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来し方 8

逸が繰り広げるありとあらゆる妄想の中に、寝坊している敬吾を起こすというものがある。 優しく肩を揺すってやって、眠たげな顔を眺め、「おはようのキスは?」などとねだられて苦笑しながら応えーー ーーられるわけがない。もちろん。 敬吾がそんな甘ったるいことを言うはずがないのは無論、そんなことを言われて苦笑する余裕など無いのも言わずもがな、そもそも朝に弱いのは己なのだ。 敬吾が取り立てて早起きなわけではないのだが、大体は逸のほうが乱暴に起こされている。 のだが。 (ーーーー夢?) 今さっき目覚めた逸の目の前には敬吾の寝顔があった。 敬吾は今実家にいるはずなのだから、やはり夢か。 そう思って遠慮なく頬に触れると感触がやたら生々しく、逸はびくりと手を引いた。 「…………本物!!!?」 「ぁ………?」 掠れた逸の叫びに敬吾が目を覚ます。 逸が自然と起きるほどだから日はもう昇っていて、その目はすぐに眩しげに細められた。 「んんー……」 「敬……敬吾さん……?」 「んー……」 「えっ、……えっ?帰ってきてたんですか、」 「んん……………」 敬吾の意識はまだ覚醒せず、わしわしと髪を掻き回しながら枕に顔をこすりつけている。 逸は当惑しながらそれを見つめていた。 ぐっと猫のように敬吾の体が伸びて、埋まっていた顔が半分ほど逸の方を見る。 「………はよう」 「おはようございます………」 逸がぽかんと挨拶を返すと、枕に埋もれたままの敬吾が微苦笑する。 逸がぎくりと身を固めている間に敬吾はゆるゆると起き上がっていた。 「ぁーーー………、寝たー」 「敬吾さん……、いつの間に」 「ゆーべ……。なんでお前ここで寝てんだよ」 「あ、や……寂しすぎてつい……」 「ははっ」 敬吾に笑われて逸が赤面する。 その純朴な逸の顔を、敬吾が横目で舐めるように見据えた。 「お帰りもねーのか、忠犬」 逸が弾かれたように背筋を伸ばし、その顔が溶けそうなほど緩んだ。今にも泣き出しそうなほど。 「………お帰りなさいぃーー……」 「んー。ただいま」 大きな図体をして縋るように抱きついてくる逸を、敬吾は宥めるように抱き返した。 ぽんぽんと背中を叩いてやっているうち強くなる腕の力に、敬吾は息を呑む。 そのまま唇を合わせられ、敬吾が苦しげに逸の背中を掴んだ。 激しくなっていく呼吸が苦しい。 それを落ち着かせる間もなくまたきつく抱きすくめられ、敬吾は文字通り息も絶え絶えに逸の肩に押し付けられた鼻と口を脱出させた。 「敬吾さん…………っ」 「ーーーーーー」 その声があまりにも切なかった。 敬吾とて会いたくないと思っていたわけでは決してないが、ーーそれほどまでにかと。 なんだか愛しく、可哀想になって敬吾が逸の頭を撫でてやる。 しばしそのまま、図体ばかり大きい子犬のようで可愛らしいと敬吾は思っていた。本当に。 だがやはりと言うべきか、徐々に始祖帰りし始めた逸の手が敬吾の素肌を探り始めた。敬吾が眉をひそめる。 「…………こら」 「……………」 「無視すんな。やめろって……今からはダメだ」 きっちり釘を刺され、それでも名残惜しく引くことも押し通ることも出来ず、逸は敬吾の首すじにつけたままの唇を僅かに開いた。 「駄目ですか……?」 「………、駄目だ、午後から講義あんだよ、シャワー浴びてから出たいし」 つまるところ時間がない。 こんなにも濃く発情っ気を発散させている逸に今手早くしろといったところで我を忘れないわけがない。 それを自分でも分かっていて、しかしやはり離れ難く敬吾を放せない。 それをまた敬吾も分かっていた。 「……岩井。いい子だから」 「………………」 きゅっとむずかるような顔をして、それでも逸は動けなかった。 頭では敬吾の言うことを分かっている。 分かっているし、腕を解こうともしているのだが金縛りにでもかかったように動けない。 ただただその場で、右にも左にも上にも下にも動かないまま、筋肉が緩急だけを繰り返す。 理性と本能の綱引きのように。 その逸の葛藤がじりじりと伝わってくるようで、敬吾が危うげに目を細めた。 逸の呼吸が早まっている気がして、また剣呑だ。 「岩……」 「ーーごめんなさい、もう少しだけ」 敬吾がぐっと言葉を飲む。 その首すじを僅かに食んで、逸が更にきつく敬吾を引き寄せた。 敬吾は食われているような気分になる。 逸も概ね同じような気持ちだった。 このまま押し倒してしまいたいのはもちろんなのだが、ここ最近の敬吾不足はもっと深刻だった。 