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来し方 15
瞼の端が照らされて、薄く瞳を開く。
目の前にはファミリーサイズの冷蔵庫があった。
壁に凭れて座ったままの体は壁にも床にも体温を奪われていて固くなっている。
手の先、脚の先からゆっくりと動かすと何か固いものに触れた。
ーー薄い緑の小瓶。
そこから我が身に視線を振ると。
半端に脱がれたズボンと下着、傍らには脱ぎ捨てられたニットーー。
「………ぇ」
声がすっかり嗄れていて驚き、咳払いをする。
寝起きだからとは思うが、それどころではない喉の乾き。
と言うか、体全体が煮詰められてどろついているように感じた。
必死に記憶を辿って、このぶどうが描かれた小瓶はもしや自分が飲み干したのかと、逸は一気に青ざめた。
「敬吾……さーん……?」
もう日も昇っているのに、寝室をノックしても敬吾の返事はなかった。
そもそももしかしたらいないのだろうか。
小さく呼びかけてみてもやはり梨の礫である。
ごくりと空唾を飲み下し、意を決してドアを開けてみる。
隙間から覗いたベッドは膨らんでいた。
「………敬吾さん?」
もう一度呼びかけても返事はない。
泥棒のような歩みでベッドの傍らに立ち、数秒じっとしていてから逸はそろりと掛け布団に手をかけた。
指の背には敬吾の髪が触れる。
息を殺して布団を持ち上げると、そこにあったのは当然、向こうを向いた敬吾の横顔だった。
横顔だったがーーーーー
ーーーーー虚ろに目が開いていた。
「ーーーーーー!!!?」
腰を抜かしそうなほどに驚いて、逸はかろうじて飛び退ることなくその場にとどまった。
それでも膝が抜けて姿勢がやや斜めに低くなる。
「けっ敬吾さんっ起きて…………!?」
「………………」
「おおおおはようございますっ…………!」
まさかまた敬吾の顔に布団を被せるわけにもいかず、ぎこちなく布団を持ったまま逸は敬礼でもしそうな勢いでそう言った。
敬吾はそれを黙殺する。
数時間こうして横になっていたはずだが全く回復している気がしない。
目こそ閉じては見たものの眠れたとは思えなかった。
逸が起き出した音も同じ意識線上に聞いていた。
未だぼんやりとシーツの皺を眺めている敬吾に、さすがに逸が不安と困惑が入り混じったような顔になる。
「……敬吾さん?大丈夫ですか?」
「………………」
「………あの、もしかしてあのワイン俺飲みました…………?」
敬吾がむくりと起き上がった。
荒くれ者のような粗雑さでベッドの上にあぐらをかき、不愉快そうに髪を掻き上げる。
「…………覚えてねえのか」
「えっと……………は」
い、と言う前に、敬吾の手の甲が逸の頬を鞭打った。
ごく一瞬だが激しく視界と平衡が乱れ、逸は見事にすとんと片膝をついた。
そのまま呆気にとられてころんと尻をつく。
「いっーーーーーー!」
「ばっかじゃねーのお前……最悪」
覚えられていても困るが。
無表情に吐き出して敬吾がベッドから降りると、逸が慌てて立ち上がろうとする。が。
「うッ、」
その肩を、敬吾が思い切り踏みつけていた。
これはさすがにーーーーー
一体何事だと、青ざめつつも焦った顔で逸は必死に敬吾を見上げた。
「あの………っあの俺なにか」
「うるっせえんだよ喋んな出てけしばらく顔見せんな」
「ーーーーーーーー」
蹴りつけるようにその肩を開放すると敬吾は台所へと向かい、逸のニットとキーケース、携帯を拾ってドアから通路へ放り投げた。
「ちょっーー」
「おら出ろ!」
「ーーーーーーー」
半端に立ち上がったまま逸は敬吾の顔を見上げた。
視線は冷たい。
付き合う前も、好きだと伝える前にもこんな目で見られたことはない。
本気で声を荒げることなどほとんど無いから、これほどまで怒りに満ちたがなり声も初めて聞いたーー。
本当に、本当に本当に怒らせてしまっている。
いつものように呆れていたり窘めているのではない。
これはもう、今の自分が何をし何を言ってもきっと駄目だ。
時に冷たく感じるほど公平で秩序を重んじる敬吾がここまで感情的になってしまっては。
その場しのぎの謝罪もきっと逆効果だろうし逸としてもそんな不誠実なことはしたくはなかった。
まるで時が止まったように感じる。
一秒足らずの間にそこまで思い至って、逸は静かに立ち上がった。
敬吾が僅かに緊張した気がする。
諸手でも上げたい気分だ。
「………………はい」
逸が神妙に玄関を出ると、すぐに錠のかかる音がした。
投げ捨てられていたニットをばふりと体に落として、階段を登る。
ドアを開けてすぐの台所には、昨日食べられなかった食事が仕上がることも出来ず誰の目にも触れないままに取り残されていた。
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