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来し方 16
逸を叩き出してからすぐ、敬吾はその足で風呂場へ向かった。
鏡には疲れて荒んだ顔の自分が映り、その首元には鮮やかに赤いうっ血痕がある。
壁に手をつくと手首も僅かに青黒くなっていた。
その近くには歯型もあってーー
ーーこれはもしかしたら自分で噛んだのかもしれない。と言うかそうだろう。
眠れなかったせいで黒ずんだ目元に熱い湯を掛けながら顔を擦り、敬吾は首を振った。
散々だ。
このやたら強く付けられた痕が消えるまでは嫌でも昨夜のことを思い出すのだ。
馬鹿で無力な自分と、冷たくて理性など欠片もない逸のことを。
ーー腹立たしい。
体中に残る逸の痕跡をできるだけ強く洗い流し、半端に残っているリビングのゴミやら皿やらを跡形もなく片付け、それが終わるとすぐに部屋を出た。
取り残された食事たちはとりあえず後回しにして、逸もまた風呂場に入った。
お湯と一緒に排水口へ流れてしまいたいような気持ちで頭の上からシャワーを浴びる。
少し含んで吐き出すと赤茶けた血が細く流れていった。さっきの一撃でどこか切ったらしい。
それでもあれが拳でなかっただけましなのだろう。あの威力で裏拳など食らっていたら、それはもうーーー
(……………何したんだろう俺)
敬吾はよく怒る方だが理不尽なことは言わない。
筋道だったことしか言わないしそれで自分が間違っていればごく当然に謝罪もする。
こちらが折れれば許してくれる。
そういう人間があそこまで怒るということはーーーー
(それっくらいのことをしたっつーー…………)
絶望的な気持ちで肘までをぺたりと壁に付け、その間に頭を埋めた。
この季節に半裸で寝ていてすっかり凍えた体が徐々に温まっていく。
ガス代も水道代も考えられずかなり長いことそうしていると、温度差からか頬が火照ってきた。
ーーそうだ、昨夜もこんな感覚だった。
一生分かと思うほど心臓が狂い打っていて、体が熱くて。
それなのに気持ちの芯は全く動かなくて、冷え切った興奮とーー
ーーあれはなんだったろうか。
気が触れそうなほどの、敬吾への執着。
支配欲のような、独占欲のような…………
熱いはずの肌にぞくりと悪寒が走る。
ああ、やってしまった。
必死で手繰り寄せた昨夜の記憶が、勢い余って襲いかかってくる。
淋しくて、触れたくて、他のものはもう邪魔なほど。早く二人だけになりたくて、同じように思っていて欲しくてーーーー
「……………捨てられるわこれ…………」
ずりずりと壁伝いに逸はしゃがみ込んだ。
水源から離れたシャワーは温く、体もまた、冷えてしまっていった。
来し方 おわり
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