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行く末 10

「腹減った…………」 目が覚めて、開口一番敬吾は宣った。 起きる前から既にそう思っていた気すらする。 思い返せば昨日は部屋に帰った時点で空腹だったのだ。 そのままこの部屋に来てしまったのだからそれはもうーー 「うー……」 その先は、思い出さないことにしよう。 僅かに赤らんだ顔で平和に眠る逸を見下ろし、頭を振ってベッドから降りる。 なんでも良いから腹に入れたかった。 よろよろと台所まで行き、小さい冷蔵庫を開けてみるがーー 「なんっもねぇ…………」 見事なまでに空である。 慰め程度に置いてあるのは調味料類と飲み物だけだった。 そうなると、自分の空腹はさておき昨日まで逸がどうやって暮らしていたのかも不思議になってくるほど空だった。 冷凍庫にもめぼしい物はなく、敬吾はよたよたとベッドまで戻る。 「いわいー……」 「んん…………?」 逸はいつも通りに寝覚めが悪く、眉根は寄るものの瞼はひとつばかりも動かない。 「はらへったー……」 「んー……敬吾さん……?」 珍しいことに比較的早く意識を取り戻したようだ。 それでも会話が出来るほどではなく、間抜けなほど幸せそうに目尻を下げて敬吾を見ている。 「おはよーございますー……」 「なー、腹減って死にそーなんだけど……なんかないかー」 「んー……?」 「おーい……寝んな……頼む……」 やはり幸せそうに目を閉じてしまった逸を、敬吾はがっくり肩を落としながら揺する。 空腹が行き過ぎて吐き気まで催していた。 そして昨夜の自分を呪う。 思い出したくはないがーーあれだけ体力を消耗したらそれはもう腹が減って当然だ。 「岩井ぃ」 どうしたら起きるのだ、この男は。 敬吾が惰性で揺すり続けてはいるが、力ないそれがまた揺りかごのようで心地よく、逸は本格的に寝入ってしまっている。 とは言え一度目覚めた意識は、薄い夢のように昨夜のことを再生していた。 深い闇の中に満ちる淫らな空気と、乱れきった敬吾の声、汗ばんだ肌、絞り尽くされるような感触ーー くらりと熾火のような興奮が熱を取り戻して、急に目が冴える。 頭を起こすと、床に座り込んでベッドに上半身を預けた敬吾がぐるぐると腹を鳴らしていた。 「えっ?……敬吾さん?腹鳴ってる?」 「鳴ってるよすげー鳴ってるよなんでお前んちなんもねーの……死ぬ……」 「おわ……それはマズイ」 敬吾の腹を空かせるとは、と自らの不覚を恥じながら頭を撫でてやり、逸は慌ててベッドを降りる。 冷蔵庫も冷凍庫も、確かに何も入っていなかった。 「うわぁ……そうだった、えーっとどうしよう」 その間も敬吾は死んでいる。 その背後で逸はばさばさと服を着始めた。 「俺なんか買ってきますね、敬吾さんとりあえずこれ飲んでて下さい」 「う……?」 言いながらもレンジから取り出したマグカップをテーブルに置き、逸は出掛けて行った。 敬吾がぼんやりとテーブルを振り返った頃にはとっくにいない。 小さなスプーンのささったマグカップには、ほくほくと湯気を立てる牛乳が入っていた。 軽く混ぜて唇をつけると、蜂蜜でも入っているのか優しいクリーム色をしていてほのかに甘い。 「うまー……」 胃が縮まるほどの空腹に滋養が染み渡るようで、きゅっと目を瞑りながら敬吾はその恩恵を味わった。 そうすると一気に人心地がつく。 甘いものを摂るだけでこうも体が楽になるものか……。 そうして初めて、逸が出掛けて行ったことを知覚できた。 (なんか買いに行くっつってたか、悪いことした) シャワーも浴びず、あんな偽りなしの起き抜けに。 朝に弱い男が。 合間にホットミルクまで用意して。 ーー困ってしまう。 (良いやつだよほんっとに……) どうにか平常心を維持できる言葉に置き換えて敬吾がしみじみ牛乳を飲んでいると、外で足音がした。 まさかさすがに逸ではあるまいが、敬吾は慌てる。いくらなんでも帰ってくるまでこの格好でいる訳にはいかない。 (シャワー借りよう……) どこまでも甘える形にはなるが、仕方がない。 これもまた勝手にクローゼットから自分の服を出し、できるだけ急いでシャワーを浴びると上がった頃にはちょうど逸も帰ってきたところだった。 「おう、お帰り……悪いな、ありがと」 「いえいえ、敬吾さん死にそうでビビりましたよ」 最大程度の大きさのレジ袋を2つ提げ、逸が足でドアを閉める。 