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来し方 9
『ちょっと遅くなる。閉店まで手伝うことになった』
「……………ですよね」
敬吾に返信し、小さくさっぱりとため息をついて逸は携帯を置いた。
予想はしていた展開だった。
これは後で敬吾くんに聞かなきゃー、と篠崎が後回しにしていた仕事がたんまりと溜まっていたはずである。
さほど落胆することなくまた調理途中の夕飯に向き直って、今度は大きなため息をついた。
ーー気合を入れすぎただろうか。
以前敬吾が美味しいと言っていた蒸鶏と香味ソース、温野菜、ラザニア、土鍋で炊いたご飯は少しバターを絡ませる予定だ。
「重いか……?」
汁物をさっぱりしたものにしようか、水菜や三つ葉なら歯ざわりもいいしーーと考えたところで、逸は苦笑した。
本当に、はしゃぎすぎだ。
けれども仕方ない。
あと二時間もすれば敬吾が帰ってくる。
腹の底から背中がぐっと縮むようにざわつく。
背中を丸めて逸は顔を擦った。
「あーもう……触りたい……」
こんなに食事を作ったはいいが、食べ終わるまで我慢できるだろうか。
顔を見たらその瞬間に決壊してしまいそうな気もする。
(まあいいか………)
努力はしよう、ゆっくり夕飯を食べて、片付けをするまでは。
ーーけど、頑張ってもダメなものはきっと敬吾は許してくれる。
生唾を飲み下し、下ごしらえの済んだ食材を眺める。
敬吾がまだ帰ってこないなら火を入れるわけにも行かない。
先にシャワーでも浴びようかと、逸はエプロンを外した。
「ねえねえ敬吾くんってワイン好きだっけ?」
「好きでも嫌いでもないですかね」
「んじゃ今日これ皆で飲まない!?佐藤さんがくれたんだけどさ、すーげー旨いの!」
「え、」
篠崎がきらきらと輝く笑顔で足元から瓶を取り上げた。
そこへ幸もやって来る。
「お?なになにワインですか、いいなー」
「さっちゃんも飲みたいよねえ、敬吾くんちで」
「俺んちー!?だっ、だめですよ俺今日予定ーー」
敬吾が泡食っていると、幸がじろりとそれを睨む。
あまりに珍しい表情に敬吾が言葉を飲んだ。
「たまにはいいじゃないですか!敬吾さんはいっつもそーやってあたしたちの相手をしてくれない!」
「そうだそうだ!」
「今回あなたの穴を埋めたのは誰ですか!」
「そうだそうだ!」
ーーほぼ、逸である。
少なくとも篠崎ではないが、幸に言われると敬吾も弱い。
しかし。
今か今かとご主人の帰りを待つ犬が、今まさにそわそわしているであろうわけでーー。
「い、いやいやいやいや……ほんとに俺…………」
「敬吾くんちなら逸くんちも同じアパートだし。ちょうどいいよねぇ」
「ですよねぇ」
逸にまで話が及んで敬吾は更に浮足立った。
まずい、本当ーーーーーにまずい。
いくら逸が忠犬で、敬吾に絶対服従しているとはいえ。
それは不満や我慢を飲み込んで敬吾を優先しているという意味で、何も不愉快に思わないという意味ではないのだ。
朝の様子を見るにつけそれもそろそろ限界を迎えるのではないかと、ただでさえ敬吾は冷や冷やしていた。
今日何事もなく帰ったところで、指の一本や二本は食われるのではないかと思っていたのにーー。
「ぁ………あの、ほんと今日は……えっと俺、」
「嘘でしょ」
「えッ」
「敬吾さん嘘下手なんですってー、もー」
「だよねぇ」
「えぇっ?」
「よし今日は敬吾さんちで宴だ!」
「だ!」
「えーーーー…………ちょっとー、もー………ほんっとに…………」
根が善良なのか実際敬吾は嘘が苦手だ。
幸と篠崎の波状攻撃をやり過ごせず、両脇を二人にがっちりと固められ、逸に予め謝っておくこともできずに、グリーンマイルでも歩く気持ちで敬吾はアパートへと帰った。
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