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第2話

「松本主任は、ご自身の希望で掛け持ちをされているのですか」 長い廊下を歩きながら聞いた。 宴会と事務を掛け持ちする人は聞いたことがない。 と言っても、社会人になりたての俺にはホテル業界の一も二も分からないが。 「あーうん、そうだ。俺のことは"松本さん"って呼んでくれないか? それから、敬語もそんなに堅苦しくなくていいし」 「……いや、あの、仕事なので敬語は」 「従業員間で堅苦しくても窮屈じゃないか? 君はまだ若いんだし、もっと気楽に仕事をしたら良いよ」 余計なお世話だと、言ってしまうところだった。 「分かり、ました」 「あ」 突然、目線が交わって思考が停止した。 松本さんの指が髪に触れた瞬間、ビクッと肩が跳ねて顔を逸らした。 「ッ……」 「ごめん、髪にホコリが付いてたから」 「大、丈夫です。早く、仕事を教えてください」 「あ、あぁ。行こうか」 逃げてしまいたい。 あんな、髪に手が触れただけで。 変に思われていたらどうするんだよ。 俺の焦りとは裏腹に、時計の針はゆっくりと一定のリズムで動いていく。 事務所の窓際、今日から俺専用の席だと案内されたデスクに腰を落ち着かせた。 だが、隣に松本さんがいるだけで妙に鼓動が荒れている。 「家はどこら辺?」 「駅のすぐ近くです」 「へえ、近いのか。なら通勤は問題ないな。このデスク好きに使っていいから、何も遠慮はしなくて良いぞ」 「はい……」 ここを離れたい。 バレて、いないよな。多分、大丈夫。 「ああ、そうだ。休憩中は基本何しても良いけど従業員専用の休憩室があるから、案内しておこう」 「休憩室……って、喫煙ですか」 「いや? 館内は完全禁煙だよ。もしかして煙草ムリ?」 「嫌いです」 「即答……よく分かったよ。この職場を選んで正解だな」 「……」 兄が吸っているから嫌いだ、とは言えなかった。 この人には、関係ない。 「ここが休憩室。結構広いだろー?」 30畳ほどの部屋にベッドが5つ、マッサージチェアが2つ。 その奥にはベランダがあって、よく見ればプールまである。 「……広い、ですね」 「元々立地が良いからな〜。ベッドもチェアもテレビもプールも、使い放題だよ」 「使う人、いるんですか……?」 「失礼な言い方だな。結構利用してるぞ、皆」 額を小突かれ、キッと軽く睨んだ。 陽気な雰囲気を漂わせる松本さんには気づかれていないようで、「ついでに宿泊棟行くぞー」と肩を叩かれる。 人に触れられるのが好きじゃないせいか、松本さんのスキンシップには一々鬱陶しく感じていた。 「こっちが宿泊棟な。ああ、階段には気をつけて」 「……大丈夫です」 「ま、最初から宿泊係のヘルプが入ることはないだろうけど、いざという時に迅速な対応できるから覚えといて」 「はい」 チェックアウトは11時。 連泊客以外は既に出発している宿泊棟は、シーツや散らばった物が廊下に放り出され掃除の真っ最中だった。 「宿泊客がチェックインする前に一度フロントスタッフが客室の見回りをするんだ。ベッドメイクだけでは見落としている可能性があるからな」 松本さんのパーマがかった黒髪が微かに揺れている。 若干センターで分けられた前髪はサイドに流れ、細くキリッとした眉がその存在を主張する。 目鼻立ちの整った人だな。 歳は、20代後半くらいだろうか。 「椎名? 聞いてるか?」 「ッ! はい。すいません」 「客室見終わったら事務所に行くぞー」 「……分かりました」 自分を保っていなきゃ駄目だ。 流れに呑まれたらいけない。 緊張するな、俺。

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