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第10話
「どうだ?」
離れていく唇をぼんやりと目で追っていると、それが動いて蒼の声が降ってくる。
何か答えなければ……と思うのに、鉛が詰まったような頭が上手く機能せず、ただ喘ぐような吐息だけが漏れた。
蒼は、綾の唇の端に受け入れきれずに零れた水を、指先でぐいっと拭うと
「もうちょっと飲むか」
返事を待たずにまたボトルを煽ると、再び唇を押し付けてきた。
「ぁ……っんむ……」
咄嗟にもういいと拒絶しようとして、でも蒼に首の後ろをガシッと掴まれて、否応なしに唇を塞がれた。
冷たい水が乾ききった喉を潤していく感触は、とても心地よいのに、綾の心臓はドキドキとうるさく鳴り続け、顔がかーっと火照ってきた。
……キス……されてる……蒼に
実際、これはキスじゃない。
色気もへったくれもない救護活動だ。
だんだん霧が晴れてきた自分の脳みそが、今起きていることを正確に把握し始めている。
だが綾は、蒼が顔を起こすたびに視界に入る、小さな太陽のような向日葵の煌めきに惑わされて、どこか現実離れした空想に陥っていた。
蒼の大きくて少し厚めの男らしい唇。
何度、欲しいと、願っただろう。
遊び疲れて先に眠った蒼の顔をそっと覗き込み、せつなさに胸を焦がしながら、触れる寸前まで自分の唇を近づけた。
触れることは、出来なかった。
それだけはしてはいけないと、わかっていたから。
風を受けた向日葵が、陽射しを身に纏って、静かに揺らめいている。
過ぎ去りし日々の甘くて苦しい思い出の全てが、音のない映像のように脳裏を流れていく。
鼻の奥がツンとして、綾はきゅっと目を瞑った。
泣くのはダメだ。そんなのはおかしい。
離れた唇がまた甘い蜜のような水を蓄えて、綾の唇を優しく押し包む。
泣いてしまいそうなのはきっと、蒼がくれるその水のせいなのだ。
綾は、夢と現の狭間で揺れ惑う自分の思考に、必死に言い訳をしていた。
……蒼に、キス、されてる
この、夢みたいな錯覚が、永遠に続いてくれればいいのに。
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