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来し方 5
食事の載った盆を片手に、敬吾が桜の部屋のドアを叩く。
案の定と言おうか返事はなく、苛立ちを顕にもう一度、敬吾がノックする。
「おーい、飯っ」
「……………おとーさん?」
「なんでだ」
更に腹立たしく、半ば殴るようにもう一度叩くとやっとドアが開いた。
自分の声はそんなに老けているのかと少々傷つきながら、敬吾が部屋に踏み入る。
平素よりは若干散らかっているあたり、桜の精神状態を表しているような気がする。
「……ありがとー」
「ん」
一応礼は言えるらしい。
桜が味噌汁をひとくち飲んだところで敬吾は口を開いた。
「河野さん来てたぞ」
「!なんでっ」
「なんでって。心配してるんだろ」
「追い返してよ!」
「なんでだよ」
豹変する桜の表情に、敬吾は内心ため息をつく。
「何をそんなへそ曲げてんだよ。いい加減にしろっつーの、俺だってそろそろ帰りてえんだけど」
「帰ればいいじゃん、誰がいてくれって頼んだのよ!」
「父さんと母さんだよ!姉貴が誰にも何も言わねーでいるから俺を引き留めてんだろ、子供じゃねーんだから不満があるなら言えっつーの!」
「はあーー!!?誰が子供よ!!」
「子供だろうが!すぐ拗ねやがってどうしてもらいてえんだよ!!?」
「や、やりあってるやりあってる………」
「桜のテンションに付いていけるの敬吾だけなんだよなあ……」
「それでいて論点を見失わない辺りが凄いですよね、敬吾くん……」
階段下から雪だるまよろしく顔を並べて、その他大勢と成り下がった三人は小さく漏れ聞こえる応酬に耳を澄ませていた。
「いつまでもそうやって姉貴の機嫌が直るまで河野さんに我慢させとく気か?気の毒にも程があるわ!」
「うっ、うるさい!!!」
「俺だったらとっっっくに別れてるぞ」
「あんたと付き合ってるわけじゃないもん!」
「河野さんがそうなんない保証あんのか!傍から見てたらもう限界だわ!」
「ーーーーー」
ぐ、と桜が押し黙る。
般若のような表情から一転、子供のようにあどけなく泣き出しそうな顔になり、敬吾も一瞬躊躇うが。
甘やかすところではないと、むしろ気合を入れ直した。
「これで河野さんに愛想尽かされてみろ、他に誰か結婚してくれる人いんのか?絶っ対いないと思うぞ!」
「いるわよ!いるけどしないっマサ以外と結婚なんか!!」
「ーーーーー」
桜がぼろりと大きな涙を零す。
きめ細かい肌の上を、雫は跡も残さずにこぼれ落ちていった。
その予想外の美しさに桜の言葉が相まって、敬吾は言葉を飲む。
じゃじゃ馬の王様のようなこの姉が、女だったというか女性だったのだと、初めて知ったような気分だった。
これからどう話をしたら良いのか、一瞬分からなくなる。
その間、桜は本格的にしゃくり上げてしまっていた。
メイクは溶け始め、やはりじゃじゃ馬でもある桜が顔を擦るせいでその泣き顔はもはや美しくないどころかホラーじみていている。
「……いやいや、じゃあなんで」
絞り出すように敬吾がそう言うと、自分の涙に腹を立てたように桜は意地で呼吸を落ち着かせ、敬吾を見た。
「……………っ、分かってるよ、マサに愛想尽かされるかもとかっ、あたしだって思ってるもん!」
「…………………」
そう言われるとどう返して良いのか分からず、敬吾はただまた俯いてしまった桜のつむじを見ていた。
「……………マサ怒ってたでしょ」
「え、全然」
「嘘つきー!」
「なんでだよ、つーかそれやめろや期待した答えじゃないと腹立てんの!こじれるだろうが」
「……………」
「怒ってねえよ河野さんは、でも困ってたぞ。それが俺は腹立つんだよ、なんであんないい人困らせといて平気なんだよ。しかも自分でも怒らせたかもって思ってんじゃねーか」
「……………うう」
俯いたまま桜が唸る。
敬吾はため息をついたが、ほとんどが安堵から来る吐息だった。
「河野さんは優しいからそういうとこが好きとか言ってくれるかもしんないけどなー、それにあぐらかくのは問題が違うと思うぞ!姉貴のことだから『それで良いって言ったじゃん!』とか言うんだからどーせ」
「ううううるさいー!」
「図星つかれると怒んのもやめろっつーの!」
がばりと顔を上げた桜がまたきゅっと固まる。
ああ猛獣がやっと人間に戻ったと敬吾は思った。
「ちゃんと河野さんに謝れよ。俺は帰る」
桜のためのはずの緑茶を一気に飲み干して、そのコップは置いたまま敬吾は部屋を出た。
今は何時だろう、終電はあっただろうか。
考えながら自室のドアを引くと、控えめに呼び止められる。
「敬吾ー」
「え、なに」
「……………ありがとー」
「…………………」
敬吾が返事をする前に、なんとなれば振り返る前に桜はもう部屋に引っ込んでしまっていた。
流石に笑ってしまいながら、敬吾は急いで荷物をまとめた。
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