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来し方 10
ーー敬吾からの連絡がない。
逸は少々不思議に思っていた。
普段なら、几帳面な敬吾らしく「今から帰る」やら「少し遅くなる」と一言先に連絡が来るのだが。
(珍しいな)
呑気にそう思いつつ、とは言えそろそろ着いていてもいい時間でもある、夕飯の仕上げに入ってもいいものかどうかとそちらはやや深刻に悩んでいた。
オーブンの予熱くらいはしておこうかと思ったところで、チャイムが鳴る。
合鍵を持っている敬吾ではないということだ。
気持ちばかり返事をしつつサムターンを回しドアを開ける。
「ーーえ、敬吾さん?」
ーーと。幸がいた。
「えぇ…………!?」
「こんばんはー!」
「え、え?さっちゃん?なんで?」
この上なく苦々しい顔をした敬吾の後ろにやたら楽しそうな幸。その更に後ろには篠崎までいる。
「えええぇ店長も、えぇぇ??」
完全にとっ散らかってしまう逸に、テンションの高い幸と篠崎。それと反比例するように敬吾はどんどんと暗くなってしまっている。
「敬吾くんちで皆で飲むんだよ、逸くんも行くよ!」
「………………え?」
真顔に戻った逸に、敬吾がビクリと固まった。
そのまま何度か瞬きをした後、逸が敬吾の方にぎしぎしと顔を回す。
「そういうことに………なりました…………」
「………………」
「ほらほら行くよー!」
「えっちょっ待っ、す、ストーブ消したら行きますから!」
「んじゃ先行ってるよー!」
言うなり幸と篠崎は家主を置き去りに歩きだした。
置き去りに、というか敬吾は意図的に歩みを遅くしている。そこへ戸締まりをした逸がやってきた。
幸と篠崎が階段を下り出し、逸と敬吾は踊り場で足を止める。
「………………」
「ご、ごめん……」
逸としてはまだ驚きが大きすぎて展開について行けていないのだが、あまりに素直に甲斐甲斐しい顔で敬吾が謝るので、逸はありもしない毒気を抜かれてしまった。
「……そんな顔されたら許すしかないじゃないですか、もう」
「う、」
指の背で敬吾の頬を軽く撫でると、そこが僅かに赤くなる。
抱きしめたい、と体がざわついたがーー
ーー階段の下から、呼ばわれてしまう。
「敬吾さーん鍵開けてぇ〜」
「う、はいはい」
困ったようにちらりと逸を見上げてから、敬吾は小走りに階段を降りていった。
そのあどけないような一瞥もまた初めて見る表情で、どうしようもなく胸が騒ぐ。
騒ぐが、騒ぎっぱなしだ。
どうすることもできない。
諦めて逸も階段を降りた。
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