抱けないどころか、触れられない、話せない、見ることも出来ない。 そこへ本体が急に現れては、こうして触れているだけでも幾らか腹が膨れるような気すらする。 自分の限界を見誤らないよう鎖骨に舌を這わせる。 敬吾が小さく呼吸を詰め、そして漏らした。 その音からも滋養を拾うように耳を澄ましながら、そのまま強く吸い上げる。 ーーこの辺だろうか。 そう思った時、敬吾が逸の肩を押す。 その手は弱々しかった。 「ーー岩井、」 「はい……」 従順だが名残惜しそうに逸が顔を上げる。 敬吾の頬が上気していて、何も考えず引き寄せられるようにくちづけた。 「っ……………」 今度は強く肩を押され、またも素直に逸は従った。 泣き出しそうになっている敬吾の顔を両手で包み名前を呼ぶと、しばらくして絞り出された声も泣き声のようだった。 「っ、だめだ、ひっこみつかなくなる、だろ」 「………………」 つかなくなってくれればいいのに…………。 心底そう思いながら逸は僅かに距離を取る。 だがやはり、体に生気のようなものが戻った気がする。 もちろんもっと触れていたいけれども一日くらいはどうにか我慢できそうだ。 「……敬吾さん、学校の後は?」 「ぅ、店にちょっと……かおだす、シフトもきめないと」 「うん……、その後は?」 「帰って……くるけど……」 困ってしまっているような表情が可愛らしくて、逸はまたその頬に耳にとくちづけた。 「夕飯、何が良いですか?」 「っ、なんでもいい……あの、ありがとな、作りおきとか……」 「いえ……」 平静を保とうとする様子がまた可愛らしい。 どうしてこんなに緊張しているのだろう、人見知りの幼子のようだ。 逸には少し余裕が出来て、笑ってしまう。 「豪華なの作っときますね。俺今日早いんで」 「ん、うん」 「その後は?」 「へ、」 「ごはんの後は?俺、良い子にして待ってましたよ」 「うんーー っあ、っ……!」 胸の先を擽られ、思わず声を零した敬吾が音を上げた。 「わ、かったわかったっ、よ、夜な!遊んでやるから待ってろって……!」 「んん」 曖昧に頷き、分かっているのか疑わしい様子で逸が敬吾のうなじをつかまえる。 ゆったりと唇を食まれ、所在なさげに敬吾も瞳を閉じた。 危うい激しさのようなものはなく、温かいが鼓動の早まるそれに浸ってしまいたい気持ちもあるが、そうも行かない。 冬にこたつから出なければいけないような心持ちで敬吾が覚悟を決めると、時を同じくして逸が柔らかくそれを切り上げた。 その優等生ぶりと自分から腰を上げずに済んだ脱力で敬吾が小さく瞬く。 「んんーーーーー…………!」 さっきまでのしっとりとした雰囲気はどこへやら、伸びでもするように唸りながら逸ががばりと抱きついた。 「はー、もう……もー………」 「………………」 「…………ダメだな、切りないですね。ご飯にしましょーか、時間すごい半端だけど」 「ん……」 「んじゃ、作っとくので敬吾さんシャワーどうぞ」 言いながら敬吾から離れ、その頭をやや乱暴に撫でながら逸が言う。 そして、思い切るようにベッドから降りた。 その後ろ姿が妙に哀愁漂っていて敬吾が違う話題を探す。 「……あ、作んなくてもあるものでいいぞ。俺も実家から色々持たされてきたし」 「え!敬吾さんのお母さん作ってことですか?」 「え?うん」 「俺もそれ食べていいんですか?」 「そりゃそうだろ」 「えーーやったーー!」 随分と嬉しそうな逸を不思議に思いつつ、まだうきうきしている逸をよそに敬吾はシャワーを浴びた。 そして、戻ってきた時には逸がなぜか萎れていた。 「……え、なに、オバケでも出たか」 「いえ……、……あーやっぱダメだな」 「?」 わしわしと髪を拭いている敬吾をちらりと見て逸がため息をつく。 「俺……自分の部屋で食いますね。敬吾さんのは温めてありますんで……お母さん作のやつ、半分もらっていいですか」 「いいけど、ほんとどうした、具合悪いのか?」 「いえ、目に毒なだけです」 「?」 なにやらもじもじと引っ込み思案然として敬吾の方を見ず、話も要領を得ない逸を敬吾はただ怪訝げに眺めていた。 自分が妙にたくさん瞬きをしていると気付いた頃、逸が意を決したように続ける。 「手ぇ出ちゃいそうなので」 「……………。」 「あっ、夕飯俺の部屋に来て下さいね、今日オーブン使うので………」 「分かった分かった」 中学生のように赤くなって取り繕う逸を面白おかしい気持ちで見つめ、その忠犬ぶりに、後で褒めてやらねばと思いつつ敬吾は逸を見送った。

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