吾が額を擦ると、九条と呼ばれた男は朗らかに笑った。 「珍しいね、居眠り」 「んー、悪い……後でノート見せて……」 「いーよ。今日これで終わりでしょ?俺みこっちゃんと飲みに行くんだけど良かったらどう」 「みこっちゃん?」 「俺の高校んときの同級生」 「あー!命って書いてみことのな」 「そうそう」 以前、九条を通じて二度三度顔を合わせたことがある。 気取らなくて落ち着いていて、話しやすい男だった。 平素ならば行くところだが。 「んー、ごめん……今日は休肝日にする」 「ああ、そういや飲み会続いたっつってたねえ」 「うん」 まさかそのせいで昨夜痛い目を見たとは言えない。 「今日はまっすぐ帰るよ」 「そっか。んじゃまたね」 「ん。ありがとな」 ひらひらと手を振って九条は去って行った。 この、ちゃらついているのとは違う人柄の軽さが楽だった。 悪意はもちろん必要以上の好意も要求もなにもない。 ただただフラットで、気が向いた時だけつるんでいられて重さも何もない。 そう言えばしばらく付き合いがなかったなーーと考えて、外で飲みすぎるのはしばらく遠慮したいが食事くらいならそのうち誘ってみようかと考える。 考えながら、荷物をまとめつつ携帯のディスプレイを点灯させると。 逸からメッセージが入っていた。 『今日は寄り道しないでかえってきてくださいね!』 ーー全くこの男は。 執着心丸出しで、これと九条とは大違いだ。 そう思い、何につけ逸を基準に考えてしまう自分も大概だと敬吾は笑ってしまう。 つい昨夜は散々な目に遭わされたというのに。 「………………。」 なんと言うかもう、無駄な抵抗であるような気がしてきている。 ーープライドのようなものだとか、恥じらいらしきものだとか、意地に似たものだとか、とにかくそういう抵抗が。 少しでも逸の妨げになるのならともかく、あの男はものともしない。 と言うか、何ぞあるものと思ってすらいないきらいがある。 敬吾が必死に覆い隠しておこうと思っているところを、最初からそれしか見えていない。 その他の、敬吾が頼むからこれに目くらまされてくれと思って講じる偽造の真実もあからさまな虚構も、最初からきっと、無駄だった。 「…………………くそう」 ーーあの目が悪い。声が悪い。 やたらと人の気を抜かせるから。 だがその、今まで感じた覚えのない不思議な脱力感が、真実魅力的でもあった。 ごく単純に安心する。 必要以上に気を張る必要がないーー (……ああ、そうか) それなのに鯱張っていたのは自分か。 敬吾はため息をついた。 自分はとことん馬鹿なのだ、きっと。 もう一度ため息をつき、バッグを担いで歩きながら敬吾は携帯を操作した。 『夕飯なに』 返信は早い。 『カレーですよ!』 敬吾はまた笑ってしまう。 ーーこれだよ。なんで食いたいものが分かるんだ。 『なんかケーキ買って帰る』 反応が少々遅い。 きっと今頃、驚きと大喜びとで大わらわなのだろう。 その予想を裏打ちする、女子高生かと思うような返信が来たのを見届けて携帯をしまい込む。 (カレーならなんかさっぱりしたのがいいよな………) (さっちゃんに良い店教えてもらうか) 考えながら敬吾は不意にこみ上げたあくびに意識をばっさりと持っていかれた。 幸にメッセージを打ちながらも、この重たい眠気だけは、どうしても恨めしかった。 飛んで火に入る酔っぱらい おわり

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