「敬吾さん食ってて下さい、俺もシャワーしてきます」 「いやそれは待ってるけど」 「えー」 そうは言いつつも嬉しげに笑って敬吾の額に口付けると、逸は機嫌良さそうに風呂場へと向かった。 (……あんな顔久しぶりに見たな) そもそも、ここのところ顔自体見ていなかったのだ。 ーー見られて良かった。 そう小さく思うのは、レジ袋をガサガサ言わせることでなんとか掻き消してやった。 逸が出てくるまで、弁当や惣菜を温めつつ嵩張る袋や箸のたぐいを始末をする。 と、出るわ出るわ。 飲み物、インスタントの味噌汁、アイス。この辺りまではまだわかるが、菓子類やらコンビニスイーツやらホットスナックやらが山ほどーー。 「アメリカ人かよ」 呟いたところに、風呂場のドアが開く。 「早いな」 「俺も腹減っちゃって」 苦笑いしている逸を振り返ると、敬吾がかちりと動作を停めた。 髪を拭き拭き、腰から上は何も着ずに出てきた逸の首筋やら胸やら、赤い点が散らばっている。 (うーわ……全然覚えてねえー……) ふいと手元に向き直る敬吾に、何も気づいていないらしい逸が背後から伸し掛かった。 「すげー適当に買ってきちゃってーー」 「うぉおっ、」 「へ?」 抱え込むように温め終わった弁当に手を伸ばされ、敬吾が仰け反る。 逸はきょとんとその顔を覗き込んだ。 「あっご、ごめん」 「ーーーいえ」 すっかり赤くなってしまった敬吾の頭を撫でてやり、からかうのは思い止めて逸は弁当を運ぶ。にやけてしまいながら。 あまり刺激せずに、思う存分愛でさせてもらおうーー 敬吾の方は、とりあえず追及されなかったことに心底安堵していた。 とにかく空気をリセットすることにする。 「お前これこんなに食うのか?ティラミスとかプリンとかロールケーキとか」 「食いますよー!敬吾さんは?」 「俺甘いものそんなにだし。アイスは食う」 まずは食事だと飲み物やサラダを持って敬吾もテーブルに着くと、これだけでもかなりの質量だと改めて思う。 その訝しげな顔を見てか、シャツから頭を出しながら逸が続けた。 「最近食欲なくて、あんまり食ってなかったんで。一気に腹減っちゃって」 「え、ああーー」 困ったように笑いながら逸が手を合わせ、それをぱちくりと敬吾が見つめる。 ーーだから冷蔵庫に買い置きがなかったのか。 「ーーごめん?」 「いやっ!敬吾さんが謝ることではないです全然」 「まあ、うん」 「はい。自分一人の分作るのもめんどくさいし。まーもう自堕落でしたよ俺」 その頃よりは大分ましなのだろう、が、コンビニの弁当など食べている今も随分やさぐれて見える。 敬吾からすると、逸の自炊はかなり次元の高いものだった。 外食でなければ全て自炊、肉を焼いただけでも卵を茹でただけでも自炊ーーという敬吾の認識からはかなりかけ離れたもので、きちんと調理されているし食材にも偏りがない。その男が。 (コンビニ弁当食ってるよ………つーか……) 「これこんな味だったっけか」 「はい?」 「腹減ってるから美味いには美味いんだけどさ、なんか……なんだろこのー、なんか灰色い味する〜」 「はい…灰色!?」 「分かんないか、なんかこー……薬っぽい?じゃないけど、うーん……」 「んー……」 首をひねりひねり、塩ダレのかかった肉を噛んでいる敬吾を逸はぱちくりと眺めている。 「まずいわけではないんだけど」 「はあ」 「やっぱお前の飯のほうが美味いわ」 「!」 「まー手作りとコンビニ弁当比べるのもあれだけどさー」 「敬吾さん待って鼻血出ちゃう……」 「え、なんでだよ……」 惚気でもリップサービスでもなく率直な感想を述べただけのつもりだった敬吾はたじろぐ。 「なんでそう全部ちょっとやらしく取るんだ……」 「だ、だって昨夜っから敬吾さんめっちゃサービスしてくれるから、フィルターかかっちゃってもう……」 「うっさい!」 「はー、やばいやばい」 大仰にうなじを叩きながら、赤面してしまった敬吾を見つめて逸が微笑んだ。 「敬吾さん今日休みですよね?予定無かったら今度こそちゃんと飯作りますよ」 「あーー、休みだけど予定はある」 「なんだぁ……」 逸がわざとらしく頬を膨らませて見せると、敬吾は少々恐縮したようにそれを窺い見る。 「まあ……この間車で帰ってきたから、返しに行くだけだけど……それだけでいいなら一緒に行くーー」 「行きます。」 「はっや」

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